2022.12.13 友人に請求されて「カーン・ケインズ過程の微細構造」『経済学雑誌』(大阪市立大学)第83巻第第3号48-64頁を探し出した。ついでだから、ここに公開することにした。わたしが大阪市立大学に移って最初の論文だが、現在のShiozawa, Morioka, and Taniguchi (2019) Microfoundations of Evolutionary Economicsの最初のきっかけとなったもの。この論文の定式では、半自動的な数量調整過程は発散している。これではものにならないが、もっと複雑な予想形成にしても収束を証明するのは難しすぎるとわたしは諦めた。それを谷口和久が計算機上のシミュレーションで過程の収束を示してくれ、森岡が線形の場合には一般に収束することを示してくれた。
2022.12.8 Philip Georgeの"Giant blunder"論文についてRWERの共同編集者の一人Jamie MorganにResearchGateを通して文句をいったところ、時間ができたら読むと答えてきた。他にもいろいろあって忙しいことは分かるが、自分が主宰している雑誌の危機なのに、のんびりしたものだ。
2022.12.4 Review of Keynesian StudiesのThe Principle of Effective Demand: a New Formulationは、辛くも11月のトップを維持したようだ。このサイトからアクセスしてくれた人がいたのなら感謝。RWER Blogの Jef Ferry Free trade theory fails correspond to realityへコメント。< と > を使ったら、タグ扱いになり、式がめちゃめちゃ。すぐ下の修正も読んで。
2022.22.21 買いもの。本棚でぐうぜん Bernard Paulré (1985) La Causalité en Economie / Signification et porteé de la modélization structurelle. Presses Universitaires de Lyon, Lyon を見つける。こんな本を買っていたという記憶はないが、もう20年もまえから因果性(causailty)に関心があったのだろうか。
2022.11.9 Cambridgeで一緒だったMaria Cristinaが相棒のAnnalisa RosselliとOn Sraffa's Challenge to Causality in Economicsという論文を書いている。Ajit Sinha編のA Reflection on Sraffa’s Revolution in Economic Theoryという本の1章だ。Sraffaが"a struggle to escape from 'mechanical', i.e. causal theory"というのが主旨だ。SraffaはSchrödingerの"Indeterminism in Physics"(1931)という論文を読んでいたようだ。当時の人たちが量子力学の出現にいかに影響を受けていたか、よくわかる。同様の影響はSchumpeterにもみられる。しかし、因果性を決定論と直結させることには大きな問題がある。確率的因果というものも考えられるからだ。Sraffaはmechanical theoryにgeometrical representationを対比し、differenceとchangeの区別にこだわっていたという。それがたとえSraffaの1960年の本に繋がったとしても、経済学をcausalなものとして組み立て直すという研究方針は変えるべきではないだろう。
2022.11.8 Full cost原理といっても、わたしが理解しているものとは相当にちがう解釈があるようだ。そのことに驚き。
2022.11.7 ある論文を読んでいたら、Nubbemeyer, E. (2010) A Reconsideration of Full-Cost Pricing. Doctoral thesis presented to Ludwig-Maximilian-University Munchen.という博士論文が紹介されていた。この第1章は、full-cost principleの発見から追跡調査、限界理論の対応と反応の歴史が懐疑的な立場から扱われている。2010年という時点での考察だけあって、わたしの知らない事情を含めて、総覧するにはとても便利なものとして紹介しておきたい。ここに触れられていない事情としては、わたしが知っているのは、Lesterの提出論文に対するMachlupの偏頗な対応ぐらいである。第1章についてあえて注文を付けるとすれば、Joël Deanなどのcost function計測の意義をもうすこし掘り下げてほしかったくらいである。ただし、第3章などの考察は、限界理論との対比のためとはいえ、需要変化のあり方について、なお新古典派的な想像野の内部にあるような気がする。
2022.7.25 おととい、ぐうぜん自販機でトマトジュースを飲んだ。何十年ぶりかで懐かしい味がした。学生時代にはトマトジュースは、まいちにとはいわないまでも2〜3日に一度は飲んでいた。さいきんは、1L入りの紙パック入りのものを飲んでいたが、自販機のトマトジュースは塩味の効きかたがまさに50年以上前の学生時代のものと同じだった。なぜさいきんは自販機のトマトジュースを飲まないのか気になって、散歩のついでに調べてみた。分かったのは、まず置いてないのだ。アサヒ飲料の一部の自販機にしかないようだ。コカコーラ、サントリー、サッポロ、ペプシ、伊藤園などを見たが売っていない。
こんな些細なことを長々と書いたのは、これが買い方のひとつのあり方だからだ。自販機で飲み物を買うときには、ほとんどそこに売られているものの中から買う。まったく受動的な買い方だ。つまり買う前に、買いたいものが確定していない。だいたいの種類(と価格帯)だけが頭の中にあり、あとは反射だ。
この連想で思い出したのが、新貿易理論の出発点のひとつとなったKrugmanの論文だ(Krugman Intraindustry Specialization and the Gains from Trade, 1981)。ここでKrugmanは、製品多様性への消費者の嗜好(consumers' taste for a diversity of products)という概念を用いている。いわゆるDixit-Stiglitz utility functionだ。これは任意の予算制約式について、各種の財の混合バスケットをあたえる。しかし、むかし書いたことだが(Estimationg Optimal Product Variety for Firms)、こういう嗜好は新古典派の枠組みでは扱いやすいが、個人個人によって異なる好みをもつ場合は扱えない。
これも「理論の必要」によって仮定が選択されるひとつの事例だ。
2022.7.22 コルナイの自伝をようやく読み上げた。意外に早くから社会主義の「改革」路線に見切りを付けていることに驚いた。わたしにとっての「収穫」(?)は、やはり第10章「価格に挑む」すなわち『反均衡』を採りあげた章だった。わたしたちの本の出発点を記したものだが、2005年時点でこの本の成果についてコルナイが意外に弱気であるのには驚いた。この本の延長上での成果がほとんどなかったと自己評価している。ポジティプな影響としてTversky and Kahnemanの行動経済学を引いていて意外だった。我々の本のような展開が出てきていることを知ってもらえれば、もっと違った評価になったとおもわれる。残念だが、仕方がない。
2022.4.21 Googleのサービスのひとつに引用通知がある。自分の論文がどこかで引用された場合に知らせてくれる便利なものだが、今日の通知は「代作」業者のSample paperだった。
-Shiozawa, Y. (2007). A New Construction of Ricardian Trade Theory?A Many-country, Many-Commodity Case with Intermediate Goods and Choice of Production Techniques. Evolutionary and Institutional Economics Review, 3(2): 141-187. -Fujimoto, T. & Shiozawa, Y. (2012). Inter and Intra Company Competition in the Age of Global Competition: A Micro and Macro Interpretation of Ricardian Trade Theory, Evolutionary and Institutional Economics Review, 8(2): 193-231. の二本が引用されていたが、知らずに本文を読んでみたら、論文の内容とほとんど関係ないことがわたしの主張(Shiozawa 2007)として参照されていた。代作は、高校レベルからPhD論文まであるようで、この見本論文はどのレベルのものだろうか。修士ぐらいのterm paperとしてなら、指導教員がいそがしいか何人も指導している場合、専門をすこし外れれば通ってしまうかもしれない。今日はたまたま毎日新聞の「科学の森」(15面)に「国民の安全帯や巣か「研究不正」」という記事が載っている。林正男氏の「白楽の研究者倫理」というウェブ・サイトにこの3月16日に不正論文記事が1000本になったことを機会になされた鳥居真平記者のインタビュー記事だ。いろいろな不正の種が学生時代から撒かれているということだろう。トランプやプーチンのFake! にもつながっていよう。
2022.4.6 CoreEconチームの The Economy のどこに不満か。基本はBolwesの「ポストワルラシアンの進化社会科学」という構想への疑問に重なる。そのことはBowlesの『制度と進化のミクロ経済学』「訳者あとがき」に書いた。あのときはまだ「ポストワルラシアン」という形容詞の意味に半信半疑だったが、けっきょく基本はワルラスでよいが、いくつかの強い仮定を緩めていけばじゅうぶんな経済学になると考えているのだろう。 The Economy がそれを証明してしまった。
2022.4.5 ColanderがRWER 91に載せた論文にこう書いている: Economics has always had an underlying tension between two visions of economics. One is an equilibrium vision ... The other is a complexity vision... こういう視点はなかったが、指摘されてみればその通りかも。反均衡と複雑系とは深いところで繋がっていたのだ。パラレル・ヒストリーの新しいテーマでもある。
2022.2.2 Robertsonの恒等式の周辺をさぐっていたら、Hideo AoyamaのA Critical Note on D. H. Robertson's Theory of Saving and Investment (I) and (II)が期間分析の方法的諸問題についていろいろ議論していることを発見。これでだいぶ議論の種が増えた。
2021.12.3 PK研での報告のためにJ. E. King (2012) The Microfoundations Delusion を読んでいる。PKや他の異端派経済学者たちが、このテーマをめぐっていかに四分五裂していたかはよくわかったが、肝心のあるべきmicroeconomicsについての考察がまったく深められていない。
2021.11.23 今年のノーベル物理学賞は真鍋叔郎教授ほか2名でしたが、その献辞は"“for groundbreaking contributions to our understanding of complex physical systems.”でした。つまり「複雑物理系の理解に関する草分け的貢献」に与えられました。ノーベル賞が複雑系関係の貢献に与えられたのは、経済学賞のH. A. Simonに対するもの(1978)以外にはありませんでした。おかげで複雑系への社会の関心が復活してか、『増補 複雑系経済学入門』もすこし売行きが回復しているようです。