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ミクロ・マクロ・ループについて
塩 沢 由 典 .
書誌情報
「ミクロ・マクロ・ループについて」『経済学論叢』(京都大学)第164巻第5号(1999年11月刊予定)、2000年10月(実際の出版時)、pp.1-73.
各氏に引用されていますが、原文に当たるのが難しいと指摘されています。便宜的に完成稿に近い全文を掲載しました。校正前の原稿です。引用の際は原文に当たってください。(2006.11.24)
目次
1.はじめに
2.先行する議論
3.ミクロ・マクロ・リンク
4.ミクロ・マクロ・ループの例
4.1戦後日本の成長経済と日本的経営
4.2金融市場のミクロ・マクロ・ループ
4.3圧力経済と吸引経済
5.ミクロ・マクロ・ループ/再定義
5.1ミクロの世界
5.2マクロの世界
5.3相互規定のループ
5.4ミクロ・マクロ・ループと時間尺度
5.5ミクロ・マクロ・ループの含意と課題
5.6社会学におけるミクロ・マクロ・ループ
6.制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」
7.複数均衡とミクロ・マクロ・ループ
補注
参考文献
1.はじめに
経済学の基本設計を考えるにあたって、行動と総過程の相互関係に注意を払う必要がある。わたしは、1995年、それを「ミクロ・マクロ・ループ」という表題のもとに主題化することを提案した[1]。ミクロ・マクロ・ループは、方法論的個人主義と方法論的全体主義の二元対立を乗り越える新しいアプローチを示唆している。この提案は、アイデアの分かりやすさと方法論上の意義のために、何人かの研究者の注意を引くことになった[2]。
現在では、「ミクロ・マクロ・ループ」は、この種の議論においてほぼ標準的に使われる用語となっている。ひろく受け入れられたすべての術語と同じく、「ミクロ・マクロ・ループ」という用語も、わたしの当初の意図とは離れたもちい方をされるようになっている。著者たちは、この語を手掛かりに自分たちの問題を考え、この主題を発展・展開させる意図をもって概念を改変してきた。原則として、このことは歓迎すべきことである。いかなる提案といえども、それがよい提案であれば、提案者の手から離れたとき、それはそれ自体に独立した運動を展開する。そして、このような動きにつねに起こることであるが、「ミクロ・マクロ・ループ」についても、それが本来もっていた含意が否定されかねない用法と概念化がときになされている。この点については、わたしにもいくらかの責任がある。わたしの最初の提案は比較的簡単なものであった。ごく大づかみの考えが提示されただけで、その背後に考えられていたさまざまな関連が明示されないままであった。そこで、もういちどこの主題について、本格的に論じてみたい。これまで「ミクロ・マクロ・ループ」ないしはそれに類似の表題でなされてきた議論についても、わたしが分かっている範囲で簡単に触れる。それらの議論とわたしの考えているミクロ・マクロ・ループとの異同を明らかにすることも、ミクロ・マクロ・ループという考えを明確なものとするのに必要と思われるからである。
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2.先行する議論
塩沢由典(1995)において、わたしが「ミクロ・マクロ・ループ」という用語を初めて取り上げたとき、その語が具体的にどの文献に使われているか、明確な記憶があったわけではない。わたし自身、その場で「「ミクロ・マクロ・ループ」という言葉は、システム論関係ではいろいろな人が使っているので、わたしの造語ではありません。しかし、経済学の基本設計として、こういう話をするのはここが初めてで、本邦初公開です(笑)。」(塩沢、1995、p.3あるいは塩沢、1997、pp.114-5)と書いているように、どこかで読み知った語と考えていたことは確かである。のちに分かったことから判断するに、わたしがこの語を記憶にしまったのは今井・金子(1988)においてであったと思われる。そのことを明示し、異同をはっきりさせておく必要があった。それをしなかったため、いらぬ誤解が生ずることになった[3]
今井・金子(1988、pp.216-7)に示唆されているように、この用語は、今井と金子の創作のように思われる。その原型は、清水博の「ホロニック・ループ」という概念にあるが、今井と金子はそれがもっている多義性を嫌って、「ネットワークに脈絡をつける」メカニズムとして「より具体的・記述的な」「ミクロ・マクロ・ループ」という表現を使用すると説明されている。
「ホロニック・ループ」という表現は、文献に挙げてある3点の内では清水博(1988)に初出する。清水博(1978)には、「マクロとミクロの間のフィードバック・ループ」(p.134、派生的な表現としてp.133の図22の解説およびpp.175-6がある)という表現があり、ミクロとマクロの間のフィードバックの仕合いとして「フィードバック・ループの回転」(p.134、またp.247およびp.253を見よ)という表現も使われている。清水博(1984)には、「秩序形成のフィードバック・ループ」(pp.51,54,56,77,派生的表現としてpp.64,76)という表現が使われている(なお、この表現は清水博、1978、p.257にも見られる)。しかし、そこには「ホロニック・ループ」も「ミクロ・マクロ・ループ」という表現は見当たらない。「フィードバック・ループの回転」という表現は、清水博に特有のものであるが、それは今井・金子(1988)でも「ミクロ・マクロ・ループが早く回れば」(p.84)といういう表現に引き継がれている。
清水博より以前に、「ミクロ・マクロ・ループ」の考えを定式化した人がいるであろうか。観念の類似性という点でいえば、さまざまな著者が考えられよう。谷本寛治谷本(1998、pp.20-21)は「ミクロ・マクロ・リンク」と「ミクロ・マクロ・ループ」を区別せず、そうした捉え方をハーケン(1980)が最初に示したと指摘している。ハーケンがミクロとマクロの間の非線型な相互作用をモデル化し、研究していることは確かであろう。しかし、そこには「ミクロ・マクロ・リンク」ないし「ミクロ・マクロ・ループ」という表現は見当たらない。かれは「秩序パラメータ」や「隷属化」「自己組織化」といった概念を用いている。それが「ミクロ・マクロ・ループ」という主題につながるためには、さらに何段階かの飛躍が必要であろう。その意味で、ハーケンにミクロ・マクロ・ループの原型が見られるというのは、やや早急な判定といわなければならない。その程度に類似の観念を求めていくなら、他の多くの著者たちにも同じことがいえるであろう。谷本は、観念の原型を求めるのにいそがしく、多くの断絶を無視している。谷本がハーケンの中に見ているものは、むしろ後に構成された概念であると考えた方がよいと思われる[4]。
ある表現の起源を完璧に探ろうとすれば、一定の日付以前の過去に発表されたすべての文献にあたらなければならない。そのようなことが不可能であるとすれば、起源の探索は不十分のまま打ち切らざるをえない。とはいえ、状況証拠からいえば、「ミクロ・マクロ・ループ」の起源が今井・金子(1988)にあるといってほぼ間違いないであろう。著者たちがその語の採用・使用に言及しているし、かれらが示唆を受けた清水博には「マクロとミクロの間のフィードバック・ループ」などの類似の表現が散見されるものの「ミクロ・マクロ・ループ」という表現そのものは見当たらないからである。わたしは、ここでは「ミクロ・マクロ・ループ」という表現は、今井・金子(1988)が考案・採用したものと考えておきたい。それ以前の用例があれば、もちろん、この暫定的な言明は訂正されなければならない。
さて、今井・金子による「ミクロ・マクロ・ループ」は、次のように定義されている。
「ミクロ・マクロ・ループとは、ミクロの情報をマクロ情報につなぎ、それをまたミクロレベルにフィードバックするという仮想上のサイクルのことである。」(今井・金子、1988、p.80)
しかし、この定義では、今井と金子がなにを言おうとしているか分かりにくい。やや長くなるが、「ネットワーク全体の脈絡」を形成するメカニズムについて今井と金子が語るところを追ってみよう。今井と金子のミクロ・マクロ・ループの特徴は、この文脈において、一番よく現れているからである。
「構成員各自の主体性と自発性に基づいたミクロレベルの行動の集まりが、自己組織的にマクロレベルのまとまりを生むようなメカニズムを備えているネットワークを「脈絡のとれたネットワーク」と呼ぶことにしよう。「脈絡」というのはこれまで「マクロの秩序」とか「全体のまとまり」とか表現してきたものと同じである。脈絡のとれたネットワークという言葉でわれわれが表現したいものを改めていうなら、多様な文脈を持ち、各構成員はそれぞれ自分の選んだてんでんばらばらの方向を向いているのであるが、しかし、全体として何かしら一脈通じている、カオス的見かけにかかわらずその背後に何かしらの統一的なコンセプトがあると感じられる集団のことである。ネットワークに脈絡をつけることの鍵になるのが本書でこれまで何回か登場したミクロ・マクロ・ループという概念である。」(今井・金子、1988、p.216)
「構成員の自発的行動がネットワーク全体の脈絡を生成するには、マクロレベルとミクロレベルの間に相互作用のサイクルが成立することが必要だ。つまり、全体の脈絡は個々の解釈を束ねて構成されたものである一方、個々の解釈を形成するのに全体の脈絡が必要だというサイクルである。このサイクルが本章の始めの方で検討した自己解釈過程そのものであり、それを実現するメカニズムがミクロ・マクロ・ループであるというわけだ。ネットワーク構成員はこのミクロ・マクロ・ループをもっていて、各自が主体的に行動する中にも、そこには全体の雰囲気とか共通意識とかいうマクロ情報を常に察知しながら自らの行動を調整するというメカニズムがあることが、ネットワークに脈絡がつくための必要条件である。」(同前)
ネットワーク組織の全体と個々の構成員との間に全体の脈絡を作りたすメカニズムとしてミクロ・マクロ・ループが考えられている点は、のちに詳しく展開するようにわたし自身のミクロ・マクロ・ループと同型である。しかし、このメカニズムが、もっぱら情報的ないし概念的な側面で考えられているところが今井と金子のミクロ・マクロ・ループの特徴である。マクロに属するものとして、全体の脈絡、全体の雰囲気、共通意識、マクロ情報といった観念が引き合いにだされ、ミクロに属するものとしては、個々の解釈、みずからの行動が言及されている。解釈が行動を規定するものとの判断があるのであろう。このような関連のなかで全体と個々の自己との間に行われる「自己解釈過程」を実現するメカニズムとしてミクロ・マクロ・ループが考えられている。ミクロとマクロの間に行き交うものは、ごく広くとれば「情報」であり、もうすこし限定すれば事態に関する「理解」であり、情報をもとにする状況の「判断」であろう。今井と金子のネットワーク論は、かれらのいう「上層情報観」(p.30、ヒエラルヒーの上部にあるものに重要な情報が集まっているという組織観)を否定し、具体的で個別な事柄にかんする「場面情報」を重視し、それらが連結されて自発的に関係が形成され、「ミクロからマクロが形成されてゆく」(p.53)ような組織化の方法論としてある。これはかれらが基本的に(ヒエラルヒー組織であれ、ネットワーク組織であれ)人間の集団の組織論を考えている以上、当然のことであろう。しかし、わたしがミクロ・マクロ・ループという表題のもとに考えるミクロとマクロの相互関係とは、これはその意味内容においても、そこに考えられている関連においても、大きくちがうものである。わたしの「ミクロ・マクロ・ループ」論については、後の§5で主題的に議論するので、ここでは簡単に差異のみに言及するに止めざるを得ない。わたしのミクロ・マクロ・ループでは、今井たちが想定する「マクロ情報」ないし「全体の文脈」といったものは考えられていないし、ミクロにおいても、基本的には個々の主体の行動に焦点が当てられていて、個々人の理解や判断は直接には考察対象となっていない。
わたしが「ミクロ・マクロ・ループ」という表題で、方法的個人主義と方法的全体主義を乗り越えるきっかけを得ようとしていたとき、先行する用例ないしこの用語の創始者として今井・金子(1988)を明確に意識していたとすれば、この差異には、いくら短い言及のなかであっても欠かさなかったに違いない。その注意を怠ったために、この概念について、たとえば松井名津(1998、p.40)のような誤解を生んだことは、あげてわたし自身に責任があるといわなければならない。
上に引用した箇所に続いて、金子と今井は、このようなミクロとマクロの関連の在り方についてイメージは、清水博や津田一郎に負うとして、次のように述べている。
「われわれの、ネットワークの脈絡に関するこれらの議論は、清水博(東大)や津田一郎等の生物や脳の働きに関する議論に負うところが大きい。たとえば、清水は「生命現象の核心にはマクロとミクロの間のフィードバック・ループが存在している」としてこのループのことをホロニック・ループと呼んでいる。われわれのいうミクロ・マクロ・ループは基本的にはこのホロニック・ループと同じものであるが、「ホロン」という言葉がすでにさまざまな文脈で使われていて、清水が使ったその本来の意味とは別のニュアンスで誤って使われることがあるという状況を考えて、本書ではより具体的、記述的な「ミクロ・マクロ・ループ」という用語を使用している。」(今井・金子、1988、pp.216-7。重引部分は、清水、1978、p.138)
この節の最初に述べたように、清水博の用語は論文とともに移動しており、同一の現象がさまざまな表現をもって語られている。今井・金子(1988)の「ミクロ・マクロ・ループ」は、清水博(1978)の「マクロとミクロの間のフィードバック・ループ」を短縮したものと考えてよいであろう。清水は化学レーザーの発光を説明したあとで、その機構を整理して、そこにはふたつの関係が見られると指摘する。ひとつは化学反応で「個々のミクロな反応が集まって、レーザーというマクロな系の秩序状態を決めている」関係であり、もうひとつはそれとは逆にマクロな秩序によってミクロな反応が支配されることになる関係である。これを清水は図1[清水、1978のp.133、図24]のようにまとめている。その図の見出しには「ミクロな状態とマクロな状態の間のフィードバック・ループの回転」とある。このような関係は、もちろん清水博が最初に発見したのでも、解説したのでもない。谷本が指摘するようにハーケン(1980)にもあるレーザーの発振機構の分析である。この自己触媒作用をハーケン(1985、p.76)は「新しい原理」の表題のもとに再整理して、それらが「支配者の存在とその隷属関係の概念にぴったり適合する」としている。清水博(1978)がこの考えの影響を受けていることは清水の表現からも推測される。しかし、ハーケン自身が説明するように、このような物理・化学現象はレーザー、液体中の流れ、化学反応などになどに共通する自己組織化の機構であり、それらはプリゴジンらにより散逸構造理論として研究されてきている。清水博(1978)の貢献は、これらの解説にあるのではなく、そのような現象を「ミクロな状態とマクロな状態の間のフィードバック・ループ」といった形で表現することにより、他の分野への類推を容易にしたことであろう。
わたしのミクロ・マクロ・ループは、簡単にいうなら、清水が化学レーザーの発振機構の説明における「ミクロな状態とマクロな状態の間のフィードバック・ループ」と同じ意味のものである。清水博(1978、p.174、p.176)では、フィードバックは「互に影響を与え」るとされていて、フィードバックされるものがかならずしも情報であるとはされていない。ところが、今井・金子(1988)では、それがミクロレベルとマクロレベルの情報・理解・意識の双方向的なやり取りという意味に変形されてしまっている。脈絡のあるネットワークの構築という主題から、ミクロ・マクロ・ループの概念が、このような特殊な側面で使用されたことは理解できる。しかし、それが自己組織化の一般的な機構を示唆するミクロ・マクロ・ループの標準的な概念とされてはならいないであろう。
今井と金子がこの概念をこのような特殊な限定においてもちいたことには、清水博(1978)にも責任がある。化学レーザーの原理を説明し、ミクロとマクロの間のフィードバック・ループの回転に触れたあと、清水はそれを人間と社会の関係に見立てている。個々人の意見がまちまちのとき、なにかの拍子でかなり多数の人の意見がそろうと、急速に世論が形成されひとびとの意見を支配するようになるという事情がレーザーのコヘレント振動形成と類似的であるというのである(清水、1978、pp.133-4)。たしかに、ウィーナーが強調したように、「フィードバック」そのものに情報としての性格があり、清水博(1984、p.52)にも「フィードバック・ループのなかで回っているもの、それは広い意味の情報です。」などという注意がある。だが、これはあくまでそこに発現している物理過程を解釈してみれば情報としての側面が強いということに過ぎない。
経済学ないし社会科学一般の方法論として必要なミクロ・マクロ・ループは、後に説明するように、個人が抱いている表象や意見の交換に止まるものではなく、個々の主体の行動と経済の総過程の間にある双方向的ないし円環的な規定関係全般にわたるものである。この点に、今井・金子(1988)のミクロ・マクロ・ループとわたしのそれとの間のもっとも大きな違いがある。ミクロ・マクロ・ループを今井・金子流の「情報」のやりとりに限定してしまっては、方法論的個人主義や方法論的全体主義を超える社会過程の新しい見方とすることはできない。
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3.ミクロ・マクロ・リンク
「ミクロ・マクロ・ループ」に類似の用語として、「ミクロ・マクロ・リンク」がある。ひとによっては、これらは互換可能なものとしてほぼ区別されることなく使われている[5]。しかし、これは用語の類似性から生まれた混乱に過ぎず、両者を混同することはできない。
ミクロ・マクロ・リンクは、社会学理論のある主題に与えられた標語である。その主題は、社会学がミクロ理論とマクロ理論とに分裂したときにまで逆上れる。「ミクロ・マクロ・リンク」という主題のシンポジウムを企画・編集したアレクザンダーとギーゼン(1998、p.19)によると、マルクスとデュルケームの「マクロ側に一面的に加担した強力に論争的な議論」に対し、ミードやフロイトや合理的アプローチがミクロ的要素を重視した社会学が現れた。ミクロ・マクロ・リンクは、このように分裂した社会学の現状に対し、それらを統合する理論を形成しようという構想ないし主題に付けられた名称であり、アレクザンダーらによると、最初にウェーバーが、ついでパーソンズがそのような偉大な挑戦を試みたという。しかし、それは成功しなかった。そのため、ミクロ・マクロ・リンクという課題は、パーソンズ以降にも残された。1980年代におけるこの主題のシンポジウムは、ドイツとアメリカの社会学会の理論部会の後援により西ドイツで開かれている。類似の主題による編著としてはKnorr-Cetina & Cicourel(1981) がある。このような関心は、日本の社会学者にもあり、たとえば富永健一(1997)には、「組織理論におけるミクロ−マクロ・リンク」(p.157-9)および「組織理論におけるミクロ・レベルとマクロ・レベルの統合」(pp.165-6、さらにpp.186-201をも参照)という主題が自分自身の課題として明示されている。また、八木紀一郎(1999b)は、主として社会的交換理論におけるミクロとマクロの関連を考察するところから、経済におけるミクロ・マクロ・リンクについて考えようとしている。
これらの議論において顕著なのは、ミクロ理論とマクロ理論の分裂という学問の現状にたいする不満とその両者を統合した理論が形成されなければならないという目標とにおける一致である。このような統合への希求は、ミクロ理論である交換理論とマクロ構造理論とをふたつの異なる視点に基づく補完的な理論であると主張し、そのかぎりで分裂状態に不満のないP.M.Blau(1987、p.84)によっても間接的に表明されている。
これに反して、統合がどのようになされるのか、その結果、なにが生まれるのかに関しては深い議論がなされていない。多くの参加者の関心は、方法論的個人主義や合理的選択理論を相対化するどころか、マクロ現象のミクロの行為の結果として説明するために、それらの枠組みをいかに用いるかに集中している。Boudon(1987)、Wippler & Lindenberg(1987)、Coleman(1987)、アレグザンダー(1998)、などがこのグループに属する。かれらはマクロ的現象のミクロ的説明を中心課題として設定し、それぞれ異なる構想をもちながらも、その解決に向けた研究プログラムを提出するに終わっている。Coleman(1987、pp.157-8およびp.171)が明示的に述べているように、その適応条件については大幅な留保をおきながらも、その基本的な志向は完全な交換市場における新古典派経済学をモデルとするものに他ならない。Coleman によれば、社会学の説明は、詰まるところマクロ・レベル間で観察される関係をいったんミクロ・レベルに引き降ろして敷延することにある。同様の定式化は、やや異なる形でBoudon(1987、p.46)によってもなされている。Boudonは、それをM=M(m(S(P)))という合成関数の形に表現する[6]。ここでMは説明を要するマクロの社会現象である。これが諸個人の行為mの結果としてあり、その行為mが社会状況Sにより説明され、さらにそれがより上位のマクロ社会的変数Pの結果であるとして説明するのが社会学における個人主義的パラダイムの基本型であるという。のちにみるように、それらの議論には参考にすべきいくつかの示唆があるものの、方法論的個人主義を反省する契機としてミクロとマクロの接合を考えようとするものではない。
やや微妙な議論をしているのはコリンズ(1998)である。かれはマクロ構造の(ミクロ還元ではなく)「ミクロ翻訳」の理論的有益性を強調しながらも、ミクロに対するマクロの影響を議論し、マクロ構造の優先性についても力説している。だが、それによって、コリンズがミクロ翻訳という研究プログラムを放棄するわけではない。マクロ構造を作りだすものとしての所有権を媒介にして、むしろミクロ翻訳の有効性を再確認するためにこのような迂回をしているのである。もうひとつユニークな位置の取り方をしているのはP.M.Blau(1987)である。Blauは、ホワイトの影響のもとに、政府官僚を研究する中から交換理論に興味をもち、それを初期の中心的仕事としている。交換理論は、それが厳密に社会的現象で社会学的分析に適していること、公理的扱いが可能であり、厳格な仮説演繹理論の構築が可能であることに、その特徴があるとかれはいう(Blau、1987、p.73)。このような考えの終点には、社会構造のマクロ社会学理論のミクロ社会学的基礎として交換理論を用いることができるのではないかという期待がある。Blauはそのような期待をもっていたことを指摘したあとで、結局そのような試みに大きな成功を収めることができなかったこと、マクロ社会学理論の構成に当たってミクロ的基礎の構築から始める接近法とミクロ理論とマクロ理論とには異なる展望と概念枠組みとが必要と仮定する接近法とがあり、後者の接近法の方が社会学の現状では可能性のあるものという結論にたっしたと回顧している(同、p.74)。
方法論的個人主義と還元主義とに明確な反対を唱えている論文もないではない。とくにミュンヒ(1998)は「ミクロレベルとマクロレベルのあいだの相互関係をもっぱら[強調はミュンヒ自身]《ミクロ相互作用のなかにおけるマクロ構造の自然発生的創造》とみなしている」ことを批判するという根底的なものである[7]。その考察のなかには、わたしのいうミクロ・マクロ・ループに類似の関係が含まれている。パーソンズのA,I,G,Lという行為の領域の4分類にしたがって議論されているのだが、その際、ミクロ相互作用とミクロ構造との間の相互関係が語られている。しかし、ミュンヒはこの関係を明確に名付けることなく、一般的な「相互関係」という言葉で済ましている。ミクロ・マクロ・ループという関係が十分な形で主題化されず、議論の中心は領域をまたぐ関係(相互浸透)に置かれている。Giesen(1987、pp.337-8)も、還元主義を乗り越える方向を模索している。かれによれば、ミクロ・マクロ問題は、初期には両者の関係に焦点を当てるよりも、種々のことなる還元主義の間の対立としてあったが、しだいに両者の関係そのものに関心を示すようになってきたと整理している。じっさい、Giesen(1987) の第3節は、個人主義的還元、Giesenのいう「調整モデル」(model of coordination)に対する透徹した批判であるとともに、その言語論的、権力論的批判に対するより高次の立場からの痛切な批判でもある(Giesen、1987、pp.340-7)[8]。これら批判の先にあるべき理論の構想として、Giesenは進化論的代案を提案している。そこには、マクロ構造とミクロ過程の連関(リンケージ)として「状況」の概念が置かれるなど、わたしのミクロ・マクロ・ループ論ときわめて近接した理解が示されている。しかし、ミクロとマクロの連接のためになぜ状況という中間項が必要なのか、Giesenは理論的に説明しえていないし、ミクロとマクロの連接の理論的な焦点をも明らかにしていない。
ミクロ理論とマクロ理論のリンケージには、このような多様な考え方が存在している。
社会学におけるミクロ・マクロ・リンクという主題が統合という課題以上の具体性をもたないことがここによく現れている。もちろん、このことは、ミクロ・マクロ・リンクという主題のもとに議論されている内容が無内容であるとも、ミクロ・マクロ・ループという主題と無関係であるとも意味するものではない。いくつかの論文には、ミクロ・マクロ・ループに近い考えが含まれているし、他の論文にはミクロ・マクロ・ループについて考えるにあたって示唆的な論述がある[9]。ミクロ・マクロ・リンクはきわめて一般的な主題であり、その中にミクロ・マクロ・ループという主題も入るということはできる。しかし、そのように焦点をぼやけさせてしまっては、問題を掘り下げることはできない。ミクロ・マクロ・ループは、方法論的個人主義と方法論的全体主義の双方に異議申し立てをする論拠を提示する明確な議題設定である。両者を互換的なものとして扱うことはできない。Giesen(1987、p.337)はミクロとマクロとの関係の問題が「激しい哲学的敵対から冷めた研究計画へと進歩してきた」と概観しているが、ミクロ・マクロ・リンクがいまだ両者の関係を巡る一般的指向性を示すものに止まっているのに対し、ミクロ・マクロ・ループは経済過程という狭い領域におけるとはいえ、理論の基本設計を組み替える具体的な構想である。
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4.ミクロ・マクロ・ループの例
ミクロとマクロを対比することは、社会科学においてありふれたものである。しかし、M?nch & Smelser(1987)が列挙するように、その意義は多様に解釈されている(pp.356-7)。ミクロ・マクロ・ループにかんする言明を明確なものにするためには、説明の順序として、まず「ミクロ」と「マクロ」という用語で意味されるものをより明確にしなければならないだろう。しかし、わたしが考えるミクロとマクロとは、ある明確な方法的意識によって構成されたものであり、その説明には長い叙述を要する。ミクロ・マクロ・ループについて具体的なイメージをもつ前に、そのような一般論を長々と展開したのでは、読者には退屈極まりない話になるであろう。また、それが指し示す事態がどのようなものかイメージを捉えにくいに違いない。そこで、説明の順序を逆にし、本節では、経済学の主題の中からミクロ・マクロ・ループの具体的な例を3つ取り上げて説明する。その後、第5節において、わたしが考えるミクロ世界、マクロ世界、およびその間に取り結ばれるミクロ・マクロ・ループという事態についてより一般的な説明を加えることにしたい。
4.1 戦後日本の成長経済と日本的経営
この例は、すでに塩沢由典(1999a,pp.41-2)に簡単に触れたことがある。磯谷明徳(1999b)にも取り上げられている。ここでは、のちの説明に合わせてやや詳細にかつかなり図式的に説明する。
1950年から1990年までの日本経済は、簡単にいえば高い成長率の時代であった。この時代を2期に分けて、1974年までを高度成長期、1975年以降を安定成長期と呼ぶことがある。そのような質的転換が1970年代なかばにあったことは認めなければならない。しかし、安定成長期といえども、ヨーロッパや北アメリカの資本主義諸国に比べれば、日本は比較的に高い成長を遂げていた。その意味では、この40年全体を成長経済の時代ということができる。
この時代のマクロ経済は、次のような特徴をもっている。
(1)高い実質成長率(前半はほぼ8%以上、後半は4%程度)。
(2)景気後退が短く軽い。
(3)実質平均所得の急速な上昇。
この3点は、同じ事態を別の側面から見直したものといってもよい。いずれにしても、経済全体としてほぼ順調に成長し、その結果として平均所得の上昇が実現し、それがまた需要を喚起して一層の成長を招くという好循環があった。
同じ時代に、日本企業の多くは、いわゆる「日本的経営」と称される慣行にしたがって運営されていた。その特徴はいろいろ上げられるが、つうじょう次の3点にまとめられている。
(1)終身雇用制。
(2)年功序列・賃金制。
(3)企業内組合と労使協調。
このうち(1)、(2)はすでに1930年代には始まっていたといわれるのに対し、(3)の労使協調は、ようやく1960年代に確立するものである。このようにその成立期にはいくぶんのずれがあるが、これら3点が戦後日本の雇用・労使慣行の特徴をなしていることは多くの人が認めている。
ところで、これら両者のあいだにはどのような関係があるのだろうか。開放経済下に相対的な低賃金と比較的高い技術水準をもった日本企業は、アメリカ経済を坂の上の雲として急速な追い上げを行った。先行経済における商品構成や主要技術はほぼ見えていたから、それらを改良・改善し、安定した品質の商品をやすく供給することが世界市場においても国内市場においても成長の主要な要件であった。日本的雇用慣行と労使協調は、このような要請にうまく対応した。合衆国で成立した品質管理は、日本に入って検査工による検査・統計的管理から、作業工による自主検査と工程管理へと変形されたが、このような管理が可能となった背景には日本的雇用慣行と労使協調があった。このような慣行は、熟練労働者から若年労働者への技能継承を促進し、労働者の多能工化と作業機械の多数台持ちを可能にした。日本的経営というミクロの企業内慣行は、マクロの成果である戦後日本の成長経済を生み出すひとつの要件であった。
注目すべきなのは、上とは反対の規定関係がここにははっきり見られることである。日本的経営といわれる3の項目のそれぞれが、じつは成長経済のもとでのみ維持可能なものだったのである。
まず、年功序列制から見てみよう。成長経済は、そうでなければ実現しなかったであろうさまざまな状況を個別企業や労働者にもたらした。マクロ経済の高い成長は、個別企業そのものの成長をももたらした。従業員数が年に7%の成長を遂げる企業は、10年後には、その従業員規模を倍にする。そのような成長企業においては、新入社員であっても、10年勤めると、社員の半数は自分の後輩ということになる。成長に応じて、部署の数・役職の数も増える。これが年功序列制のもとで、だれもが係長になり、課長になれるという「常識」を可能にした。しかし、こうしたことは、企業の高成長なくしては不可能なことである。
終身雇用制度についてはどうであろうか。これも日本経済が高い成長軌道に乗っていたことにより可能になっていた。景気後退は、あるにはあったが、総じて短く、軽かった。実質GDPが前年度以下に落ちたことは、1955年以降のの35年間にただの1回しかない。マクロのこのような状況は、おおくの個別企業にも当てはまる。雇用した従業員を不況で解雇しなければならないという状態に追い込まれることが、総じてまれだったのである。終身雇用制は、意図し努力して作りだしたものではない。あたかもそのような制度があるかのような状況が結果として生まれたのである。もちろん、このような事態が長く続いた結果、労働者や組合はそれを当然の権利と考えるようになったし、経営者も終身雇用のよい点を理解したから、現在では労使合意の上で終身雇用制が成立しているといてもよい。ただ、このような合意は、経済状況が一変すれば、今後も安定して維持されるかどうか疑わしいものである。1990年以降の日本経済の低迷は終身雇用制度そのものの見直しをおおくの企業に余儀なくさせている。
労使協調についても同じことがいえよう。戦後の成長経済の時代を通じて、日本の実質賃金は上昇してきたし、欧米に比べれば、その上昇率は高かった。それが、労使協調を容易にした。このことが可能になったのは、労働生産性の伸びが高かったからである。利潤を確保しながら、賃金を上昇させるには、労働生産性の上昇は不可欠の条件であった。規模の拡大と経験の蓄積が、労働生産性のこのような上昇を可能にした。これは、企業内の努力の結果ではあるが、経済規模の量的拡大というマクロの条件なしには実現の困難なことであった。戦後一貫して高かった日本の労働生産性伸び率は1990年代に入って急速に低下している。これは労働生産性上昇の条件として、マクロの経済成長がいかに大きな要因であるか示している。労使協調を維持できたのも、マクロ経済における良好な成果のお陰なのである。
このように日本的経営と戦後の成長経済とは、相互に支え合う関係にあった。それらは安定的なミクロ・マクロ・ループを形成し、互いに他を可能にする前提条件であった。世界的にみれば、それは特異な組み合わせではあったが、できあがったループの中では、その維持・再生産には必然性のある構造であった。しかし、1990年代に入ると、このループにも、変化が現れる。直接の原因は、バブル崩壊による不良債権問題の処理による景気低迷にあるが、たんにそれだけに終わらない深い理由から日本経済はおおきな転換を迫られている。グローバル経済化が進行する中で、世界最高水準の賃金を支払う日本企業がいかに生き残っていけるかという難問に直面して、既存企業は明確な答えを出せないでいる。これまでのような追い上げ型の企業経営では、21世紀の世界経済の中で、日本企業は生き残れない。生産基地の海外移転が進み、国内の設備投資が低迷する中、韓国や中国などの後発国の追い上げが厳しい。経済は必然的に低成長となり、景気後退も強く長期にわたることになる。企業トップが主観的には維持しようと思っていても、終身雇用制・年功序列制を維持していくのは実際にはむずかしい時代となっている。世界競争の中で日本のおかれている位置が大きく変化する中で、80年代までの日本経済の基本的な形であった戦後日本型ミクロ・マクロ・ループは崩壊したのである。現在は、新しいミクロ・マクロ・ループの形成期にある。
戦後日本の「日本的経営」については、さまざまな説明がある。たとえば、青木昌彦を中心とする比較制度分析のグループは、アメリカ合衆国などとの制度の違いを主としてゲーム理論を使って説明している(青木昌彦、1992; 同、1995;青木・奥野編、1996、他)。そこには制度的補完性など興味ある理論が展開されているが、20世紀後半の約40年間に存在した「日本的経営」は、個々の諸制度が相互ら補完的な関係にあったばかりでなく、マクロの経済成果とも重要な補完関係にあったことをあまり強調していないように思われる。制度の違いといった現象を説明するのに、一般均衡理論に比べて、ゲームの理論は大きな可能性を示しているが、その理論枠組みは基本的には個別主体の行動からの構成主義を取っている。そのために、諸制度間の補完性は説明しやすいが、ミクロ・マクロ・ループといった構造には目が届きにくい理論となっているのではないかと思われる[10]。
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4.2 金融市場のミクロ・マクロ・ループ
株式市場や国際為替市場およびそれらの派生市場のような金融取引市場は、動かされる金額の大きさと価格変動の激しさによって、各国の経済ばかりでなく、大きくは世界経済をも揺るがす存在となっている。この市場は、競り売買か、相対取引かといった差異はあるにしても、典型的な取引市場と考えられ、新古典派の価格調整均衡理論がもっともよく当てはまる例と理解されてきた。たしかに、寄り付きの板寄せでは、売りと買いの指し値注文を集計して売り買いの数量の一致するところに価格が決定されている。その限りでは、教科書的な需要曲線と供給曲線の交点に価格と数量とが定まっている。しかし、売り買いの注文がいかに出てくるかまで分析しようとすると、需給曲線の常識的な説明はほとんど成り立たなくなる。価格が高いから売りが増え買いが減り、価格が安いから売りが減るという単純な世界ではないのである。
これらの市場には、価格の高低によって売り買いする、いわば「普通の」市場参加者とは別に、投機動機による市場参加者がいる。商品市場であれば、「普通の」参加者とは実需筋であり、投機動機による参加者とは投機筋ということになる。為替市場であれば、輸出入代金や直接投資の送金などの為替交換は「普通の」参加者である。株式の現物市場であれば、配当収入を目的に株式を保有する人などが「普通の」参加者といえよう。金融市場の特徴は、こうした「普通の」参加者とは別に投機動機による参加者が多数いて、取引金額もそれらの参加者の動かす部分の方がむしろ大きいというところにある。投機動機の参加者といっても、プロの投機筋とはかぎらない。株式市場でいえば、1990年代末のような異常な低金利期はともかく、年2%以上という通常の金利のもとでは、 5円ないし10円の配当付きの株を1株500円以上で買う人はすべて投機動機による参加者であるといわなければならない。現在では、1株1000円以上というのは普通のことであるから、こうした銘柄への投資家はすべて投機動機による参加者ということになる。つまり、市場への参加者のほとんどが価格変化を期待していることになる。
投機動機で市場に参加するとき、重要なのは価格の絶対水準ではない。その時間変化である。高い株でも、より高くなると思われれば、買いが殺到する。安い株でも、より安くなると思われれば、売り注文が殺到する。このような投機的な市場では、短期には普通とはことなるミクロ・マクロ・ループが成立する。ここで、ミクロとは、個別投資家の期待の形成と売買の世界であり、マクロとは、これら多くの投資家の注文が寄せ集められて値付けされる取引市場の世界である。この市場は市場管理者にはその全貌が展望可能なものであるが、個別取引者にとって展望も支配も不可能な世界であり、そこで形成される価格はマクロ世界の指標として取引者が受け入れなければならないものである。
このような投機的市場で、ある株の価格がゆっくり上昇し始めたとしよう。最初のうちは、ひとびとは半信半疑であり、20%も価格が上昇すると、いわゆる利食いが現れる。不確実な世界にあって、投資利益を確定しようとする心理が働くからである。価格は一時低落するが、それを上回る価格押し上げ圧力が続くと、投資家たちの心理が一変する。もっと行けるかもしれないという期待がふくらみ、より高い価格で再度買い出動する。それを時系列でみると、同じ人が同じ株を最初500円で買い、600円で売り、ふたたび700円ないし750円で買うという行動となる。このような行動がしばしばみられるが、需給増減の通常の説明はここでは当てはまらない。さて、価格がこのように動き、それが多くの投資家たちの注目を集めるようになると、売り注文が減り、買い注文が増えて、株価は急速に上昇を始める。500円株が1か月後には700円になり、さらに1週間後には900円となり、翌日には1000円となる。株価上昇の期待が形成され、それが自己実現的予言となってひとびとの確信を強め、買い注文が殺到して価格はさらに上昇する。企業の経営状況の何の変化もないのに、株価が倍にも跳ね上がると、ひとびとは不安に感ずる。しかし、仕手筋がからんでいたりすると、上昇をあえてほめはやしたり、あまり根拠のない情報が流れたりして、高値目標が押し上げられる。こうして株価上昇が続くかぎり、それをさらに押し上げようとする力が働くから、株価は短期間に3倍にも4倍にもなったりする。
このような過程のある期間を取ると、株価上昇の期待が買い注文を増やし、それが株価を実際に上昇させ、それがまた期待の確信度を高めるというループが成立している。個人投資家の思惑をミクロとし、市場をマクロとすれば、これはひとつのミクロ・マクロ・ループである。このミクロ・マクロ・ループは、ポジティヴ・フィードバックの働く機構と同じように、ある傾向をより強化する作用を伴っている。これは自己強化的ミクロ・マクロ・ループということができる。自己強化的ミクロ・マクロ・ループは、その効果が見えやすく、ループとして理解しなければならないことも分かりやすい。自己強化的ミクロ・マクロ・ループは、しかし、その自己強化的性格のゆえの不安定さをももっている。株価が無限に上昇することがないとすれば、このループはどこかで破綻する。高価格が価格上昇の期待に支えられたものであるとするなら、上昇が止まった段階で、期待は崩れ、価格は反落し、そのことがさらに価格下落を引き起こす。そうなると、こんどは逆方向への自己強化的ミクロ・マクロ・ループが形成されることになる。
市場の動きと投資家の仮説形成との相互作用的な関係については、投資家自身の中にも気づいている人がいる。ながくクォンタム・ファンドの総帥であったジョージ・ソロスは、現実の市場と投資家の間に成立するこのループ関係を"reflexivity"(相互作用性、再帰性)と呼んでいる(ソロス、1996; 同、1998)[11]。
金融市場では、期待形成と市場動向との間にダイナミックであると同時に極めて不安定なミクロ・マクロ・ループが形成され、それが一定の役割を果たしている。そのことは統計的にも確認される。株価や為替レートのような変動の激しい価格は、ふつうランダム・ウォーク・モデルで分析される。適当な期間を選び、一日ないし一週間の変動幅のヒストグラムを取ると、釣り鐘状の分布が現れる。この分布は、通常、正規分布にしたがうと想定される。たとえば、オプション価格のブラック・ショールズ式は、そのような仮定にしたがって導かれている。金融市場が瞬間ごとに均衡しており、価格変動はランダムに訪れる価格変動要因に反応しているだけだという市場観からは、このような発想しかうまれない。しかし、株価の変動幅の分布は正規分布よりもはるかにひろく裾野を引く特殊な分布である。
このことは、Edgar Petersにより詳しく調べられた。かれは1928年から89年までのスタンダード・アンド・プアー500指数の5日間ごとの変化を調べて、そのハースト指数を算出した。ハースト指数は、釣鐘状の分布が正規分布からどのくらい食い違っているかを示すパラメータで、0.5から上にずれるほど、裾野が厚い。もし株価変動が正規分布にしたがうならば、ハースト指数は0.5でなければならない。しかし、結果は、正規分布仮説からは大きく食い違うものであった。ハースト指数は、1928年以降、一貫して0.8以上を示した。株価変動は、正規分布よりはるかに厚い裾野を引き、株価上昇が株価上昇を、株価下落が株価下落を引き起こす傾向を示している(The Economist,1993,p.10)。
この点で、ひとつの印象的な事例をMadelbrot(1999)が報告している。1998年9月にアルカテルの株が一日に40%も下落 した。Madelbrotによれば、この変動は10σ(標準偏差の10倍)の変動に当たる。標準偏差の3倍(3σ)という変動は、1000分の3以下の確率でしか起こらない。しかし、10σという変動は、これよりはるかに起こりにくい事象である。もし株価変動が正規分布にしたがっているなら、アルカテルの変動は、10のマイナス24乗を数倍した確率でしか起こらない。これは、水200mlの中に含まれる、あらかじめ指定した水分子一個を正しく拾い上げる確率に等しい。ところが株価市場では、このように「起こり得ない」まれな出来事がときどき観察されるのである。1997年のアジアの金融危機も、おなじような理論的状況に位置する。為替変動が正規分布にしたがうという仮定に立つならば、あのような大規模な為替変動は「起こり得ない」確率の事態であろう。しかし、為替市場・株式市場を含めて、そのような起こり得ない大変化がわずか3万7千日を数えるに過ぎない20世紀の100年間に何回も起こっているのである。このような大変動がいったん起こった後の壊滅的な影響を考えると、そのようなことは起こらないと前提する経済理論にしたがって経済の制度設計を議論することは、重大な誤りであることが分かる。
金融市場がこのように厚く裾野を引くことは、株式市場に関する強い効率市場仮説(すべての情報はただちに価格に反映され、明日の株価の変動は過去の株価の動きに依存しないという仮説)が成立しないことを意味する。現実には、株価は、わずかではあるが過去のパタンに依存する部分がある。ムーアとファーマは、それを3%と推定している(シャーデン、1999、p.112)。このわずかながら残っている時系列依存が人々の行動を変えている。強い効率市場仮説が正しければ、株価の変動を見て売買を決めるテクニカル分析は市場の平均収益以上に利益を上げられないはずである。しかし、短期の売買の判断にテクニカル分析は広く用いられている。そして、そのような事実があることにより株式市場は0.5よりはるかに大きなハースト指数がもたらす。その結果、テクニカル分析は、あまり強力な道具と言えないまでも、現実的にも一定の効果をもち得ることになる。分析家と市場と間のミクロ・マクロ・ループは、壊滅的な大変動時でなくとも、意識されないままに働いているのである。この構造がときに標準偏差の10倍にもあたる大変動をもたらす市場の仕組みである。こうしたミクロ・マクロ・ループを無視することで、通常の市場理論は株価および株価指数の変動が正規分布にしたがうと想定しているが、事実はそこから一貫してに偏っているばかりでなく、ときに重大な結果をも生み出している。ミクロ・マクロ・ループという主題は、たんに学者のものの見方を示すだけのものではないのである。
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4.3 圧力経済と吸引経済
経済に圧力型・吸引型の2種類の相(ないしモード)があり、それが重要な意義をもつマクロの状態概念であることを明らかにしたのはコルナイ・ヤーノシュ(コルナイ、1975;同、1983)である。コルナイは、自国ハンガリーの経済改革に取り組んでいたので、その主たる分析は、社会主義市場経済における吸引型ないし不足の経済に向けられている。しかし、コルナイ自身が注意しているように、社会主義経済では吸引型、資本主義経済では圧力型になると決定されているわけではない。資本主義経済でも、戦時や戦争の直前・直後には吸引型経済が(日本でも)出現したことがある。アジアやアフリカの発展途上の非社会主義国にも見られるとコルナイ(1983、p.49)は主張している。ここでは、経済体制を比較することが目的ではないので、資本主義市場経済における圧力と吸引について、ミクロ・マクロ・ループの観点から考察する。
伝統的な経済学は、資本主義経済が平均的には市場は均衡していると考えている。ここで、「平均的」という語は、二つの意味をもっている。ひとつは、時間平均の意味であり、ある特定商品の市場は、ときに需要超過・供給超過があっても、時間をならしてみれば需要と供給とは一致していることを意味している。もうひとつは、横断的平均の意味であり、一時点において各種商品の一つ一つをみれば、あるものは超過需要であるが、あるものは超過供給であり、全体をならしてみれば、双方の超過額はほぼ同量であることを意味している。市場がこのような状態にあるので、近似的にそれを一般均衡にあると見なすことができるというのが、一般均衡理論の主張である。しかし、現実の市場経済に当たってみれば、このような一般化が実態を大きく歪めていることはすぐ理解できる。
時間平均をとってみれば、たしかに実現した供給総量と需要総量とはほぼ等しい。しかし、これはあるときは需要不足であり、あるときは需要超過であって、時間的に平均してその両者が拮抗しているということを意味しない。需要量はつねに変動しているが、店頭ないし供給基地にはほとんどつねにそれを上回る商品が供給され、需要家が要求すればその需要はほとんどつねに即座に満たされる。供給量と需要量とが長期に均衡するのは、需要の変化に合わせて生産量・供給量が調整されるにすぎない。これは、コルナイの定義する「圧力」状態に他ならない。資本主義経済につうじょうこのような偏りがあることを新古典派の伝統的な経済学が認めないのは、それが均衡理論という枠組みで説明できないために他ならない。
横断的平均に関しては、古くからの議論がある。マルサスが全般的な需要不足が起こりうると考えたのに対し、リカードウはそのような需要不足はありえず、一部市場の需要不足は他の市場の需要過剰によって相殺されていると主張した。セイ法則を認める限り、この主張は正しいが、経験的には不況が、理論的にはマルクスやケインズが明らかにしたように、取り替えなければならないのは、事実ではなくセイ法則の方である。
市場を虚心に見渡してみれば、ほとんどの時間のとんどの商品において、需要はすぐに満足される状態にあり、生産者や商人たちの供給増加を阻んでいるものは、当該商品に対する需要の不足であることがわかる。これは1926年にピエロ・スラッファ(Sraffa, 1926)がつとに指摘したことである。生産者の生産増大を阻んでいるものが生産増大にともなう限界費用の増大なのか(新古典派均衡理論)、販売数量の限界のゆえなのか(スラッファの原理/有効需要の原理)という判断は、経済学をどのように構築すべきかに関する重大な分岐点をなしている[12]。スラッファは、圧力状態ないし圧力型という概念には到達しなかったが、かれが1926年にみていた経済は、じつは圧力型の市場経済であったのである。
ここで、二つの難しい問題に直面する。(1)資本主義経済は、なぜ、通常時において圧力型になりやすいのか。(2)それが圧力型になったとき、なぜその状態は再生産されつづけれるのか。このうち、ミクロ・マクロ・ループに直接関係するのは、問題(2)である。コルナイ(1983、pp.55-9)は、この問題に(相互に排除的できない)2つの主となる答を用意している。ひとつは、生産物ストックや潜在的に生産可能な財をすべて買い取るに足るだけの購買力が消費者に手渡されていないというものである。こうなる一因として、インフレーションのもとで、賃金の上昇が価格の上昇よりつねに遅れがちであることが指摘されている。もうひとつの答は、販売の不確実性を減らすために、つねに過剰の生産容量をもとうとするものである。コルナイは、この第2のメカニズムを圧力状態のもっとも重要な要因であるという。その他の要因も上げられているが、圧力型経済はミクロ・マクロ・ループの例題として提出されているものなので、詳細には立ち入らない。いちおう、その説明を認めておくことにしよう。
コルナイの第2の回答を認めると、ここにもひとつのミクロ・マクロ・ループがみごとな形で成立していることが分かる。マクロは圧力型経済である。ここでは、つねに購買力の奪いあいがあり、不確実な需要が表明されたとき、在庫不足や生産容量不足でそれを逃すことは、きわめて大きな機会損失である。したがって、ほとんどの企業経営者は、じっさいに表明される需要よりも多めの製品在庫や生産容量を抱えることになる。第2の回答が正しければ、経営者のこのような振舞いが、結果として、この経済を圧力型とする。
このことは、圧力経済と吸引経済における企業経営者や消費者の行動パタンの違いを検討して見ることにより、さらに明確となる。圧力経済では、市場がほとんどつねに買い手市場であるから、需要に即応しようとして、つねに十分の製品在庫や生産容量をもとうとする。これに対し、原材料などは必要なときにほとんどつねに即座に入手できるから、当面の生産をまかなうだけの必要量があればよい。もちろん、企業は需要が表明されるのを座して待っているわけではなく、なんとかして自社の製品を売ろうとして、さまざまの努力をする。圧力経済では、潜在的購買者への営業活動や広告、マーケティングなどが企業の重要な活動となる。これに対し、吸引経済では、売り手市場であり、生産ができさえすれば、需要の不足はほとんど問題にならない。しかし、原材料、設備などは、ほとんどつねに不足状態にあるので、企業の努力の多くは調達に振り向けられる。より多くの付加価値を稼ぎだす障害となるのは、多くの場合、何百・何千と必要な部品や原材料の一つあるいは二つの品不足である。調達がうまくいってこの問題が解決すると、次には別の部品や原材料がネックとなって生産を制約する。したがって、企業は、入手可能なときには、いつでも十分過ぎる原材料や部品を確保しようとする。企業のこうした振舞いは、吸引型の経済をさのようなものとして再生産させる効果をもつ。吸引経済には、圧力型とはことなるミクロ・マクロ・ループが観察される。
コルナイ(1983、pp.41-9)は、吸引と圧力の違いがそこに生きるひとびとの行動や情報活動をいかに条件付けているか、より詳細に検討している。これはマクロがミクロを規定するみごとな分析例である。しかし、その詳細を紹介することは、ミクロ・マクロ・ループの例解の範囲を超えることになる。興味ある読者はぜひ原文を参照してほしい。
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5.ミクロ・マクロ・ループ/再定義
前節では、わたしが考えるミクロ・マクロ・ループの代表的なものについて説明した。前節で、ミクロ・マクロ・ループについてあるていど具体的なイメージをもってもらえたであろう。それを前提に、ミクロ・マクロ・ループについて、より明確にわたしの考えを述べておきたい。
経済学においても、社会学においても、「ミクロ」と「マクロ」という用語はしばしば使われている。しかし、その区別はたぶんに恣意的であり、たんに対象とする領域の大きさによって区別しているように見える。それでは、社会科学において、なぜそのように二つの世界が分離して現れてくるか、その理論的な構造が明確にならない。ここでいくらか長い説明が必要なのは、この点の差異を確認するためである。以下にミクロの世界、マクロの世界として取り上げるものを、ミクロ経済学・マクロ経済学の対象として一般に考えられているものと同一視してはならない。それらは表面上いくらか関係をもっているが、基本的には異なる世界が考えられていることをあらかじめ断っておく。
5.1 ミクロの世界
ミクロは、基本的には、ある個人によって生きられている世界である。それは相互に知り働きかけることのできる人間たちの、境界の漠然とした小集団を基本的領域としている。現象学の伝統では、これをふつう「生活世界」と呼んでいる。当然ながら、ことなる個人・ことなる集団にはことなるミクロ世界が対応する。ただ、すべてのミクロ世界を個別に考察することはできない。ひとつのミクロ世界として取り上げるのは、ある代表的と考えられる個人とかれを取り巻く世界である。
代表的個人といっても、ひとりの平均人を想定するという意味ではない。すべての人がかれと同じ世界をもち、同じ行動をとるだろうと考えることは、経済学ではできない。それでは経済を考えるときに重要な視点である個人の多様性を排除することになる。代表的個人を考えるとは、任意の個人がもつであろうミクロ世界の最小限の構造を考えるという以外の強い意味はもたない。例示では、ある特定のタイプの個人のある特徴的な行動について語ることが多いが、それは記述の簡略のためである。コンピュータ実験などでは異なる行動を示す異なるタイプの個人を想定するが、そのひとりひとりを代表的個人とみなさなければならない。
生活世界は小さな世界ではあるが、きわめて豊富な世界である。ある意味では、豊富過ぎる世界である。社会科学は、そのすべての豊富さにおいてこの世界を捉えることはできない。分析の場面においては、一定の抽象を避けることはできない。分析の対象としてのミクロ世界は、じつは、ある個人によって生きられている世界そのものではない。それは、分析の必要に応じて抽象化され、再構成された世界である。いいかえれば、ミクロ世界は、行為当事者の意識に接近して、その判断や行動を分析しやすい形に再構成したものである。より正確にいえば、そうするよう努力した結果えられた考察の概念的枠組みである。経済学においては、この世界は、個人が経済的行為をなす場として捉えられる。そこでは、行為に関係する最小限の諸要素が想定される。たとえば、行為者の定義する状況、その状況に付随する利害と関心、その状況のもとにいかに行動すべきかの知識、過去の同様の状況における行動とその結果に関する記憶、それら全体に関する世界の解釈枠組み、などである。それらは、ある有機的な関連をもつ多様体と考えることができる。この多様体は、分析において想定される理論の枠組みによって異なったものとなる。
ミクロの世界は、ある個人とかれを取り巻く人々が相互に取り結ぶ諸関係を要素としている。この関係の多くは、(すくなくとも経済学的考察においては)ひどひとの行為として観察可能なものである。したがって、これら当事者の行為ないし行動をさまざまな水準で理解することがミクロ世界の理解の第一歩となる。個人の行為は、すべてかれの名においてなされるものとはかぎらない。個人がある組織の一員であるとき、かれの判断と行為とは、それが正当な委託と協議・承認の手続きに従ったものであれば、その組織の判断と行為とみなされる。人間の行為は、ある思考の結果生まれたものも多い。経済学で主として問題とする目的行動も、つねに一定の思考過程を付随している。思考過程は、ひとりの人の頭脳の内部でのみ進行するとはかぎらない。相談や打診、協議や議論などの形で集合的に進行する部分もある。
思考は、つうじょうは、意識的になされ、意味の世界に構築されている。ミクロの世界を考えることは、必然的に意識と意味世界をその要素とすることである。意味の世界は世界理解ないし世界解釈の過程をも含んでいる。この世界の複雑さと自由度の大きさとは、経済学にとって重大な含意がある。自由度の大きさは、世界に対する多様な解釈をもたらす。これは経済学自身が多くの学派に分かれて対立するひとつの要因でもあり、後に触れる「小さな科学者」としての行為主体が世界に関するさまざまな解釈と仮説とをもって判断し行動する可能性をも作りだしている。このため、行為主体である個人を確定した構造をもつ原子として扱うことができない。かれは内的な創造や外的な経験、他者とのコミュニケーションによって、自己の世界解釈と判断にいたる思考過程を変えてしまう。清水博(1988、p.147)は、「機能的要素(ホロン)が、置かれている環境に応じてその性質を変える」ため、要素の働きから因果律的な思考によって全体の働きを推測することが原理的に不可能なシステムを「複雑システム」と呼んだが、経済はまさにそのような複雑系として扱われざるをえない。経済学の方法として、ミクロ・マクロ・ループが重要であるのも、究極には「機能要素としての個人」のこのような複雑さの帰結である。
人間の脳はそれ自体が複雑系であり、それが生成する思考過程には、いまだわれわれに分からないことが多い。しかし、それが完全に分からなければ社会科学の考察が不可能になるというものではない。一面では、当事者も分析者も同じ人間であり、同じ状況において行為者がどのように考えるか、分析者も想像や追体験というかたちで、その過程に立ちいることができる。他面では、分析者は観察者となって、多くの類似の状況における人間の行動を外部から観察することによって、一定の結論を得ることができる。
行為を導く思考は、知識と深い関係をもっている。ある種の知識は、行為の指示そのものでもある。その原型は、生物学者のユキュスキュル(1973)が「機能環」と呼んだものにある。生物は、それぞれ種に固有の知覚世界と作用世界、すなわち環境世界をもち、特定の知覚標識の認知を特定の作用標識への働きかけに翻訳する。生物の作る極小のミクロ世界の機能環は、人間の場合には、特定の認知的意味(Cognitive Meaning)を特定の指令的意味(Directive Meaning)への変換として捉えられる。吉田民人(1990)はこれをCD変換と呼んでいる。これは、状況が条件Cを満たすとき、働きかけDを行うよう行動すると読み替えてもよい。CD変換を組み合わせると、より複雑なプログラム行動が得られる。仕事上のルーティンを始めとして、人間の行動の多くは、このようにプログラム化された行動であり、わたしはそれらを定型行動と呼んでいる。どのようなプログラムを用いるかは、個人の知識にも関係しているし、その場の判断にもよる。人間の用いるプログラムは、まったく自動的なものでも、まして同じ行為系列の繰り替えしでもない。その実行には、状況に判断を伴うし、判断の結果、プログラムにそって異なる行為が採用されることもある。
動物では、行動プログラムは、しばしば種に固有のもの(生得的なもの)である。これに対し人間の場合には、行動プログラムはかなり広い範囲で可変的である。人間は、あるプログラムを他のプログラムに取り替えたり、新しいプログラムを発見したりすることができる。ある目的と状況において、どのプログラムがどのていど有効であるか(いいかえれば、実行にどのような困難があり、平均してどのような成果がえられるか)ということは、人間にとってひとつの知識である。これは一般にノウ・ハウと呼ばれる知識である。このような知識(knowing-how)は、世界の状態を記述する知識(knowing-that)ではないが、知識の重要な範疇を形成している。生きるために有用な知識の多くは、このような種類の知識である。このような知識に依拠した行為は、ある構造をもった定型行動として捉えられる。習慣は、このような定型行動を外から観察したものと考えられる。
知識はたんに授受・伝達されるものではない。あたらしく創造されるものでもある。新しい知識は、無から創造されるわけではない。それはつうじょう(世界の構成と性質にかんする)先行理論を前提として行われる。個人がどのような意味世界をもち、その中でどのような知識体系を形成しているかによって、生み出される知識の可能領域は異なってくる。また、どのくらい有用な知識を生み出せるかという、量や頻度も変わってくる。ミクロ世界は、行動の変化にまで分析のメスを進めるとき、行為者のもつ知識にまで拡大されざるをえない。Loasby(1991、pp.33-8)は、世界にかんする一定の知識をもち考察・創造する人間をGeoge Kelly の提案を受けて「科学者」と見立てることを提唱している。かれは経験と理論とから、なにをどう使うことができるか、どう行動することが賢明であるか学習する。このような学習と知識の増加とがなければ、経済には進歩がない。しかし、この科学者は、原理として無限の時間と研究資源とを利用できる理想の存在ではない。みずからの限られた合理性の限界の範囲内で、世界をよりよく理解しようとする意味での「小さな科学者」である。この科学者は思考を節約しようとする。かれは不都合のないかぎり既製の理論にしたがって世界を解釈し、取るべき政策をみずからに勧告する。ルーティンとして定型化された行動は、科学者によって採用されたひとつの仮説と考えることができる。
行為がパタンとして捉えられるとき、そのあるものに対して、社会的な制裁や奨励が働くことがある。ある場合にほとんど思考過程もなく、とうぜん取るべしと意識された行為パタンを慣習という。慣習は、個々の個人についてみれば、かれの習慣と異なるものではないが、所属する共同体の「当然」として、無意識的な強制が働いている点がたんなる個人的習慣とはことなる。経済の取引関係は、同一の文化共同体の中でのみ行われるとはかぎらない。このような関係においても、守るべき行為規則群が慣行として成立していることが多い。それらは自然発生的な了解事項として始まったものであろうが、逸脱者に対して取引しないなどの制裁によって維持・拡大されていくものもある。一般に制度と呼ばれているものにはさまざまな形態があるが、定型行動としての制度はこのような慣習・慣行がある程度広い範囲に拡大・確立したものと考えることができる。このような制度は、意見交換などの直接的なコミュニケーションによる変更が困難であり、その意味で諸個人(あるいは個々の組織)にとって物質的な存在として立ち現れる。前節の4.1において、日本的経営を取り上げた。その3つの柱を中心とする諸慣行は、慣習として個別企業の裁量の範囲内にありながら、他の企業がそのような行動を続けるかぎり、自社だけがその慣習を変更するには社内の抵抗が強いばかりでなく、社会的な非難をも覚悟しなければならないという「強制」を受けていた限りで、ひとつの制度として存在していたものということができる。
すべての社会科学は、人間の意識的・無意識的行動に取り組まざるをえない。また、そこに働く当為の観念や損得勘定にも立ち入らざるをえない。ミクロの世界は、しかし、そのような個人の意識の内部のみにあるものではない。それは視野と働きかけの範囲内における人間の小集団を基礎とし、そこに展開される活動を基本的な事象とするものである。
個々の交換や生産、消費といった活動は、すべてこの世界の内部で展開される。そこには社会科学が対象とすべき基礎的過程のほとんどすべてが含まれている。その意味で、社会科学は、ミクロの世界なしには済ませられない。ただ、それはわれわれが直接経験できる世界であるだけに、学問的分析にとっては、それ固有の困難をもたらす。すでに指摘したように、それは豊富過ぎる世界である。生の豊富さを、そのまま生かそうとすると、学問的分析はほとんどすすまない。ここにミクロ世界をある種の抽象的世界として理論的に再構成する必要が生ずる。この作業がきわめて高度な判断に基づくものであることは否めない。そこには、現実としてのミクロ世界を意図せずして大きく歪めてしまう危険がつねに存在する。
新古典派ミクロ経済学が人間の経済活動を考察する場として構成したのものも、そのような理論化のひとつであった。ただ、その世界はきわめて特殊な構想による抽象化であり、人間の行動を最大化としてしか定式化することができていない。人間は、視野・合理性・働きかけの3面において限界をもつ存在である[13]。ミクロ世界を考えなければならないのは、個人が分析の基礎単位だからではない。視野・合理性・働きかけの限界のもとに個人がかれの周辺と取り結ぶ関係世界は、それらの関係の連鎖を拡大して得られるマクロの世界とは異質のものとして区別しなければならない。マクロ世界とは異なる分析視角を要請するものとしてミクロ世界を置かねばならないのはそのためである。新古典派の立場にたつなら、ミクロとマクロの区別は成立しない。それがミクロ経済学と呼ばれるのは、ここにいうミクロの世界を分析しているからではなく、原子としての個人の行動から全体の経済が構成できると考えているからである。ここにおけるミクロ世界は、そのような構想とはまったく無縁のものである。言葉の類似だけによって両者を混同してはならない。ミクロ・マクロ・ループという主題は、ミクロとマクロとの間に相互規定的な関係が存在することを主張するだけのものではない。その主眼は、むしろ、方法論的個人主義に基づくそのような構成が不可能であることを実際の現象によって例示することにある。
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5.2 マクロの世界
ミクロの世界は、視野・合理性・働きかけの限界のもとにある人間が相互にみわたせる範囲でにおける相互関係の集合である。これに対し、マクロは、視野の限界・働きかけの限界を超えて、無限に延長される相互関係のネットワーク全体に引き起こされる事象の世界である。マクロの諸関係は、したがって、原則的には人間の日常的な経験から切り離されたものである。マクロの世界は、この意味で、個々の行為者を超越した存在である。それは、人類の経験を総合・整理して、学問的に再構成することによってのみわれわれに開示される。
経済においては、マクロとは経済の総過程をいう。経済的関係は、相互の交換のネットワークによって全世界に広がっている。経済のマクロ世界とは、この世界大に広がる経済のさまざまな関係・さまざまな作用を相互に関連性をもつ統一として捉えたものである。
マクロの経済世界の関連性・統一性をもたらすものは、AがBから甲商品を買い、対価としてAがBに貨幣x量を支払うという交換=取引関係である。そのかぎりで、マクロ世界の作用原理とミクロ世界の作用原理とは質的に異なるものではない。しかし、ミクロとマクロとでは、そこに働いている分析視点がまったく異なっている。Bに表明された商品甲に対する需要は、原材料連関を通して他の生産者C1の需要となる。それは、また所得連関を通して、他の個人あるいは企業C2の所得となる。このように、ひとつの経済行為の影響は、直接的関係者であるBを超えて、C1やC2に及ぶ。C1やC2の取る経済行為の影響は、さらにその先のD1やD2に及ぶ。現代経済では、この連関は、どこかで収束して相互に閉じてしまうのでなく、地域を超え、国を超えて、世界全体にまで広がっている。経済においてマクロの世界を考えるということは、このように世界大にひろがる取引関係のネットワークを考えることであり、そこにおいて全体として進行する過程(総過程)を捉えるということである。いかなる個人といえども、その過程の全体を体験的に視野に入れることはできない。
経済の総過程は、ある個人あるいは個人の集団の頭の中で展開されるものではない。それは、主として貨幣や商品などの社会的・物質的連関を通して展開される。そのひとつひとつの事象は、ある(単数あるいは複数の)行為主体の活動であるかもしれない。個々の行為者は、あくまでかれ自身のミクロ世界の内部にあり、その世界の中で行為する。マクロ世界は多数のミクロ世界を内包しているが、それらを単に集合させたものではない。その分析視点はもはや行為主体の意識にではなく、かれらの作りだす行為連関にある。行為者が意識するしないにかかわらず、かれのミクロ世界はマクロ世界のネットワークの結節点のひとつとして存在し、そのようなものとしてつねにマクロ世界に条件付けられている。人が目にすることのできる価格や商品の在庫量、企業に表明される需要などは、かれらの視野の限界を超えたマクロ世界によってほとんど規定されている。そのような状況のもとになされる行為の相互連関を考えることがマクロ分析である。その結果、経済が全体として生みだす諸特性が見いだされるとき、それが固有に経済のマクロ的性質と呼びうるものとなる。具体的には、景気の循環や成長の速度の高低、インフレーションの進行、為替レートの変動、産業構造の変化、地球環境条件の悪化、などである。
すでに断ったように、マクロの経済世界をマクロ経済学の対象とするもの、とくにマクロ経済モデルと同一視してはならない。マクロ経済学では、いくつかの代表的な変数(マクロ変数)を取り出して、それらの間の微分方程式系(マクロ経済モデル)を作り、それを解くことで諸変数の時間的進行を考える。これは、マクロ経済学の常套的手法としてよく用いられるが、そこに重大な限定があることが、つうじょう意識されていない。マクロ経済モデルを立てることは、マクロの総過程をひとつの小さな閉じた力学モデルとして再構成してみることにあたる。それは、マクロ世界のひとつの描像を与えるものではあるが、それが極端に簡素化された世界でありることは否めない。そこでは、あるマクロ変数(たとえば、総雇用)が他のひとつあるいは複数の変数(たとえば、総需要)の関数であると仮定される。ひとつひとつの需要が雇用の機会を作りだすこと、したがって総需要の増大が総雇用の増大につながりやすいことは認める。しかし、経済の総過程は、第一義的には、総需要Dと総雇用Nとの関数関係ではない。総過程の考察とは、たとえば個々の需要が企業の投資決定や雇用決定などを通して経済全体に影響を及ぼしていく過程を考察することである。それは集計量間の関係に縮約された関係だけを考えることではけっしてない。そのような関係を集めて閉じた力学モデルが得られるという保証はほとんどない。ミクロ・マクロ・ループに注目せざるをえないのは、マクロのダイナミックスがミクロ世界から独立にそれ自体として成立することがなく、需要から投資へ、需要から雇用へといった決定関係においても、そこにかならず個々のミクロ世界における個人ないし企業の判断と決定がからんでいるからである。
植村・磯谷・海老塚(1988)ほかにおいて、著者たちはマクロのダイナミックスを「集計量レベルのダイナミックス」と規定している。これは、実態レベルにおける経済のダイナミックスが集計量レベルの諸変数の運動として記述できるという主張であろう。この規定は、上に注意したように、総過程の分析を先験的に集計量間の関係に限定してよいという前提を含んでいる。簡略な表現としても、ミクロ・マクロ・ループについて考えようとするには、これはいささか不用意な定式である。ミクロ・マクロ・ループにおけるマクロ世界は、その分析視角において、マクロ経済学とは、対立する経済過程の理解にたっている。現象記述という範囲を超えて、マクロ経済学がそれ自体として成立することはありえないというのが、ミクロ・マクロ・ループという主題のひとつの含意である。
マクロの世界は、理論の前提としては、それを構成・分析する理論に先立って存在するものである。理論は、すでに存在する総過程を概念的に再構成するにすぎない。しかし、それが理論的に再構成されるものである以上、構成された世界そのものは、理論や分析目的に依存した内容のものとなる。理論負荷性や学派の違いといった議論をさておいても、なにを分析の目的とするかによって、マクロ世界として考察される範囲は異なってくる。たとえば、ある目的のためには、地球環境条件は経済の総過程の外部と想定される。しかし、地球環境問題を経済問題として考察するためには、環境条件そのものが経済活動の結果であり、個々の企業の活動に影響する条件として、経済の総過程の内部に考えられなければならない。これは経済の総過程をどのような範囲に設定するかの問題である。問題関心や理論の在り方によって、その範囲に異同が生ずる。
具体的な考察においては、総過程のすべての側面に同時に言及することができない。個々の考察では、記述・分析は、必然的に、総過程のある側面・ある部分領域に焦点を当てたものにならざるをえない。このような必要から、総過程が一定の時期における日本経済であったり、ある特定の商品の市場動向であったりすることは許される。 どのようなミクロ・マクロ・ループに注目するかによっても、主として考察の対象となる変数が変わってくる。変数x,y,zについてのみ話していても、マクロの総過程は、そこに明示されない多数の変数と相互に関係して進行している。分析と説明の都合上、多くの省略や簡単化がなされることは、分析者であるわれわれ自身が視野や合理性・働きかけの限界の中にいる以上、仕方のないことである。
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5.3 相互規定のループ
ミクロ・マクロ・ループとは、ミクロ世界とマクロ世界との間にある相互の規定関係をいう。したがって、方法論的個人主義と方法論的全体主義の双方を否定するわたしの立場からすれば、ミクロ世界とマクロ世界とはつねに相互に他方を条件づけており、その限りでミクロ・マクロ・ループはあらゆる考察に普遍的に見られるものである。しかし、ミクロ・マクロ・ループという主題は、このような全般的な相互規定関係だけを提起するものではない。そのような関係も、ミクロ・マクロ・ループのひとつの事例であり、方法論的には重要なものではあるが、前節で取り上げたミクロ・マクロ・ループの諸例はそれよりもやや特殊な構造をもっている。そこでは、ミクロの世界でのひとびとの行動のある特別な側面がマクロ世界のある特別な特性を生み出し、またマクロの世界のある特別な側面がミクロ世界でのある特別な種類の行動の誘因となるという相互規定関係において、ひとつの閉じた輪を作っている。
具体的な事例としてミクロ・マクロ・ループを取り上げるときには、多数の関係項の間のすべての規定関係について言及する訳にはいかない。ある程度、影響力・規定力の強い関係を取り上げ、それらについてのみ語らざるをえない。具体的な場面にはおいては、全体の関連のなかのある部分に視点を絞って、そこで議論し、分析することになる。視点を絞っていうときには、ミクロ・マクロ・ループとは、したがって、そのような強い規定関係の相互に閉じた輪のことをいう。このように視点を絞って相互の強い規定関係に注目することは、経済のように真に複雑な体系の分析において、そこに展開されている「論理」を理解するためにはつねに必要とされる観点である。
具体的な例をとって説明しよう。第4節の4.1「戦後日本の成長経済と日本的経営」をとろう。この例においては、マクロの特性として、高い成長率、短い景気後退、急速な所得上昇などがあり、ミクロの企業行動としては、終身雇用、年功序列・賃金制、労使協調などがある。4.1で説明したように、このような企業行動は、他のさまざまな条件を所与した上ではあるが、マクロの特性を生成する主要な要因であった。ここにミクロからマクロへの規定関係が見られる。他方、マクロの特性である高い成長率などは、各企業が終身雇用や年功制を守ることを可能にした客観的な条件でもあった。これがマクロからミクロへの規定である。注意すべきことは、この二つの規定関係において、ミクロの主要関係項とマクロの主要関係項とが一致しているということである。
視点を絞ってミクロ・マクロ・ループというときには、ミクロとマクロとの間に一般的に次のような関係が成立することをいう。ミクロの世界には多数の関係項があるが、そのうちの少数の項目群をA1,A2,・・・,AMとしよう。また、マクロの世界にも多数の関係項があるが、そのうちの少数の項目群をB1,B2,・・・,BNとしよう。ただし、つうじょう、MとNはあまり大きくない正の整数とする。このとき、ミクロの項目群A1,A2,・・・,AMを主要な説明項とする規定関係fが存在して、それによってマクロの世界の関係項B1,B2,・・・,BNが説明され、逆にマクロの項目群B1,B2,・・・,BNを主要な説明項とする規定関係gによってミクロの項目群A1,A2,・・・,AMが説明されるとしよう。ここで、関係fの被説明項が関係gの説明項と一致し、関係gの被説明項が関係fの説明項と一致していることがループの意味である。ミクロ世界とマクロ世界との間に双方向的な規定関係fとgとがあっても、fの被説明項がgの説明項と一致しないか、gの被説明項がfの説明項と一致しないならば、ミクロとマクロの規定関係は閉じているとはいえず、規定関係のループが存在するともいえない。また、関係する項目数MやNが大きい場合には、次項に触れるミクロ世界とマクロ世界との間に存在する全般的な相互依存関係の場合を除いて、ミクロ・マクロ・ループとしての説明力は小さなものとなる。それらがミクロ・マクロ・ループでないとは言えないとしても、少数の項目群の間に相互の強い規定関係があってこそ、ミクロ・マクロ・ループの説明は印象的なものとなる。
ここで、「規定関係」および「説明される」という用語について、注意しておくことが必要であろう。上で、A1,A2,・・・,AMからB1,B2,・・・,BNへあたかも関数関係があるかのように説明したが、それをたとえ多変数間の関係としてであれ、厳密に関数関係と捉えてしまっては狭すぎる。規定関係とは、そのような関係がある場合を排除しはしないが、もっと広い意味でいっている。第4節の例が示しているように、ミクロの諸条件のうちA1,A2,・・・,AMが満たされる場合には、マクロの諸項目としてB1,B2,・・・,BNが成立することが許容されるといった関係をも、それは含んでいる。規定関係とは、そのようなゆるい範囲限定や可能性を作りだす関係をも含んだ概念である。
4.1の例でいえば、終身雇用、年功序列・賃金制、労使協調といった諸項目は、戦後の日本経済が成長経済であることを条件づけた重要な項目であるが、現実にそれが高い成長率をもちえたのは他にも考慮すべきいくつもの要因がある。例の説明にも触れたように、日本の賃金率が欧米に比べて低く、より低い賃金率をもつアジア諸国の技術水準がまだ十分でなかったといった国際的な条件も、日本経済の高い成長を可能にしたひとつの要件であった。マクロの諸条件がミクロの諸項目を規定するという場合にも、規定関係の意味は、上に注意したよううに広義に考える必要がある。先の例でいえば、戦後の日本経済が高い成長率を続け、景気後退が比較的軽く短かったことが、終身雇用や年功序列制、労使協調といった慣行の順守を可能にしていた。しかし、このような条件があったからといって、別の雇用慣行を採用することが不可能であった訳ではなく、じっさいいくつかの外資系企業では労働力の流動性を前提とした雇用政策が採用されていた。
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5.4 ミクロ・マクロ・ループと時間尺度
前節および本節においてミクロ・マクロ・ループのいくつかの例を取り上げ説明してきたが、そこにおいてどのような時間尺度が考えられているかについては明示的には触れなかった。しかし、あるループがどのくらいの時間尺度において考えられているのかは、ミクロ・マクロ・ループの考察において重要な視点である。ミクロからマクロ、またマクロからミクロへの規定関係は、どのくらいの時間尺度を考えるかにより、その影響も、影響の仕組みも、変わってくる。さらに、ミクロ世界で問題とすべき主要な関係項やマクロ世界の主要な関係項も変わってくる。
ミクロ・マクロ・ループは、ある適切な時間尺度において考えられなければならない。第4節に取り上げた「戦後日本の成長経済と日本的経営」では、ループが安定的に存在していた時間は、約40年間にも及ぶ。このループ関係をたとえば一カ月単位の時間尺度で考察しても、有意味な分析はできない。それぞれの議論対象には、それが変化したり定着したりするのに、ある程度の時間がかかる。ミクロ・マクロ・ループでいえば、ミクロの主要変数(議論対象)が変化して、その影響がマクロに現れる時間幅と、マクロの主要変数が変化してミクロの行動や制度などが変わるにかかる時間幅とを考慮しなければならない。「戦後日本の成長経済と日本的経営」というミクロ・マクロ・ループの場合、マクロの主要変数は長期の平均的な成長率ないしはそれに代表される成長モードであり、ミクロの主要変数は経営の諸制度である。この内、経済の成長モードは、日本の1974年や1991年の前後に見られたように、一年程の時間で不連続的に変化することがあり、比較的短い時間で、新しい状況への「適応」が完了する。これに対し、「日本的経営」の柱となる終身雇用制や年功序列・賃金制などは、個々の会社では大制度改革により一挙に変わることがあっても、そのような改革が多くの会社で行われ、大勢として制度が変化したと観察されるようになるには、10年・20年という時間が必要であろう。
4.2項の「金融市場のミクロ・マクロ・ループ」では、時間尺度をもっと短とらなければ、意味のある分析をすることはできない。市場の趨勢変化に合わせて、トレーダーたちがかれらの認識と行動を変化させていく速度はきわめて速い。ことによるとそれは数分単位で変化する。市場に関する認識とそこにおける行動とはわずか一日でまったく変わってしまう。
このようにループによって、関係する時間尺度が大きく異なる。この点を十分考慮して議論しないと、ミクロ・マクロ・ループの話は混乱したものとなる。時間尺度が違うとと、ミクロの世界で考えるべきもの、マクロの世界で考えるべきものが変わってくる。数分という時間尺度においては、一回かぎりの行為と定型としての行動とを、概念上区別することには実質的な意味はない。しかし、ある関係行為(たとえば、株の売買)が多数回くりかえされるような時間間隔では、同一の行動すなわち同一の行為パタンと、それにしたがう多くの相異なる行為といった区別は、概念上の有用な区別となる。
たとえば、数年にもおよぶ安定的なミクロ・マクロ・ループでは、ミクロの世界で考えられるものは、ある一回限りの「行為」ではなく、繰り返しとして捉えられた定型行動ということになる。このとき、習慣や慣習としての制度と行為主体の行動とを整然と区別することは難しくなる。マクロの総過程は、もちろん、個々の主体のときどきの行為の集合としてある。しかし、それらが総過程のある安定な特性として出現するには、個々の主体における行為パタンの同一性が通常は前提されよう。このとき、ミクロとマクロの間のフィードバック・ループは、個々の行為と総過程との間というよりも、行為主体のある行為パタンとマクロの総過程の間に働いていると考えるべきであろう[14]。
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5.5 ミクロ・マクロ・ループの含意と課題
経済の総過程は、個々の部分に視野を絞ってみれば、ある小さな人間集団の形成するミクロ世界での取引であり、ミクロ世界がマクロ世界の個々の過程を誘導している。反対に、ミクロ世界における個人は、過去における自分または他者の経験をもとに世界を解釈し、仮説を構成する存在である。直接経験される世界は、上にいうミクロ世界であるが、そこに展開されるストーリーはマクロの総過程の一部としてある。諸個人の経済的経験を条件づけているものは、このようにマクロの総過程であり、その性質がどのようなものであるかによって、ある状況への対処である指令的知識もその有用性の水準も変わってくる。このようにミクロの世界におけるひとびとの行動は、マクロ世界の特性によって条件づけられている。
ミクロの世界とマクロの世界の間には、このように全般的な相互規定的な連関がある。前節4の3つの例は、ミクロ世界とマクロ世界の間に存在するこのような相互規定的な関係のうち、少数の変数の間にみられるいくらか劇的なものを取り出してみせたものである。
ミクロ世界とマクロ世界との間にこのような相互規定関係があるとき、ミクロ世界・マクロ世界の一方を他方から切り離して考察することは誤りといわなければならない。これがミクロ・マクロ・ループという主題のもっとも重要な含意である。すでに説明したように、これはミクロとマクロの世界を単純に接合しようとか、ミクロ分析とマクロ分析の統合を図ろうとするものではない。ミクロ・マクロ・リンクという主題で、おおくの論者が考えるのは、ミクロの理論もマクロの理論もいちおう成立したものと認めた上で、両者の結合を図ろうとすることであった。ミクロ・マクロ・ループという主題のねらいは、これとはちがって、より深く方法論的である。ミクロの理論、マクロの理論をいちおう暫定的に立てなければならないとしても、それはけっしてそれ自体として完結するものではない。ミクロの行動仮説は、つねにマクロの総過程のある特性を前提として導かれ、そのような特性の持続を前提としてのみ有効性をもち得るものである。マクロの総過程はミクロ世界の行為の論理に注目することなくけっして十分には説明できないものである。ミクロ・マクロ・ループの存在は、これらの結論を強要している。
ミクロ・マクロ・ループという主題は、理論がいかに始められなければならないかについてわれわれに教えるばかりではない。それはまた、理論の分析がなにを目指さなければならないかをも教えている。
例を選択行動にとって、話を進めよう。
新古典派の選択理論には、選択の抽象段階におけるひとつの誤解がある。それは、ひとがつねに、すべての可能な選択肢の集合の中から、そのつど最良のものを選びだしているという想定である。人間はたんなる反射機械ではなく判断する動物であるという考えがその背後にある。しかし、選択にかかる負担と、その選択に賭けられる「賞金」とを考えるとき、多くの選択はある定型的な選出手続き(A.ウォルトのいう決定関数)を目的にあわせて事前に決めておき、必要に応じてそれを適用する、という形のものにならざるをえない[15]。それはかならずしも、明確に記述され規則ではない。勘として働くなにものかであったり、単純な対応表であったりするかもしれない。より複雑な形では、それはいくつかの段階に分かれた"yes or no"の判断からなる二分木をなす。このような選出手続きは、たとえ「最適」なものでなくとも、人間にとって大切な知恵である。このような知恵を得るために、人間はさまざまなの仮説を作り、世界を理解しようとする。ミクロ世界の個人が「小さな科学者」であるのは、人間がこうした努力をする存在だからだ。これらの努力の結果、新しい選出手続きが見つかるかもしれない。そのとき、これら複数の選出手続きたちの間に選択の問題が生ずる。
人間の選択は2重構造になっているといってもよいであろう。ある状況において、人間はたしかにある種の選択をする。しかし、その選択は、目的と状況とによって決まってくるある選出手続きの実行にすぎない。この選択は、手続きが所与であるかぎり定型的なものである。しかし、人間は、この選出手続きそのものを選択の対象ともする。これは可能な行為の直接的選択ではなく、選出手続きという一段階抽象されたものの選択である。
この過程は、一種の進化過程と捉えることができる。この人為淘汰の対象となるのは、定型的な選出手続きであり、個々の選択肢ではない。選出手続きは、反復して適応可能であり、また複製可能なものである。意識的な選択は、それらの選出手続きの間の選択である。
こうして、個々のミクロ世界に現在採用されている行動プログラム(選出手続きもそのひとつ)は、長い経験の結果である。ただ、その経験は、何度の強調してきたようにマクロの世界から独立に存在するものではない。マクロの総過程のごく小さな一部が切り取られて、ある個人のミクロ世界を作っている。その世界がどのような経過をたどるかは、ミクロの世界内ではきまらない。ミクロの世界は、(少なくとも経済では)それ自身で閉じてはいない。ミクロの世界を演出するのはマクロの総過程なのだ。この小舞台で展開されるストーリーが、その内部にいる個人にとっては重要である。それがどのように展開されるかによって、ある特定の行動プログラムの意味が変わってくるからである。
ミクロの世界の選択過程がこのようなものとするなら、そこに展開されるストーリーが繰り返しされるものであることがひとつの重要な前提となる。もし、つねにまったく新しいストーリーが展開されるのであれば、ミクロ世界の人為淘汰はまったく無意味なものとなってしまう。
この繰り返しは、さまざまな形で引き起こされる。経済の諸事象のなかには、毎日・毎週・毎月・毎年といったように、自然のリズムを反映した社会制度によって引き起こされるものもある。経済の基礎的過程である交換は、二人の個人がある商品の売り手・買い手としてしばしば再登場することによって、繰り返される。しかし、より重要な反復は、マクロの総過程が特定のミクロ世界に引き起こす特定の繰り返しである。景気循環のように、その間隔に大きなゆらぎをもちながらも、経済の総過程が内生的に生み出す時間パタンはその一例である。長い経験をもった経営者は、いかに好景気といえども、かならず次にやってくる不景気を念頭に事業を拡大している。景気循環という繰り返される時間パタンが経営者の行動を規定しているのである。
ひとびとの行動がこのように繰り返される状況に条件づけられているとき、それが持続的なものであるためには、その行動の有用性を規定するマクロの総過程は次の性質を満たすものでなければならない。第一に、マクロの総過程が当該の行動を有効にする状況をミクロの世界に繰り返し再現すること。第二に、そのような状況において、当該の行動の有用性があまり大きく変わらないこと。マクロの総過程は、ある幅をもった特定の時間区間で考るとき、各行為主体によって採用されている行動によって生成されている。そのようにして得られる総過程がある個人によって生きられるミクロ世界の経過を規定し、ある行動(パタン)が持続して採用され続けるかどうかの重要な条件となる。マクロの総過程は、個々の行為の集合として存在するばかりでなく、このようなルートを通して、個人の行動を規定するものでもある。このような関係に注目するとき、ミクロ・マクロ・ループという主題は、ミクロからマクロへの規定関係とともに、マクロからミクロへの規定関係を重視し、そのような双方向の規定関係が相互に作りだしたものとして、いわば両者の「共進化」を研究すべきことを示唆する。ミクロ・マクロ・ループは、理論の始め方についてあるべき姿を教えるばかりでなく、このように理論が向かうべき課題をも示唆する。
上でわたしは、ミクロ・マクロ・ループの進化がミクロの行動とマクロの総過程のあいだのいわば「共進化」として生まれてくるというイメージを示した。この表現は、しかし、「共進化」の普通の使い方からすれば、誤解を招きかねないものである。生物学の普通の使い方では、共進化は二つないしそれ以上の種の間に進行する過程である。共進化の典型的な例は、虫媒花と訪花昆虫の間に見られる。それらの中には進化の過程でたがいに利用しあう相手が特定化されてきて、たがいに特定種の相手に頼ってのみ存続する組み合わせがみられる。制度的補完性といった主題においては、そのような関係の成立過程に対し、複数種の間の共進化の例が示唆的であろう。ミクロ・マクロ・ループに注目することは、ミクロの世界における相互補完的あるいは相互対立的な行動や制度の間の共進化を認めないというのではない。ミクロ・マクロ・ループという主題は、そのような種類の共進化とともに、ミクロ・マクロ・ループの存在により引き起こされる別の種類の共進化にも注目すべきことを要請している。ミクロ・マクロ・ループの進化は、複数の種の間の相互依存的な進化というより、むしろ種とそれをとりまく環境との間におこる種進化と環境変化の相互依存的な複合関係に対比すべきであろう。そのような過程のもっとも大規模なものは、地球生命の初期における嫌気性生物が炭酸ガスを同化し、酸素を放出する中で、次第に地球大気を酸素で汚染し、その結果として酸素を利用する生物が生まれてきたという進化であろう(森山茂、1997、第2章・第3章参照)[23]。
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5.6 社会学におけるミクロ・マクロ・ループ
経済学をいったん離れて、人間の別の活動、たとえば言語活動に焦点をおくとき、ミクロ世界はとうぜん上とは異なる姿を現す。象徴的相互作用論が切り出してみせるのは、このようなミクロ世界である。エスノメソドロジーは別のミクロ世界を切り取る。解釈学も、直接的には個人の理解の枠組みとしてのミクロ世界の分析である。それぞれの接近法に対応して再構成されるものは異なるが、それらがそれぞれ独自の仕方で、あるミクロ世界を切り取っている。
社会学にもマクロ理論があり、デュルケーム以来、多様な流れをふくむ強力な勢力を形成している。しかし、社会学では、ミクロの世界を理解しようとする流れと、マクロの構造や変動を理解しようとする流れとの間に有機的関係が生まれなかった。ミクロ・マクロ・リンクという主題が、このような状況を部分的に前提とするものであることはいうまでもない。マクロとミクロとの統合に向けた強い要請があるにもかかわらず、社会学においてわたしが考えるようなミクロ・マクロ・ループ関係が注目されないのは、マクロの規模で捉えられる社会的なものの存在のありかたが経済学がマクロの世界と想定するものとはかなり違っているためと考えられる。
ポパーの「世界」概念をもちいれば、その違いは、経済学が主として「世界1」の相互関連を問題にしているのに対し、社会学は主として「世界3」の実在性に取り組んできたことにある[13]。もちろん、これがかなり概略の総括であることは間違いない。経済学の対象とするマクロ世界にも、「景況観」といった、むしろ「世界3」に属する要素もある。社会学でも、たとえばパレートのいう「エリートの周流」は、(かれが正しいとすれば)すくなくとも「世界3」には分類しにくい社会的事実である。しかし、デュルケームが個人に外在的に「物として」存在すると主張する集合意識や集合表象、社会潮流等は、世界1というより、世界3の契機の強いものである。このような社会的存在として特徴的なものは、言語であろう。それは個人に外在的なものとして、社会的に存在するが、けっして「世界1]の存在とはいえない。マクロによるミクロの規定を議論する社会学において、しばしば言語の事例が例示されるのは、それがこのような存在として典型的であるからだろう。
ミクロとマクロの二つの世界を立てる必要は、社会や経済や政治組織が個人の視野の範囲を超えて拡大してきたことと切り離すことはできない。チンパンジーやゴリラのような霊長類が小集団でほぼ孤立して生きていると同じように、人類がそのように小集団で孤立して生活していた時代があるとすれば、その時代の社会理論・経済理論は、ミクロとマクロの区別を必要としなかったに違いない。さらにいえば、そのような時代には、社会理論・経済理論自体が必要とされなかったであろう。日常的な意識による世界の解釈は、そのままかれらの全世界の理解とつながっていただろうからである。経済的交換のネットワークが広範に広がり、族外結婚のような社会関係が拡大するとともに、行為者自身の視野を超えた関連や構造が生まれ、それが日常意識の理解する世界と異なる仕組みのものであることが気付かれたとき、社会理論が生まれたと考える方が適切であろう。
マクロの世界は、行為者の行為がその直接の働きかけ対象や意識の範囲を超えた明確な相互連関をもたないときには、存在感の乏しいものとなる。当事者間の横の連関があっても、第3・第4の行為者に対するその影響が急速に減衰するときには、マクロの世界は多数のミクロ世界の集合として近似的に分解可能なものとなる。このとき、マクロの世界を固有に考察することの必然性は薄いものとなる。この点に関しても、経済学の対象とするものと社会学の対象とするものとあいだには、かなりの差異があるものと思われる。
経済においては、すでに触れたように、ある個人の表明した需要は、もしそれが購買力(貨幣)の裏付けをもつものならば、小売店から問屋へ、問屋から生産者へと伝達され、それはさらに、一方では原材料関連を通して他の生産者の需要となり、他方では従業者の所得を中間項として別の消費需要を生みだすというように、その影響が広がっていく。その間、商品在庫の増減や購買力行使の延期(貨幣の一時的保蔵)という形の調整を被り、また金額換算されたその個別の影響量はたびかさなる分割により細分化されていくが、経済全体としての潜在的な需要総量は一定量を維持する。この意味で、需要の流通は、自然界における物質の循環と類似の保存関係がある。これは経済的交換関係が、貨幣を媒介とし、その数量により規制されていることの反映である。
社会学でも、経済の交換に類似のものとして、社会的交換が議論されている。たとえば、ブラウやコールマンは、エッジワースのボックス・ダイヤグラムを使って、ふたりの当事者の間に経済的交換とはことなる一種の自発的な交換が発生する理由を説明している。例としては、古手職員と新人との間の助力と服従の交換がある。しかし、これらの交換は、貨幣という媒体をもたないために、第3者との関係に発展しない。したがって、このような社会的交換は、ミクロ世界の内部で説明を完了しうるものである。社会的交換でも、マリノフスキーが調査・発見したクラ交易では、交換されるヴァイグア(財宝)は自家消費されることなく、次の交換のために使われる。このため、環状にならぶトロブリアンド諸島では、赤い貝の首飾りが時計回りに、白い貝の腕輪が反時計回りに回り続ける。島民は、普通には、隣の島しか訪れない。クラ交易は、かれらのミクロ世界を超えた明確なマクロ構造を作り出しているということができよう。しかし、社会学が問題とする交換には、このような「関係の延長誘発機構」をもつものは例外的でしかない。社会学でのマクロの構造は、したがって、同族関係や階層序列のようなものでなければ、「世界3」と特徴づけられるような、個人に超越的な存在が典型的となると考えられる。
社会学と経済学との違いは、前者に経済に見られるような典型的なミクロ・マクロ・ループが存在しないということにあるのではない。ミクロ・マクロ・ループが回転する場であるマクロの世界が、両者の間で質的に違うのである。経済学では、社会的に存在する物質の連関を主要な構造とするのに対し、社会学では、言語によるコミュニケーションを主要な相互作用とする集合的意識としてある。こうした違いが、社会学と経済学におけるミクロ・マクロ・ループを巡る議論の性格的な差異を作りだしているのであろう[18]。
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6.制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」
ミクロ・マクロ・ループという主題をわたしとはやや異なる視点から展開しているグループに磯谷明徳・植村博恭・海老塚明(1997;1998)がある。かれらはそれを「制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」」と表現している。この節では、この「制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」」を紹介する。その目的は、「制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」」とわたしの考えるミクロ・マクロ・ループとの異同を明らかにするとともに、それに対するわたしの見解を明らかにすることにある。
磯谷たちの研究計画の中に「ミクロ・マクロ・ループ」という主題が登場するのは、わたしの知る限りでは磯谷明徳・植村博恭(1996)が最初と思われる。そこではこの概念は本文中には現れないが、「補論:CIAと社会経済システムの制度経済学」のD「ミクロ−マクロの相互規定関係の理論化」において、CIA(比較制度分析)に対する自分たちの立場(社会経済システムの制度経済学)として「「ミクロ・マクロ・ループ」(ミクロ主体の意識や行為とマクロ的システムの動態との円環的規定関係。「ミクロ・マクロ・ループの概念は塩沢(1995)による)という発想を意識的に設定する」と宣言されている[19]。この計画は、同じ表題をもつ、つぎの植村・磯谷・海老塚(1997)において展開された。ここでは、わたしの「ミクロ・マクロ・ループ」概念とCoriat & Dosi(1996)の「Bottom-up/Top-down」という図式とを融合させて、「<Bottom-up/Top-down>のミクロ・マクロ・ループ」という表題のもとに、Coriat & Dosi(1996)の表2を修正した表(表1)が掲げられている。その説明にあたる第3節の(5)「ミクロ・マクロ・の円環的規定関係と「制度」の位置」には、次のように書かれている。やや長いが引用する。
「「制度」なるものを媒介とした「ミクロ」と「マクロ」の間の関係を解明する必要があるということである。そこには、ミクロ主体の意識や行動とマクロ的システムとの円環的規定関係が存在する。まず、「ミクロ」から「マクロ」への論理は、次のようになる。経済主体の繰り返される行動によって制度が再生産され、諸制度の補完性とその構造効果、制度進化や産業動態間の適合性に応じて、マクロの需要形成と生産性上昇が規定され、したがって資本蓄積の動態(マクロ・ダイナミックス)が生み出される。需要形成に関するカレツキの観点(所得分配と成長の相互規定関係)と生産性上昇に関するカルドアの観点(生産性上昇と成長との相互規定関係)が、ここで重要である。また、そこでは社会システムとの適合性も問題となる。次に「マクロ」から「ミクロ」へは、景気変動や国際競争、さらには構造的危機などのマクロ経済環境の変化が、制度の安定性や個別主体の意識や行動に影響を与える。たとえば、マクロ経済環境が変化し、将来にわたる企業の成長可能性が変化すると、企業組織内部の労働者の意識や行動、さらに学習過程に影響を与える。また、成長のダイナミズムの減少が、財政危機等を通じて「社会統合」の影響を与えることもありうる。」(植村・磯谷・海老塚、1997、pp.269-70;磯谷、1999、P.46。植村、1997、p.119 にもほぼ同文が見られる)
ここで主張されていることは、第4節・第5節で書いたこと、塩沢由典(1995)以来、わたしがミクロ・マクロ・ループという表題のもとに考えてきたこととほとんど一致している。ミクロで捉えるべきは、基本的に行為者の視点にたって、そのおかれている状況のなかでかれがみずからの行為をどのように決定しているかを理解することである。これを「ミクロ主体の意識や行動」と要約することは適切な表現である。マクロについて、わたしはそれをしばしば「経済の総過程」と言い換えてきた。これを「マクロ的システム」と呼び変えることも間違いではない。わたし自身が塩沢由典(1995、:1997a)で「行動」と「システム」という対比を使っている。「過程」を強調するわたしの立場からいえば、表1の中に書かれている「マクロ・ダイナミックス」という表現の方がより適切であろうが、それは大きな問題ではない。
ところが、その1年9カ月後の植村・磯谷・海老塚(1998)では、新しい表現として「制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」」という表題が現れ、ミクロ・マクロ・ループという相互的決定関係の内容と分析視角とががらっと変わってしまう。植村博恭たちにとって、この改変は「ミクロ・マクロ・ループ」論の新たな展開なのであろうが、いくつかの重要な点でそれは「ミクロ・マクロ・ループ」という主題を誤った方向に誘導しているものとわたしには思われる。
植村・磯谷・海老塚(1998)の「はじめに」では、この本の基本的視角を「社会経済システムの制度分析」であると宣言した上で、その特徴を3点にわたって紹介している。第1に、資本主義は市場システム・資本循環と賃労働関係との二重構造によって成り立つシステムであること。第2に、さまざまな制度が資本主義に埋め込まれており、それら諸制度間の「構造両立性」によって、資本蓄積のダイナミックスが規定されること。第3に、「制度」に媒介されたミクロ主体の意識や行動とマクロ・ダイナミックスとの円環的規定関係に注目し、これを分析するために制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」論を示したこと。この3点である。制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」論は、かれらのいう「社会経済システムの制度分析」の3つの特徴のひとつに数えられる中心的な視点に「昇格」している。
図1
@ B
← ←
S I P
→ →
A C
制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」という主題は各所に現れるが、その基本的な概念は主として海老塚明の執筆になる序章に示されている。その説明によれば、社会化装置としての制度は、2重の側面をもっている。ひとつは人間を制約ないし拘束するものとしての「制度」であり、もうひとつは「制度」によって社会的「主体」となる人間の行為の集合的結果としての「制度」のマクロ的効果あるいは「パフォーマンス」であるという。この第2の論点が分かりにくいが、これを「図式的に表現」したものが上に転載した図1である(植村・磯谷・海老塚、1998、p.18、図0−2)。みてすぐ分かるように、ミクロの主体S(Subject)とマクロ成果P(Performance)との間に制度I(Institutions)が挟まれている。
この図の意味は次のように説明されている。SとI、IとPとの間にそれぞれ一方から他方へ向きの異なる矢印が二本あり、それらに番号@、A、B、Cが割り振られる。このとき、@は「制度」によって「主体」が形成されるプロセスを示す。Aは、人々が「主体」として行為することによって、「制度」が維持・再生産されるプロセスを示す。Cは、「制度」によって形成された諸「主体」による「制度」の維持・再生産行為−−プロセスA−−の結果として、一定の成果が得られることを意味する。最後に、Bはマクロ的パフォーマンスが翻って「制度」の安定性や制度変化に与える影響を示す。
わたしの「ミクロ・マクロ・ループ」論と制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」論との違いが、この説明に集約されている。制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」の問題は、とくに規定関係Cにある。わたしの「ミクロ・マクロ・ループ」では、ミクロの諸行為が相互に関連しあってマクロの総過程を構成する。したがって、海老塚たちの表現をもちいれば、SがPを直接規定・構成する関係にある。また、第5節に例で説明したように、経済の総過程の特性Pの差異が、ひとびとの行動(いいかえれば行為のパタン)を変える。これも一応は、PがSに直接影響する形になっている。もっとも、パタンとして捉えられた行動は、すでに個人の習慣あるいは社会の慣習として「制度」と呼べないことはない。これは5.4に触れたように、考えられているミクロ・マクロ・ループの時間尺度をどのくらいの長さとして捉えるかにも関係する。時間尺度を長くとれば、行動と慣習としての「制度」とをほぼ一体のものと考えて、マクロの総過程Pの影響が「制度」I=Sの行為の変化と考えてもよい。しかし、マクロの総過程の部分としての個別過程は、個々の個人や企業の個別行為や二者間の取引としてあり、それは制度の発現であるにしても制度そのものではない。
塩沢由典(1985、p.16;1997、p.139)の最後に掲げた図は、この考えに基づいて書かれている。これを図2として再掲する[20]。ここでは、行動と制度とが同列におかれ、制度をミクロ的なものと解釈することが暗示されている。しかし、このように図示することができるからといって、マクロ過程の効果Pがかならず制度Iに作用し、その結果としてミクロ主体Sの行為を変化させるわけでもない。たとえば、個別主体のひとつである、ある企業をとってみれば、その企業に表明される需要の多寡が企業の生産量を決定する主要な要因(スラッフによる有効需要の原理)である。この需要はマクロの総過程の結果として個別企業に現れる。その数量は企業により直接把握され、その変化への調節としてミクロ主体の生産量決定がある。ミクロの主体にとって、すべてはミクロの世界のなかで起こる。生産量決定は、企業に表明される需要量というミクロの変数に対し、ある定型的な反応として、もうひとつのミクロ変数である生産量を決めるという行動である。
このとき、取るべき行動やそれを定める規則がミクロの世界、マクロの世界とどのような関係にあるかが問題になる。規則がひとびとに共有された「命令」としてあるという意味では、それはすくなくとも物質的なミクロ世界にもマクロ世界にも属さない。あえていえば、ミクロ世界の一部としてのひとびとの観念の世界にあり、その限りでミクロ的存在である。しかし、制度には「社会的な強制」ともいうべきマクロの側面があることも否定できない。それは賞罰の付加による強制ばかりでなく、規則などの意味のやり取りを介して多くの主体に共有される「当為」として現れることがある。それはポパーのいう「世界3」に属するものとして、マクロ的なものとともいえよう。本論文は、制度の議論を主目的とするものではないので、制度とはなにかを主題的に展開することができない[21]。「制度」をどのように理解するにせよ、経済の総過程が制度により直接的に生成されると考えることは難しい。それはかならず個人や組織の行為に表現されてマクロの世界に関係する。制度が自己展開していく過程こそが経済の総過程であるというのは、観念の自己展開を主張したヘーゲル的な譬えとして理解できないことはないが、それが個人や企業の行為や行動を媒介として現れる過程のだいぶ省略された表現であることは否めない。しかし、図2も、制度がミクロの世界に属する半面をもつと同時に、マクロ的な存在としての半面をもつことを十分表示できているとはいえない。
図2
行動 ← 制度
↑
→ システム
海老塚らの制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」では、「制度」が文字通り中心におかれている。ミクロとマクロの規定関係も、すべて「制度」を媒介とする形に書き換えられている。それにより、図2の非対称な図が左右対称の図1と描けることになる。しかし、海老塚の表現からも分かるように、IからPへ向かう規定関係Cは、「「制度」によって形成された諸「主体」による「制度」の維持・再生産行為−−プロセスA−−の結果として」得られるマクロ的効果すなわちあるいはパフォーマンスPである。海老塚のこの説明は的確である。Cにおいては、規定関係はIから直接Pに向かうのでなく、IがSの行為を決める結果として、間接的にIがPを規定している。つまり、それは
←
S I P
→
と表現しなければならないものである。これは海老塚らの制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」図式の小さなほころびである。しかし、制度とミクロ・マクロ・ループの理論的関係を考えなおすひとつの重要な手掛かりがここにある。むしろミクロ主体とマクロの経済成果の間により直接的な関係があり、制度はその背景にあるものではないかという疑問がここから生まれる。
図式はむしろ反対の印象を与える。図1では「ミクロ的主体の意識や行動とマクロ・ダイナミックスとの円環的規定関係」はむしろ背景に退いてしまい、制度と主体、制度と成果という関係が表面に出てくる。たとえば、それは、ミクロとマクロの関係がつねに制度を媒介とするものという印象を生む。海老塚らは、制度を中心として、ミクロとマクロがそれぞれ制度と取り結ぶ関係によって、ミクロ・マクロ・ループが成立するかに考えているようだ。そこからは、ことなる制度にはことなるSおよびPが対応するという主張しかでてこない。「図式の分析用具としてのポイント」の第2に次の説明があるのは、そのことを裏付けている。
「ミクロ「主体」の行為とマクロ・パフォーマンスは、必ずしも一対一に対応しているわけではない。両者の間には、「制度」という媒介が存在している。このため、マクロ・パフォーマンスがいかに変化しようとも、「制度」を変化させるものでないかぎり、「主体」の行動パターンは同一であり続けることがある。また、ミクロ「主体」の行為が同一であろうとも、他の諸「主体」あるいは「制度」のあり方いかんによっては、同一のパフォーマンスを上げられない場合も存在する。」(植村・磯谷・海老塚、1998、p.20)
海老塚が言っているのは、制度がおなじであればおなじ行動が従い、制度が違えば違うマクロ成果が生まれるという関係である。この指摘と論理的に両立し、かつ制度とミクロ・マクロ・ループの関係を明らかにするのは、ことなる制度にはことなるミクロ・マクロ・ループS−Pが対応するという主張である。しかし、ミクロ・マクロ・ループの重要な点は、その点にあるのではない。制度がことなれば、行為主体のおなじ行為が異なる経済成果を生む。このことは、新古典派も否定しないであろう。どんな制度を考えているかにもよるが、たとえば税制のようなものを考えるのであれば、個別主体の反応が同じであっても、税制がことなれば別の行為を誘発し、それが別のマクロ成果を生む。このことにすこしも不思議もない。制度が異なれば、ループS−Pの対が違ったものになるという主張は、制度が行為を決定するという方法論的全体主義(ないしは制度を物象とみる見方)とも対立するものでもない。
ミクロ・マクロ・ループで注目しなければならないのは、しかし、こういう関係ではない。それでは、方法論的個人主義にも方法論的全体主義にも対決することはできない。そうではなくて、おなじ制度のもとにおいても、ミクロとマクロの相互関係によっては、異なるループが出現することが重要なのである。たとえば、第5節で示した第2の例は、短期の同じ制度のもとでも、値上がり期待と実際の値上がりというループと値下がり期待と実際の値下げという相反する二つの組合わせが有り得ることを示している。このような可能性には、植村も気がついている。第4章注(11)において、植村は「現実の物価上昇率」と「期待物価上昇率」との間に「一種の「ミクロ・マクロ・ループ」」が成立すると注意している(植村・磯谷・海老塚、1998、p.233)。このミクロ・マクロ・ループが「一種の」と形容されていて、「制度論的」と呼ばれていないことは示唆的である。このような短期の状況では、制度が変化してループが分岐するのではない。おなじ制度のもとで、2種類以上の異なるループが成立する。しかし、このようなミクロ・マクロ・ループを「制度論的」と表現することはできなかったのであろう。
ミクロ・マクロ・ループを図1のように図式化して考えた結果、植村・磯谷・海老塚(1998)はミクロ・マクロ・ループという円環的規定関係をただしく主題化できていない。ミクロ・マクロ・ループという主題を掲げながら、むしろ方法論的全体主義の伝統に後退してしまっている気味がある。
そのひとつは、制度をいわば「物象」として扱っていることである。これは社会的事実を「もの」として見なければならないというデュルケームの主張に合致するものでり、制度にそのような半面があることをわたしも否定しない。しかし、制度をあたかもそれ自体として現象する存在と考えてしまった結果、海老塚らの議論は方法論的全体主義の引力圏内に引き込まれてしまっている。
これは単に形而上学的な存在規定の問題ではない。制度が参加者たちの選択の対象でもあるというもう半面を見失ってしまったため、海老塚らは制度をミクロの主体の意識水準において分析する契機を失っている。その「制度分析」は、著者たちの意図に反して「制度による説明」ではあっても、制度がどのように維持・再生産されていくかという分析つまり「制度を説明する分析」にはなっていない。主体Sと制度Iとの「相互規定的な円環関係」に留意しながらも、分析の具体的場面では、まず制度が前面に立ち、現状がそうなっているということは分かっても、なぜそのように人々は行動するのか、なぜそのような多層的調整を行わざるをえないのか、説明していない。説明しようとしていないのか、説明できないのか。判断は微妙であるが、たぶん前者であろう。
制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」理論といわば対をなすものとして「ミクロ・マクロ連接領域」の設定がある。コリアたちの影響のもとに、植村たちは、ミクロの世界とも、経済の総過程とも異なるものとして、「ミクロとマクロの中間領域」=「メゾ領域」を設定する。わたしのミクロ・マクロ・ループでは、ミクロの世界は行為主体の視野と働きかけの範囲内と限定されている。行為主体ないし当事者の視野を超える分析は、すべて理論的に再構成されてはじめてわれわれに見えてくるものである。その意味で、わたしにとってそれはマクロ分析に属する。植村たちが、この中間領域をどのような意味で「中間的」と呼ぶのか説明がない。かれらはこの領域を特別に重視して、この領域こそがかれらの「制度分析」の主たる分析対象であり、かれらの分析は「メゾ分析」と特徴付けられるという。もし、なんらかの理由によって、このような領域をミクロ・マクロ・ループという関係においてでなく、ひとつの固有の分析対象として設定できるなら、ミクロ・マクロ・ループという主題は、じつは不要のはずである。
この領域の分析対象としては次の5項目が挙げられている。
技術パラダイム
市場
企業間関係
集団的行動とコンフリクト
企業組織とイノベーション
ところが、植村・磯谷・海老塚(1998)では、これらは実質的にはほとんど分析されていない。多くは、他の経済学者たちの主張の紹介に終わっている。企業間関係については、索引にも現れない。唯一、実質的な分析といえるのは、第4章1の(1)の@「商品市場の動態と競争過程による調整(1)」である(植村・磯谷・海老塚、1998、pp.154-62)。これは「市場」というミクロ・マクロ連接領域において、どのような調整が行われるかのかなり長い記述であり、ここでは、価格調整と数量調整、在庫調整と稼働率調整・資本ストック調整、雇用調整、さらには「技術の移行過程」による調整までが語られている。多種類の調整に触れているが、それらの「重層的な調整」がいかなる場合に切り替えられるのか、それはミクロの主体のどのような判断なのか、という考察を欠いている。さまざまな調整が事実として語られているのみで、行為者視点ないし当事者視点にたった分析はなされていない[22]。重層的な調整という標語が先行し、その視点の重要さが強調されている。それはいいのだが、なぜこのような重層的な調整がなされるのか、ことなる調整の間の関係はいかなるものか。こうした考察が欠けている。
分析におけるこうした欠落は、植村・磯谷・海老塚(1998)がミクロ・マクロ・ループという主題とミクロ・マクロ連接領域とを安易に結び付けた結果であろう。かれらは価格や諸種の数量の調節がいかになされるかについて、ミクロ・マクロ・ループという主題にそって分析すべきところを、ミクロ・マクロ連接領域が当事者たちの行為を離れてあたかも「もの」として存在するかに考えてしまったのである。ミクロ・マクロ・ループとミクロ・マクロ連接領域という用語は、ことばの発想はたがいによくにている。しかし、だから一方を他方に置き換えられると思うのは間違いである。ミクロ・マクロ・ループという主題とミクロ・マクロ連接領域という対象とは、じつは方法論的には似て非なるものである。
わたしは「制度分析」を放棄せよと提案しているのではない。わたしが磯谷・植村・海老塚の3人に提案したいのは、ミクロ・マクロ・ループという主題にそって制度分析の理論枠組みを組直すことである。そのためには、まず「制度」とはなにかについて議論しなければならない。しかし、上にも述べたように、ここは「制度」を主題として議論する場ではない。以下は、ごく簡略なスケッチにすぎない。
海老塚たちは、制度を「人々を特定の思考習慣・行動に誘導する社会的「装置」であると考える」(植村・磯谷・海老塚、1998、p.18)。これはヴェブレンの定義を受けてホジソンが修正した「伝統、慣習ないし法的制約によって、持続的かつ定型化された行動パターンを作り出す傾向のある社会的組織」(ホジソン、1997、p.9)という定義をさらに修正したものである。「社会組織」を「社会的「装置」」と変えたところが海老塚たちの主たる工夫である。海老塚たちは、このような「諸「制度」が時間的にも空間的にも重層的に入れ子構造を形成しているために、そこから生み出される調整作用も重層的なものとなる」と考えている(植村・磯谷・海老塚、1998、p.18)。このようにいうとき、この調整には、在庫調整や稼働率調整、資本ストック調整も含めて考えられているのだろうか。もしそうとすると、「社会的「装置」」ないし「社会化装置」という表現が問題となる。なぜなら、これらの定型的行動は、社会のさまざまなところで広く用いられているといっても、企業がそれらを採用するような社会的な力が働いている訳ではない。需要のゆらぎに対して在庫調整で対応すべきか、稼働率調整で対応すべきか、またどのような方式により調整量を算出するかは、社会が定める制度ではない。それらは会社の事情に合わせて取捨選択されるものである。それらは社会的知識として存在しているかもしれない。だが、それらは個々の企業の当事者たちが取捨しうる定型であり、そのかぎりでミクロの世界を構成するものである。
簡単にいえば、制度は、ミクロ世界に秩序を与え、そこでの行為を導くものとして存在する。貨幣や所有権といった制度は、ミクロの世界の行為者たちの行為(たとえば、交換)を可能にするとともに、その範囲を制約するものでもある。この意味で、制度は、行為に可能性を与えるものであるとともに、その制約でもある。企業がおこなうさまざまな調整の中には、単に習慣としか呼びえないものの他、社会の慣習や協定ないしは立法による調整もある。そのようなものを含めて、習慣や制度は、まずミクロの世界における規範であり、行動の定型を与えるものである。制度は、マクロの総過程に働くものでも、マクロとミクロの中間領域に働くものでもなく、ミクロの世界の行為の諸前提としてある。比喩的な表現をとるならば、それはミクロの行為の場を作りだす。
もちろん、制度の分析をひとつのミクロ世界の話に限定することはできない。制度には、個人の習慣や癖、あるいは個別企業が任意に選びとった調整規則や処理規則などとは異なる社会的なものとしての存在もある。法律などであれば、ある種類の行為が社会全体に禁じられたり、ある種類の行為を行うことが強制される。法律のような社会の明確な規約でなくても、社会にはさまざまな慣習がある。取引上の慣習は、法律で定められていないものでも、それを受け入れて取引することが、一定の取引共同体においては事実上(つまり取引を円滑に成立させるために)強制されている。これは、ミクロかマクロかという分類でいえば、明確にマクロに属する事象である。ただ、それが属するマクロ世界は、経済行為が引き起こす効果が相互に関係して作りだされる、いわゆる経済の総過程ではない。それは社会的な広がりをもつ規範であり観念的強制である。このような慣習や規則は、ミクロの主体にとっては、社会とか取引共同体というマクロの世界が押し付けてくるものとして現れる。ここに、制度の特殊な次元がある。
社会的な行為においては、このような強制は、いわば「規範世界」を共有することによって働くことが多い。これに対し、経済的行為においては、強制は、より実利的な次元で働く。異なる文化共同体に属する二者の間にも、取引関係を通して、共通の慣習・慣行を受容するよう圧力が働く。ある個人がある慣行を受け入れない場合、それを受け入れる集団から取引拒否という制裁を受けることもある。取引のネットワークはミクロ世界を越えて世界大に広がっているため、商習慣は領域的に拡大する傾向がある。おなじ場面でも地域によって用いられる習慣が異なるときには、境界において慣習間の競合が起こる。制度と制度変化を議論するには、個別のミクロ世界における分析とともに、このようなマクロの連関のなかで、制度や制度群がどのような圧力の場におかれるか考察する必要がある。しかし、これは「ミクロ主体の意識や行動とマクロ的システムとの円環的規定関係」つまりミクロ・マクロ・ループという主題において中心的に議論すべきものからはやや外れた話題であろう。すくなくとも、それは「ミクロの主体」と「マクロ・ダイナミックス」との間のミクロ・マクロ・ループの中心的話題ではない。そのような話題が重要でないというのではない。そのような考察の前に(あるいはそれを前提にして)、ミクロ・マクロ・ループとして分析しなければならないのは、ミクロの行為世界とマクロの世界的連関の相互規定からどのような経済過程が出現するかという問題であろう。
そのような議論において、制度や慣習は重要な役割を果たす。ミクロ、マクロを問わず経済の諸過程は、制度や慣習の他、投入・産出関係や設備の耐久性、技術の代替関係、ひとびとの欲求、価格メカニズム、など多くの関係に条件づけられて進行する。いま、経済の諸過程における相互作用を総称して「経済メカニズム」と呼ぶことにすれば、経済メカニズムは一連の経済行為が個々のミクロ世界を越えて相互にどのような影響をもたらすかという構造を作りだすものといえる。一口に制度といっても、その内実は多様である。社会的な行動習慣に過ぎないものから、貨幣や所有権のように経済メカニズムを規定するものまである。経済過程のなかで、それらが選択の対象になったり、紛争の解決手段として導入されたりする。
ミクロ・マクロ・ループという主題と、それら制度的なものとの関係を図示するとすれば、
↓
S P
↑
制度・経済メカニズム
といった形になるだろう。制度を含む経済メカニズムは、まず主体の行為とマクロの総過程とが展開される場を用意するものとしてある。所与の制度や経済メカニズムの中で、経済過程がどのように進行するか。われわれに必要なものは、まずその分析理論である。
こういったとしても、SとIとの間の相互的な関係をわたしが否定しようというのではない。諸制度の組み合わせの中で、総過程を含む経済の諸過程が進行し、その結果として、行為者からみた現存の制度に関するある評価が生まれる。制度が行為者をある行為に誘導する一方、制度自身もこの評価に基づいて選びだされるという関係がある。行動の進化ないし共進化といった主題においては、すでに5.5に示唆したように、このような相互関係が考察の対象となる。やや似た構造をもつにせよ、それをミクロ・マクロ・ループと混同されるべきものではない。制度にかんする誘導と選択のループとして主題的に考察すべきものであろう。
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7.複数均衡とミクロ・マクロ・ループ
第6節では、おなじ制度や経済機構において、異なるミクロ・マクロ・ループが現れうることを強調した。ミクロ・マクロ・ループが、ミクロへの還元主義、あるいはおなじことでミクロからの構成主義を主張する方法論的個人主義に対するアンチ・テーゼであるためには、この指摘は重要である。ところで、方法論的個人主義に立つ枠組みにおいても、同一の与件において異なる均衡状態が成立することを指摘し、そこに種々の意味を読み取る流れがある(青木昌彦、1992;同、1995;青木・奥野、1996、ほか)。これは、現在では強力な影響力をもつ見方であり、「複数均衡」という表題で主題化されている。この論文の最後に、ミクロ・マクロ・ループと複数均衡論との差異について補足的な考察を加えたい[23]。
複数均衡は、アローとドブルーにより定式化されたタイプの通常の一般競争モデルにも出現するし、ゲームの理論におけるナッシュ均衡としても出現する。以下では、主としてゲームの理論におけるナッシュ均衡を念頭におく。
まず、ナッシュによる「均衡」の概念を復習しておこう。ナッシュ均衡は、ゲームの解概念のひとつとして提案されている。ゲームとは、複数の行為主体がそれぞれ自己の戦略を選択するとき、その組合せに応じて、各主体に対する利得が定まるものをいう。この戦略を同時に(つまり、他の行為主体の戦略決定を知らずに)選ぶか、交番ゲームのように、他の主体の戦略決定を知ったのちに順番に選ぶか、あるいはさらに決定をくだす機会とそこにおける戦略とを選べるとするかによって、ゲームの様相は大きく変わってくる。しかし、多数の主体が時間のなかで展開するゲームを分析することは、エージェント・ベースのシミュレーションを除いては、容易ではない。そこで、ゲーム理論の枠組みを経済学において用いる場合は、同時選択型のゲームが考察されることが多い。このような設定のもとに、ゲームの「解」として注目されるのがナッシュ均衡である。
まず、各主体がある戦略を決定・採用している状態を考えよう。任意の主体にとって、他の主体の戦略決定が変わらないとするとき、自己の戦略を他に変更することによって自己の利得を高めることができないとする。このような状況がすべての主体に関し成立するとき、ゲームのこの解をナッシュ均衡という。このような均衡は、多くのゲームにおいて、複数存在することが知られている。この事態は、かつては解の不決定問題として理論の不十分さを表すものと考えられたこともあるが、現在では逆に経済システムの多元性を例示するものとして積極的に評価されている。
いま、複数のナッシュ均衡の存在するゲームを考えよう。ゲームのあるひとつの状態を経済の総過程と見なすとき、ここにはある種のミクロ・マクロ・ループが成立しているといえる。どのような均衡が成立しているかによって、各行為主体がとるべき最適戦略が変わってくる。たとえば、ナッシュ均衡Aにおいては、各主体がタイプaの戦略を最適とし、ナッシュ均衡Bにおいては、各主体がタイプbの戦略を最適とするということが起こりうる。第6節で、同一の制度状況においても、ことなるミクロ・マクロ・ループが出現しうることを強調したが、それと同様の事態がゲーム理論における「複数均衡」としてもえられる。安定なミクロ・マクロ・ループにおいては、経済の各当事者は、自己の行動を変化させる理由をもたない状態にある。これは、経済をゲームと考えると、ナッシュ均衡の状態に他ならない。この限りで、ミクロ・マクロ・ループは、ゲームにおける最適戦略の文脈依存性(なにが最適戦略となるかは、ゲーム全体の状況に依存するということ)を異なる視点から取り出してみせたというにすぎない。しかし、このことから、ミクロ・マクロ・ループという主題をゲームの理論の均衡概念に帰着させることはできない。
まず、ミクロ・マクロ・ループは、安定な状態を記述するものにかぎられない。第5節に取り上げた「金融市場のミクロ・マクロ・ループ」を考えてみよう。そこでは、市場参加者は状況の変化に応じて自己の仮説を随時再構築しながら行動している。このように自己の仮説をも改変すながら行動することによって、市場の状況と趨勢を変化させ、そのことがまた各市場参加者の仮説をも左右している。ミクロ・マクロ・ループは、このように基本的にダイナミックな相互規定概念であって、それが安定化した静的状況のみを対象としたものではない。
このようなダイナミズムは、通常の進化ゲームにも現れない。ここに「通常の進化ゲーム」とは、各戦略が状況から独立に定義されているゲームにおいて、各主体がある確率において自己の戦略を適応的に変化させていくものをいう。このような進化ゲームにおいては、戦略の分布状態を「相空間」ととることにより、すべてのナッシュ均衡とそれぞれのナッシュ均衡がその近傍において安定的か、そうでないかを定義することができる。このような進化ゲームにおいては、その解としては安定的なナッシュ均衡への漸近的収束を考えるのが自然である。このような進化ゲームにおいては、進化という過程が含まれているにもかかわらず、過程が最終的に収束する先は、進化を考えないゲームのナッシュ均衡解に止まることになる。ミクロ・マクロ・ループは、そのような収束過程を排除するものではないが、それに止まるものではない。金融市場のミクロ・マクロ・ループにおいては、ある種の「相転移」ないし「モード転換」を伴いつつ、新しい様相がつぎつぎと現れてくる。ここでは、あらたな戦略が状況の中で発見されてことが特徴的である。
じつは、進化ゲームは、本来、このような過程を含むものと思われる。遺伝的アルゴリズムをもちいるシミュレーションにおいては、戦略の空間は事前に確定的に指定される閉じた集合ではない。そこでは、変異により新しい戦略が随時導入され、そのことにより戦略空間が拡大されている。比喩的にいうなら、戦略の空間は開かれた集合をなしている。もちろん、これも超越的な立場から考えれば、可能なすべての戦略からなる集合があり、進化の過程はその集合内で発見された戦略の集合が徐々に拡大していく過程でしかないと言えるであろう。しかし、分析の実態においてはこれは本質的な差異であり、安定的なナッシュ均衡のすべてを視野におくことは分析者にとってもできない。このような進化ゲームを「本来の進化ゲーム」と呼ぶなら、「通常の進化ゲーム」と「本来の進化ゲーム」の間に分析の視角にある基本的な違いがあるといわなければならない。機能的要素が環境に応じてその性質を変えることをもって複雑系の定義とする清水博(1988)の考えによれば、本来の進化ゲームだけが複雑系とよびうるものである。ミクロ・マクロ・ループは、そのような複雑系においてしか、十分な意味をもたない。
すでに触れたように、ミクロ世界は行為者にとって(そしてまた分析者にとって)「豊富過ぎる世界」である。そこにおける行動やそれを支える知識や仮説は、つねに開かれており、新しい発見の可能性をもっている。脳が外部世界と同等に複雑であり、言語により組み立てられる世界の組合せ多様性に注意するとき、ある限定された戦略の集合の中から最適な戦略が選びだされてくるという「通常の進化ゲーム」の研究プログラムには、欠けたものがあるといわなければならない。現実の経済を分析するというよりも、ゲームの理論をもてあそび、その解に当てはまる事例を探しだすことを経済の研究と考えるという風潮が一部に見られる。経済システムの多元性にかんする青木昌彦の説明は巧妙なものであり、その意義は否定されるべきものではない。しかし、その成功を追いかける形で「通常の進化ゲーム」を経済の説明の範型(パラダイム)とし、それに当てはまる事例の発見を経済学の中心課題と考えてはならない。ミクロ・マクロ・ループは、進化ゲームのように形式化された枠組みではない。そのかぎりで、それが漠然とした概念であることを認めなければならない。しかし、それは、多数の自律的な行為者が諸制度の助けを借りつつ作りだす世界規模のネットワークを考察するとき、つねに念頭におくべきミクロとマクロの関係を示唆する標語として機能しており、発見誘導的な働きをしている。その意味において、ミクロ・マクロ・ループは、経済学において有意義な主題提起となっている。
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補注
[0]この論文の原型に対し、磯谷明徳・植村博恭・海老塚明の3氏および大阪市立大学大学院の塩沢ゼミの皆さんからコメントを受けた。それにより混乱していた説明がより簡潔なものになった。このことは、しかし、第6節で批評されている3氏がわたしの批判を受け入れたということを意味しない。最後に、この論文を進化経済学への道を示してくれた瀬地山 敏先生に献ずる。
[1]専修大学社会科学研究所シンポジウム「新古典派経済学を超えて」(1995年7月1日〜2日)における報告。その内容は塩沢(1995)に収録された。それは一部削除・修正の上、塩沢由典(1997)第3章、pp.113−143に再録されている。その後の、この概念に対するわたしの言及については、塩沢由典(1997b)pp.225-231、塩沢由典(1998)第10節、pp.87-88、塩沢由典(1999a)第4節・第5節、pp.41-44、塩沢由典(1999b)pp.75,77,90、Shiozawa(1999)pp.30-31をみよ。
[2]磯谷・植村(1996)、p.54、平山朝治(1997)第4節、西部忠(1998)V.1、植村博恭(1997)p.119、磯谷明徳(1999)pp.30,33,46-7,60,66-75,88、植村博恭(1999)pp.66-72、清水耕一(1999)pp.152&166、など。以上には、この観念が塩沢由典(1995)ないし(1997)の発想によると明示されている。植村・磯谷・海老塚(1998)および上記引用の諸論文では「制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」」概念が提唱されている。その他、「ミクロ・マクロ・ループ」という概念への言及としては、植村高久(1996)p.37、谷本寛治(1998)pp.20-21、八木紀一郎(1999a)、八木紀一郎(1999c)などがある。八木紀一郎(1999a、p.10)は、その多くの論文において「ミクロ−マクロ関係が主題となっている」と指摘し、「ミクロ・マクロ・ループあるいはミクロ・マクロ・リンクと呼ばれる課題」によって、「新古典派的なアトミズムかそれとも全体論的なシステム決定論かという不毛な二者択一からの脱出路を示唆しているように思えた」と書いている。
[3]この点については、塩沢由典(1997b)への再録にあたって、その「解題」において触れた(pp.142-3)。なお、塩沢由典(1998)pp.87-8をも見よ。しかし、この語について「システム論関係ではいろいろな人が使っている」と書いたのは、今井・金子(1988)を意識してではない。塩沢(1995)の校正時に参照したのは、鈴木・吉田編(1995)の梅沢直樹論文(1995、p.185-6)であった。
[4]谷本寛治(1993)には「ミクロ・マクロ・ループ」という表現が一回(p.115)現れているが、それを独立の話題としては議論していない。それは「ホロニック・ループ」との類似性において言及されているだけである。明示されていないが、これは今井・金子(1988)の表現が滑りこんだのであろう。谷本寛治(1993)では、この二つの表現の他、オート・ポイエーシスやシナジェティクス、散逸構造論、さらにはブローテンの「自省的な対話ルール」(self-reflective dialogical loop)などをもほとんど同列のものとして議論している。
[5]谷本寛治(1998)pp.20-21、八木紀一郎(1999a)p.10、八木紀一郎(1999c)など。[6]表現M=M(m(S(P)))において、M,m,Sなどは、説明変数であるとともに、より深い水準の変数により説明される関数としても考えられている。いいかえれば、式M=M(m(S(P)))はM=M(m)、m=m(S)、S=S(P)という3つの式の省略された表現である。
[7]ミュンヒ(1998)の次の指摘にも注目。「交換理論・コンフリクト理論・シンボリック相互作用論・エスノメソドロジーによって組み立てられる社会秩序のモデル」は、「《すべてのものが個人によつて変化させられうるのであり、社会は本当に個人行為の産物でしかないのだ》というアメリカ的信条を多かれ少なかれ無意識に体現している。この意味で、それらのモデルは、ヨーロッパ思想から影響をうけたパーソンズのアプローチよりも一層アメリカ的楽観主義の典型的見本であるといえる」(ミュンヒ、1998、pp.224-5)
[8]簡単に紹介すれば、後者に対しては次の批判が展開されている。理解やコミュニケーションを重視する象徴分析やハバーマス理論など範疇分析的モデル(catgorial-analytic model)は、制度や社会分化にかんする考察を欠いている。権力関係や紛争を重視する抗争モデル(model of antagonism)は、万能なエリートが抑圧された大衆の利益に反して主意主義的にマクロ構造を作りだすという限られた状況のみに限定されている(Giesen,1987,pp.343-47およびpp.352-3)。
[9]Boudon(1987)の「文脈に依存した合理性」、Wippler & Lindenberg(1987)の「個人2」の概念、ミュンヒ(1998)の還元主義批判、Giesen(1987)の「進化論的代案」など。
[10]古典的なゲームの理論は、ゲーム参加者に戦略の選択をさせても、そのゲームが展開される状況(たとえば、利得関数)は、アプリオリに与えている。このため、このようなゲームには、ミクロ・マクロ・ループは理論の構造として入りえない。進化ゲームでは、参加者の行動パタンが部分的にランダムに変化し、その中から成績のよい行動が選択される。このゲームでは、ゲーム参加者の優勢な行動パタンが変わることにより、マクロ状況の変化に近いものが起こりうる。したがって、ここでは、原理的にはミクロ・マクロ・ループ的関係が成立するが、この方面への関心はまだ薄いようである。青木昌彦(1995)第3章「進化ゲームと均衡の多生成」、青木・奥野(1996)第3章「企業システムの生成/進化論的アプローチ」、第11章「経済システムの生成と相互接触/進化ゲーム的アプローチ」など。現在までのところ、進化ゲームでは、参加者間の相互作用が簡単すぎて、個別行動の変化がマクロの「モード変化」を引き起こすようなものになっていない。そのため、明確なミクロ・マクロ・ループが観察されてないことが、この主題への関心の低さをもたらしているものと考えられる。管見するかぎり、実験的にも理論的にも、マクロ状況の変化が個別主体の行動変化に及ぼす影響といった主題は取れあげられていない。なお、第7節では、ゲームの理論の複数均衡とミクロ・マクロ・ループの観点の違いについて論ずる。[11]この点は、塩沢(1999a、p.43-4)に言及した。青木達彦(1999)をも参照せよ。
[12]スラッファの原理とその意義については(塩沢、1990;1998)第6章を参照せよ。
[13]塩沢由典(1990,pp.266-76)あるいは塩沢由典(1997a,pp.32-37)などをみよ。視野の限界といっても、視覚のみを問題にしているのではない。メディアや情報機器をも含め、個人が一定の時間と費用の範囲で収集できる情報の範囲に限界があることを意味していることに注意する。
[14]植村・磯谷・海老塚(1998)の制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」におけるIとPとの間のループは、このような時間尺度におけるミクロ・マクロ・ループを考えているとみなすこともできよう。習慣と慣習との移行は微妙であるが、慣習はつうじょう制度に属するものと見なされている。
[15]判断のこのような様相については、塩沢由典(1998b)をみよ。
[16]生物学のミクロ・マクロ・ループの類比例を、みじかなところで考えるならば、共進化よりも宿主と寄生者の共生関係の方が適切かもしれない。宿主という環境を所与として、寄生者は適応的に進化するが、そのような異物を抱えこんだ宿主も適応的に進化して、ときに両者が双方の利益となるような双利共生が成立することがある。石川統(1988)参照。
[17]ポパーの「世界1」、「世界2」、「世界3」については、ポパー(1999、pp.146-57)を参照せよ。簡単にいうなら、世界1は客観的・物質的な世界、世界2は意識された世界、世界3は数学や理論など記号に支持された論理的な存在としての客観世界である。
[18]ミクロ世界とマクロ世界の区別は、ハーバーマス(1987、第6章、下、pp.9-129)における生活世界とシステムとほぼ並行するものと思われる。ただ、ハーバーマスは、両者の分断を批判しようとしているかにみえる(同、下、p.65,p.69,p.111など)。しかし、わたしの立場からいうなら、大規模な社会においてミクロの生活世界とマクロの社会・経済システムとが乖離ないし分断するのは当然のことであり、むしろ両者の間に成立する双方向的な規定関係をこそ分析すべきものと思われる。これらの点については別の論文で主題的に論じたい。
[19]磯谷明徳(1999c)では、Coriat & Dosi(1996)の表と無関係にわたしの「ミクロ・マクロ・ループ」が紹介されている。八木紀一郎編(1999、p.100)には、この論文が『経済学史学会年報』(第34号、1996年)を再録したとある。ただ、そこにおける修正シェーマ図がわたしのシェーマ図における規定関係の矢印と向きが逆転している点には留意すべきであろう。これはミクロの行為がマクロの過程を直接構成するのではなく、制度という媒介を通して影響するという、後に批判する「考え」に接続している。磯谷たちのミクロ・マクロ・ループに対する批判として竹田茂夫(1999)がある。
[20]図2は、あまり深く検討することなく書いた図式であり、以下の議論からも分かる通り、厳密に考えると必ずしも適切でない点がある。たとえば、制度を媒介としないPからSへの規定関係が有り得ることについて、この図は誤解を生みかねない。この図が磯谷明徳(1999c)のシェーマ図となり、それが修正されて制度論的「ミクロ・マクロ・ループ」の図式(図1)が生まれたという経路が考えられる。もしそのような流れがあったとすれば、図2はなおさら不適切というべきかもしれない。なお、磯谷明徳(1999c)のシェーマ図の規定関係の方向が逆転していることは注[18]に指摘した。表現としても、「行動」と「行為」とを正確に区別するなら、制度を定型行動(のパタン)と見るときには、図の「行動」は厳密には「主体の行為」などと表現すべきであろう。「システム」という表現も不注意で、いまなら「総過程」と書くにちがいない。
[21]「制度」と一口にいっても、その中には、つうじょうさまざまな種類のものが含まれている。塩沢(1996)は、制度として定型行動、機関、秩序形成者の3つの典型を押さえることを提案している。
[22]植村たちは、在庫調整と稼働率調整と資本ストック調整とが「タイムスパンに応じて多段階的構造をなしている」と注意している(植村・磯谷・海老塚、1998、p.159)。しかし、このような多種類の調整が各企業に表明される需要のゆらぎの特性に依存することを見ていない。この点ついては、塩沢由典(1990、第1章の第3節・第4節、pp.12-23)を参照せよ。ここでわたしは企業が在庫・稼働率・生産容量(資本ストックの生産可能量)という需要変動に対応する3つの変数をどう使い分けて調節しているか、概略の議論を提示している。西部(1996; 1998)には、より詳しい展開がある。寡占企業の製品価格についても、植村・磯谷・海老塚(1998)は、それが「マークアップ原理」により決定されると述べるだけである。では、そのマークアップ率は競争のなかでどのように決められるか。こうした点に関する分析が一切されていない。この点については、塩沢由典(1984)を見よ。
[23]ここでは、複数均衡とミクロ・マクロ・ループとの概念上の差異になついてのみ述べた。近年、ゲームの理論の経済学への応用が目覚ましいが、既存のゲームの理論に対する批判的検討としては、Takeda(1998)Chap.3 がある。一部には2人ゲームの結果をもって、企業組織や経済全体のアナロジーを構成するような懸念すべき傾向が見られる。他方、エージェント・ベースの進化ゲームでは、コンピュータ・シミュレーションでしか明らかにできないいくつかの興味ぶかい結果をもたらしている。一例として、Izumi & Ueda(1999)および和泉・植田(1999)をみよ。
[26]後に触れるように、現在はこの図式には満足していない。
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