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数学とオカルトのあいだ

『数学のたのしみ』特集「数学にたくす夢」 第30号 pp.36-42 2002年4月

目次
数学のオカルトな利用
数理経済学の苦闘
数学化の落とし穴
数学の強い光
ではどうするか


数学とオカルトのあいだ

塩 沢 由 典   .

 最近、わたしは、経済学の思考のあるべき位置は、数学とオカルトのあいだにあると考えている。こんなことをいうと、数学とオカルトとが地続きだといっていることになり、たいがいの数学者にはまずは呆れられるであろう。すくなからぬ数学者には、けしからんと叱られるにちがいない。わたしも、数学そのものがオカルトに接続しているといいたいのではない。中世の数学にはともかく、現代の数学には、オカルティズムは含まれていない。しかし、数学ないし数学用語の利用となると、どうであろうか。


数学のオカルトな利用

 数学用語のもっとも現代的な利用法のひとつが、ポストモダンの著作にみられる。集合論や位相数学の用語(境界、内部・外部、開かれた、メビウスの帯、クラインの壷、非決定性、などなど)でちりばめられた華麗な文章は、その主張内容とはべつにそれなりの効果をもっており、その効果ゆえに多くの読者を得てきた。それらを詩の言語と見るならば、数学は人間の空想力に新たな可能性を与えたといえる。しかし、内容的には、数学用語はよくて比喩的に用いられているにすぎず、最悪の場合は、誤用・誤解である。これら数学用語の濫用は、修辞的にはある種の詩的効果のゆえに許されるべきであろうが、なんらかの主張をもっているかに装っている散文においては、誤った権威主義でなければオカルティズムにほかならない。濫用の多くの事例は、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『「知」の欺瞞』(岩波書店、2000年)に採集されているから、ここでは繰り返さない。フランス現代思想とその影響をうけたカルチュラル・スタディーズの一部に数学や物理学の用語や理論をあたかも意味ありげに引用する強い傾斜があることは否めない。

 用語の比喩的濫用以外に、数学の新しい理論を新しいものの見方として引用する例もおおい。ゲーデルの理論、カタストロフ理論、ファジイ理論、フラクタル理論、カオス理論などせまい数学の世界を越えて関心を集めた理論が、軒並みに、自己の主張を正当化するものとして引用され、解説され、解釈されている。それらの中には、もちろん正当なものもある。しかし、多くの場合、それらの理論は内容のない主張を飾り立て、想像力をかきたてるためにのみ利用されている。それらは、言説の主張内容とはなんの論理的関連をもたないが、その言説を権威づけるためには役立っている。

 数学の用語や理論のこのような権威付けのための利用は、ひとことでいえば、数学を搾取するものであろう。ポストモダンの言説における問題は、このような数学の搾取がオカルティズムに外ならない点にある。

 意識してかどうか、このような数学の搾取は、社会科学のいくつかの場面でも起こっている。たとえば、欲望のエネルギー理論とか市場の確率場理論とかいったものでは、保存則の概念や統計力学の方程式がいろいろに引用されるが、それらが社会や経済の数量としてどのように定義されうるのかまったく言及がない。数学的表現が与えられれば、そこに何らかの意味が生ずると信じられているのであろう。

 わたしは複雑系経済学の提唱者のひとりであるが、1996年以降に現れた「複雑系」を名乗る社会科学の著作の多くが複雑系の数学や物理学のオカルトな利用であることを認めざるをえない。複雑系という言葉が、想像の領域をいくらか拡大させ、新しい問題設定を可能にしたが、科学的な言説・論理的な言説とオカルトな言説との区別が曖昧になったこともたしかである。

 数学や物理学のオカルトな利用は、新しいものではない。19世紀の最初の年、すなわち1801年、フランスのI.N.カナールは、需要と供給の平衡によって価格が決まるというアイデアを数学的に表現することを試みている。カナールは、需要が価格を押し上げる力、供給が価格を圧し下げる力とが釣り合う点で価格がきまると主張したが、需要の力と供給の力がどのように定義されるのか示すことなく、このような力の存在を仮定し、需要・供給の平衡という観念を抽象的に定式化したにすぎなかった。これはいわば、数学の比喩的利用であって、数学を厳密に考える立場からは、乱用ないし誤用である。

 経済学は、しかし、一般的には比較的はやく、このような数学の搾取から離れることができた。このことを自慢してばかりはいられない。すぐ後でみるように、経済学は別の大きな問題にぶつかってしまったからである。


数理経済学の苦闘

 数学の比喩的な利用を超えて、意味のある考察は、たとえばクルノーに始まる。かれは、すでに1830年代、現在の立場からも意味のある独占競争の数学理論を展開している。1870年代には、いわゆる「限界革命」(*)がおこり、数学化への長い行程が開始された。この行程が順調に進んだわけではない。その証拠は、長い移行期間そのものにある。数理経済学が市民権を得るのはようやく1930年代に入ってからである。このころになって初めて、数学的方法が理論経済学の主要な方法と認識されるようになった。

(注)1870年代に、イギリスのジェヴォンズ、スイスのワルラス、オーストリアのメンガーなとが微分学を取り入れた経済学を創始し、従来の古典経済学とはことなる方向に踏みだした。生産費を重視した古典派にたいし、かれらは購買者=消費者の評価を考慮する価格理論を唱え、方法的にも内容的にも経済学を一新した。こうして生まれた経済学の革新が、後に「限界革命」と呼ばれるようになった。その中心となる考えは、価格と直接関係するのは、全部効用ではなく限界効用であるということにあった。ここで、「限界効用」とは、消費可能な数量が1単位増えたとき増えるであろう効用(全部効用)の増分をいう。これを微係数と同一視することから、経済学に微分学と最適化計算とが導入された。限界革命後、経済学を数学化することが一部の経済学者たちの理想となり、1930年代のオーストリアでの研究を経て、1950年代にほぼ完成した。この経済学は、最適化と均衡(数学・物理科学における「平衡」にあたる語)とを枠組みとする体系であり、新古典派経済学と呼ばれ、現在主流の経済学である。

 数学の推論としても、1930年代までは、きわめて不完全であった。限界革命の3人の主役の中ではもっとも徹底的に数学的であったワルラスにしても、非負の解の存在を証明することは手に負えず、未知数と方程式の数を数えて満足していた。1930年代のウイーンでは、経済学者のカール・メンガーと同名の(ときにCarlと綴られる)息子が数学講座の教授をしていた。かれの数学コロキュアムには、ワルトやレマク、モルゲンシュテルンいった人達が出入りし、数理経済学の数学的基礎づけに乗り出した。1936年、フォン・ノイマンが「経済の均衡体系およびブラウワーの定理の拡張について」という論文を発表するのは、こうした動きに刺激されている。

 数理経済学は、その後も、ながくワトキンスやハイエクのいう「代数的理論」に止まる。代数的理論とは、個々の経済主体(個人や企業)を考えた場合には、ある特定の関数関係が確定され、それらが関数で書き表されるという前提のもとに組み立てられるタイプの理論をいう。諸変数のあいだにどのような関係があるかを原理的には示すことはできるが、すべての個人・企業について、そのような観察をすることは不可能である。その諸変数は、計量経済学のそれのように実際的に測定可能なものではない。推論の結果として、測定可能な数値を生み出すことはできない。数理経済学は、この意味で、(反証もふくめて)検証可能な学問ではない。それでも、この学問がオカルトでない(とわたしが考える)のは、個々の個人ないし企業の行動原理が明確に定義され、その原理のもとに個人あるいは企業がどのように行為するかが、論理的に推論可能になっているからである。この推論にあたって数学的定式化が有力な方法となっている。

 ただ、代数的理論とオカルトな社会科学(を装う言説)との区別がつねに容易であるわけではない。あまり明確な区別がないからこそ、つねにオカルトな理論が生み出されるともいえよう。数理経済学の成功が社会科学における数学や物理学のオカルトな利用を促している側面がある。

 こう考えているものの、わたしが主張したいのは、科学とオカルトとを区別し、社会科学の言説を科学に限定すべきだということではない。経済学の歴史は、このような科学主義が経済学の発展に大きな障害になってきたという教訓を与えている。この点をすこし説明しておこう。


数学化の落とし穴

 限界革命以降の経済学は、最適化と需給均衡(需要量と供給量とが等しい状態)の二つを理論枠組みとしている。最適化は、個人や企業の行動を特定化するために使われる。個人は効用関数の値を最大化する。企業は、利潤を最大化する。これらの最適化は、ある制約条件のもとになされる。このような行動決定は、数学的には、制約条件付最大化問題を解くことにあたる。企業の行動は、利潤の最大化という基準によって与えられる。制約条件は、企業の技術を反映する生産可能集合であり、耐久資本財など期首に与えられる賦存資源量である。これらの最適問題を解くことにより、個人の需要関数、企業の供給関数が得られる。これらは、相対価格を独立の変数としている。経済全体の需要関数・供給関数は、各財・各サービスごとにこれら需要関数、供給関数を集計すれば得られる。需要供給の一般均衡は、すべての財およびサービスについて需要と供給とが一致する点に求められる。

 このような理論建てには、一見、何の問題もないように見える。じっさい、仮定から結論を導く論理には一点の齟齬もない。経験科学としては、しかし、大きな問題を含んでいる。

 第一に、需要関数の構成にかんする難点がある。多数の商品を前にして、消費者が効用最大化の計算を行おうとすると、その計算はナップザック問題とおなじく経済時間の爆発という事態に直面する。消費者が最大化計算を厳密に行っていると考えることには無理がある。近似計算をしていると考えればどうであろうか。この場合には、需要関数が不確定となるという問題が生まれる。効用の値を最大化するに近い財・サービスの組み合わせは、多数存在するからである。

 第二に、供給関数の構成にも難点がある。各企業が供給関数をもつということは、各企業が所与の価格体系において、自己の製品をこれだけは売りたいが、それ以上は売りたくないという数量をもつということである。製品が一種類に限られるとき、その企業に生産数量を独立変数とする費用曲線(全部費用曲線)が定義される。企業が供給関数をもつためには、供給と等しい生産数量において、企業の費用曲線を微分したもの(限界費用曲線)が価格に等しくなければならない。このことは、価格が正であるかぎり、生産数量において平均費用曲線(全部費用を生産数量で割ったもの)が正であること、したがってこの点において規模にかんして収穫逓減であることを含意している。しかし、現実の工場を観察して見ると、規模にかんしては収穫増大であるのが通例である。供給関数の構成理論は、供給関数を定義するために、現実とはことなる仮定を置くことで成り立っている。(以上は、わたしの『複雑系経済学入門』の第3章にくわしく説明されている。)

 アローとドブルー(それぞれ1972年、1983年のノーベル経済学賞受賞者)の競争均衡モデルに代表される一般均衡理論は、このように経済の現実を歪めることにより、論理的に完璧な理論となっている。

 このような事態にたいし、もちろん、多くの批判がなされた。それらは一般に仮定の非現実性という主題にまとめることができる。それは経済学の学問としての健全さを示すものであろう。しかし、経済学の歴史では、このような批判を無効とする驚くべき言説も生み出されている。その代表的なものは、ミルトン・フリードマン(1976年のノーベル経済学賞受賞者)によるものである。フリードマンは、仮定の非現実性は理論にとってなんの問題でなく、それが経験科学として容認されるかいなかは、その理論から導かれる結論が予測能力をもつかどうかにあると主張した。正しい結論を導くならば、仮定が非現実的であるほど、その理論には驚きがあり、優れた理論であるとも主張している。しかし、理論はもちろん一体のものであり、恣意的に仮定と結論とを分離し、結論のみを検証・反証のテストに掛けてよいものではない。仮定の任意性は、検証も反証も不可能な命題にたいしてのみ認めうるにすぎない。

 新古典派経済学とよばれる現在主流の経済学には、このように理論の枠組みが基礎となる前提を規定しているという事情がある。この事態をわたしは「理論の必要」と呼んでいる。新古典派経済学では、理論の必要が非現実的な仮定を正当化している。非現実的な仮定を必要とする理論枠組みであるから、その理論が革新されるのでなく、逆に、非現実的な仮定の採用が正当化されているのである。

 これは、経済学が数学を主要な方法として採用した結果陥った理論の罠である。数学を使うというのは、ひとつの科学的な方法である。だが、ある理論枠組みと数学との組合わせが、あやまった仮説の採用を必要とさせ、他の可能性や新しい枠組みを困難にさせているとしたら、これこそ認識論的な障害以外のなにものでもない。数学そのものに罪があるのではないが、数学的定式という強力な方法が誤りに陥るとき、それに対抗できる数学理論を提出できないかぎり、理論を訂正できないという深刻な事態がこうして生まれる。

 経済学史のこのような教訓を前にするとき、数学化の進展を単純に喜ぶわけにはいかない。オカルトを避けようとして、正しい数学の利用を強調するとき、その強調が意図せずしてもつ効果にたいしても自覚的でなければならない。


数学の強い光

 経済のような複雑な対象では、うまく数学的に定式化できないさまざまな様相がある。数学の厳密な利用は、このような様相を理論的考察から排除する効果をもつ。このことを指摘する、おもしろい寓話がある。これは、もともと、アラブ起源のものらしいが、経済学にはシュービックやモンブリアールによって紹介・流布された。

 ある真夜中のこと、たったひとつの街灯の下でひとりの酔っ払いがうろうろしていた。なにかを探しているようである。通りがかりの人が問いかけると、鍵を探しているという。それは困るだろうと通りがかりの人も鍵探しに参加する。しかし、鍵は見つからない。しばらくして、通りかがりの人は、酔っ払いに問いかける。「お前は、ほんとにここに鍵を落としたのか。」すると酔っ払いは、平然として答えた。「いや、鍵を落としたのはあっちの方だ。だが、あっちは暗くてなにも見えない。だから光りが当たっているここを探しているのだ。」

 数学は強い光だ。だが、数学化のみを理論の営みと考えると、上の酔っ払いと同じことになりかねない。数学の光が当たっているところだけが研究され、他のもっと重要な課題は放っておかれることになる。1970年までの100年間、理論経済学はほぼ数学の光により進歩してきた。そのこと自体には罪はない。ただ、数学の光が当てやすい枠組みとそうでない枠組みとがある。最適化と均衡(=平衡)とは、そのような光の当てやすい枠組みであった。その結果、論理的には巨大な進歩が得られた。しかし、それは同時に経済学が誤った方向にさまよいでることでもあった。数学の光がそこにあたり続けることで、皮肉なことにその誤りが隠されてきた。これも、また、経済学にひそむ危険な道のひとつである。

 数学の論理が適切に適用できる範囲は、まだ十分広くない。数学が証明できることを意味するなら、証明はできないが正しいと思われる多くの知識が経済学ではありうる。数学の光が当たらないからといって、それらを系統的に排除してよいであろうか。

 数学であるに違いない命題でも、ものによっては長いあいだ証明のつかないことがある。その代表的な例はフェルマーの定理であろう。中学生にもわかる単純な命題でありながら、その証明が完成するまでに数学は350年を要した。自然科学の典型とされる物理学でも、すべての法則や現象が基礎の原理から説明されているという状態は、理念的にのみ成立する描像でしかない。すくなくとも、物理学の実際の歴史においては、それは解析力学と同一のものではない。ある現象や法則の発見からそれらが原理的に(つまり解析的に)説明されるようになるまでには、ときに非常に長い時間を要している。たとえば、熱力学の第二法則は、ニュートンのプリンキピアの発表後200年近くを経て、ようやくボルツマンにより解明された。これは量子力学にも相対性理論にも関係しない意味で古典力学の範疇に入る現象であるが、統計力学の発達になくしては説明できなかった現象・法則であり、当然の時間差といわなければならない。

 原理からの論理的な説明が可能になるまでの長い時間を考えるとき、経済学を数学理論の内部に閉じ込めることの危険性について、つねに自覚的でなければならないだろう。経済学が対象とする現象は、物理学の個々の現象よりもはるかに複雑なものとかんがえなければならないものも多い。このような体系では、ある現象やその背後のメカニズムが容易には定式化できないということも覚悟しなければならない。定式化できたとしても、そこに使われている概念や定義されている量が曖昧である可能性もある。法律の言語が判例の積み重ねによって次第に精緻になるように、経済学の用語も、判別すべき多くの状況に出会ったのちに、はじめて判明なものになるのかもしれない。

 わたしは最初に「経済学の思考のあるべき位置は、数学とオカルトのあいだにあると考えている」と書いた。数学の光の中にのみ真実が隠されているのでないとき、多少ともオカルトな冒険をも許容しなければならない。そうした冒険の中にこそ、新しい可能性が隠されているかもしれない。

 このオカルティズムは、ポストモダンのような数学や物理学のオカルトな利用=搾取とは異なるものだ。ポストモダンでは、既存の数学や物理学の権威を利用している。これに対して、必要な冒険は、既存の数学に限界を感じ、あえて数学的論理の向こうに飛び出すことである。そうした意気込みがなければ、理論の必要な革新は不可能であろう。 


ではどうするか

 新しい冒険は、数学の言語よりも、まず最初は、日常の言語でなされるであろう。そのとき、われわれは日常言語あるいは散文の特徴について自覚的でなければならない。

 日常言語と数学の言語のあいだには大きな差異がある。数学の命題は、原理的には真偽が判別できるものである。たとえば、「2以外の素数は奇数である。」という命題は、それが主張されている瞬間があらしであろうと晴れであろうと真である。論理学は、基本的には数学の命題をモデルとしているから、すべての命題がこのような性格をもつと考えられている。論理学にいう命題は、この意味で状況独立命題である。しかし、日常言語ではほとんどの命題は、それ自身としては真偽を決定するのに不十分である。「この花は美しい」という命題は、まず「この」が指し示す花がどれであるか、「花」とはどの範囲の概念であるか、「美しい」と感じるのはだれか、その人の心理状態はどうであったか、現にそう観察している状況において花はいかなる状態にあったか、などなどによって真にもなり、偽にもなる。このように日常言語の多くの命題は、状況に依存して真偽が判定される状況依存命題である。

 状況依存命題を数学の状況独立命題と同じように議論することはできない。経済学においてこのような考察が必要なのは、たとえば景気循環を考察するにあたって、そこに介入しうる諸概念があいまいであり、さらに議論される諸命題のほとんどが状況依存的であるということである。景気がよい、景気が悪いといわれるときの「景気」とは、いったいなんであろうか。時間とはなにか問われたときの聖アウグステイヌスの当惑とおなじ当惑を景気についてわれわれも感じる。深く考えれば、景気は時間よりもっと始末のわるい観念であろう。しかし、経済学では景気について語らないわけにはいかない。多くの観察が状況依存的なものであるとき、それらを法則化することにも問題がある。それは、ある隠れた状況変数に支配されているのかもしれない。

 経済現象の解明とは、諸現象を数学的に切り取り、得られた方程式を変形して解を求めることではない。観察される現象そのものに潜むあいまいさや状況依存性に考慮しながら、物理学者のいう「物理的直観」に相当するもの、すなわち「経済学的直観」を育てることであろう。そのような直観の形成なくして、数式化できる範囲でのみ経済を切り取るとき、われわれは厳密さゆえの虚偽に陥らざるをえない。

 結論的にいえば、経済現象が複雑であることを自覚し、その複雑さに適切に立ち向かうことであろう。数学により解明できる範囲はいまだそう大きくない。そのことを自覚するとき、日常言語によってのみ可能になる観察や議論があることに気づかねばならない。これはほとんどつぎのことを意味する。数学化すなわち数学的定式化とそれに基づく展開だけが理論的考察の方法ではない。すくなくとも、経済学の多くの問題領域において、その考察が既存の数学の枠に乗らないことを覚悟すべきである。複雑系の真のメッセージはここにあるとわたしは考えている。




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