2023.8.22 Sraffa (1926)の後、どう繋げるかで悩み、けっきょく二日かけてFrederic Lee の Post Keynesian Price Theory (1998)を読んでいた。他では得られない貴重な情報まんさいなのだが、やはり「価格理論」であるという限界を越えられていない。すでに亡くなってる著者にこんな不満を述べても意味がないのだから、本当は、Lee (1998)以降の四半世紀に、これを乗り越える著作が現れていなことに不満を感じなければいけないのだ。
2023.8.20 昨日・今日とSraffa (1926) The laws of returns under competitive conditions を再読していた。意外に新しい意味が見えてきた気がする。
2023.7.27 Rosaria Rita Canaleが2003年に書いたMicrofoundations of macroeconomics. Post-Keynesian contributions on the theory of the firmを読んだ。ほとんど同名のLavoieの新著の書評を請求した際、発見したもの。企業の理論としては、ほぼ妥当なことを書いているが、数量面の調整がどうなるかについての関心がない。また個別企業の行動が経済全体としての何をもたらすかの関心もなさそうだ。
2023.7.23 Moshe Syrquinの論文Kuznets and Pasinetti on the study of structural transformation: Never the Twain shall meet? (2010)を読む。経済史の立場からPasinettiのvertical integrationを読んでも、当然、不満は残るだろう。問題は、Pasinettiを超えて我々が提起しようとしている理論枠組みにどんな印象を持つかだ。
2023.7.22 昨日のHagemannの図は、我々が今企画しているParallel History in Economicsの一例になるだろう。そう思って、Hagemannの論文を付けて、田淵・八木両氏にメールを送る。
2023.7.21 Luigi Paninetti: An Intellectual Biographyに紹介があって(p.261)、Harald Hagemannの論文 ‘Luigi Pasinetti’s structural economic dynamics and the employment consequences of new technologies’ を読んでいる。この9.1図(p.207)が示唆的だ。Vertical approachとHorizontal approachの二つの流れを図示した上で、HicksもPasinettiも、この両者を統合すべく二つの間を行き来しているというのだ。この対立図式から欠け落ちているものが大切なのだろう。
2023.7.15 明治の国際会議への報告論題(英文の方)をRicardo, Sraffa, Pasinetti, and Behondと決め、その要旨を書いた(350 words)。大胆な主張になるが、そろそろ正面切って主張していくことが必要だろう。
2023.7.14 Pasinetti自身の2010年以降の著作や、彼について書いた論文をいろいろ探し読む。Ricardo -> Sraffa の延長上で貿易論を考えようとする論文のいくつか出ていることに気づいたが、なぜかSteedman (ed.) Fundamental Issues in Trade Theory 1979以降の展開がほとんど感じられない。我々の国際価値論についても、存在に気づいてもいないようだ。
2023.7.13 9月の明治の国際シンポジウムの要旨提出期限が近づいたので、関連資料を読みはじめる。報告主題も、当初のものからRicardo, Sraffa, Pasinetti, and Beyondにしようかと考えている。
2023.7.7 7月1日に続き7月5日にも、Lars Syllの記事に投稿。Jesper JespersenがLars Syllの本(The Poverty of Fictional Storytelling in Mainstream Economics)についての書評をReal-World Economics Reviewの#104に書いている。たぶん、Syllの提案で、雑誌編集部から頼まれたのだろう。ほとんど盟友関係の二人だから、きつい批判的なことは書いていないが、最後に近い部分で(読み方によっては)なかなか厳しいことを書いている。以下は、その要旨。
ロンドンやコペンハーゲンの書店を覗いてみると、異論派(dissenting economists、現在の経済学に異論をもつ経済学者たち)の本に溢れている。例えば、ハジュン・チャン、ヤニス・ヴァルファキス、ロバート・スキデルスキー、マリアナ・マッツカート、ステファニー・ケルトン、ケイト・ローウォスなどなど。これらよりもっと売れていると思われるようなものも、「経済学の何が問題か」に話題と絞っている。それでも書棚では、主流派の著作が圧倒的である。これはいったいどういうことだろうか。
この指摘から考えられることは、Lars Syll流の批判が繰り返されても、主流派経済学に対抗できるだけの理論がなければ、けっきょく(現在の)主流派の経済学を駆逐することはできないということだろう。まさに、it takes a theory to beat a theory である。
2023.7.6 7月1日に、例のReal-World Economics Review BlogのLars Syllの記事にコメント。Syllと私とでは、経済学を進めるべき方向や手法において、ほとんど反対の立場にあるのだから、彼のいちいちの立論に疑問を呈しても意味はないのだが、今回もJohn Stuart Millの言説を引いて"mathematical-deductivist straitjacket"を批判していることに、古典派だからといって、Millの主張がつねに正しいとは限らないことを指摘しておいた。数学的演繹的方法は、たしかに一面では拘束衣なのだが、科学は自由に想像力を展開しさえすれば良いというものでない。自分たちの思考がいかに誤りの多いものかという点に反省がなければ、数学的演繹的方法の意義を本当に分かったとは言えないだろう。