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行動のプラグマティック理論
『組織科学』第32巻第3号の未完成原稿です。これは作業途中のものを掲載します。かなり前のもので完成稿が見当たらないためです。全体の構成も違ってしまっているかもしれません。正確には『組織科学』の当該個所に当たってください。完成稿は以下に収録されています。
「社会科学の方法としてのプラグマティックス理論」『組織科学』(組織学会編集、白桃書房発行)Vol.32, No.3、1999年3月、pp.38-46。
塩沢由典(大阪市立大学)
1)経済学における人間行動
人間は生きていくためにさまざまな経済活動を行っている。経済学の対象が、ひとびとのなす経済活動とその結果として生じる諸現象である以上、人間の経済行動をどうとらえるか、経済学は、長い間、格闘してきた。
経済学の主流にある新古典派経済学は、人間の経済行動を目的行動と捉え、それを目標関数値の最大化として定式化してきた。企業は利潤を最大化し、消費者は効用を最大化するよう、それぞれの行為を決定し、実行する。これが、新古典派の考える経済行動の基本型である。しかし、人間の推論能力・計算能力を考えに入れるとき、この最適化行動仮説があまりに単純な定式化であることはすぐ分かる。たとえば、消費者が効用を最大化するよう買い物をしようとするとき、その決定に必要な計算時間は、コンピュータをもってしても、商品の数が100もあると、ビッグバン以来現在までの時間を超えてしまう(1)。新古典派の一般均衡理論がいまだに最大化行動の定式にこだわっているのは、最大化の定式を放棄するとき、既成の理論の枠組みが崩壊するという恐怖のためである。
もし経済行動が最大化・最適化によって定義づけられないものであるなら、経済学は人間の経済行動をどのような特徴において捉えればよいのであろうか。これが経済行動に関するわたしの研究の出発点となった。わたしの到達した結論は、それを「定型行動」として捉えたらどうか、というものであった。
そのような観点から、諸文献を読んでみると、経済学とその関連分野において、そのような見方はすでにさまざまな形で提出されていた。たとえば、Nelson and Winter(1982)は、「企業の規則的で予測可能な行動パタンすべて」の総称として「ルーィン」を用い、March and Simon(1958)は、「プログラム行動」といった表現を用いている。
定型行動といっても、人間がつねに一定の行為を繰り返しているという意味ではない。状況と目的に応じて、適切な行為を選択しているが、その選択肢が一定のルール(規則)にしたがって選出されていることを定型的行動と呼んでいるのであり、その点を強調して「プログラム行動」と呼ぶこともできる。
定型行動ないしプログラム行動の一つの典型は、在庫管理に見られる。自動車メーカーの補修部品部門のように多数の製品種類をもち、注文に応じ発送している部署を考えてみよう。このような部署では、仕事は、おおきく二つに分けられる。一つは、注文に応じてただしく商品を送り出すとともに、請求書の発行や入金管理を行うこと、もう一つは、商品の動きをみて必要な部品を発注し、在庫切れを防ぐことである。受注から入金までには、時間的な順序も含めて、かなり固定的な作業がなされる。たとえば、一定の時期に入金の有無をチェックして、未入金の場合には、督促状を送るといった作業がある。発注に関しては、いつどれだけ発注するかが重要な選択肢となる。これは製品に対する受注の頻度などにより、いくつかの方式がある。たとえば、(S,s)法と呼ばれる方式では、在庫が最小限度数sを切ると、最大在庫量Sを回復するよう発注がなされる。この場合、どのような最大在庫量Sや最小限度数sをどう決めるかに関して裁量の余地があるが、それらがいったん決められると、とるべき行為は、受注の流れにしたがってほぼ自動的に決まってしまう。のちに触れるように、純正の決定と呼ぶべき熟慮の後の決断がないわけではないが、企業の日常の業務における多くの作業がこのような定型化されたものである。
2)CD変換としてのプログラム行動
定型行動は、つうじょういくつかの構成部分に分けられるが、その素過程ともいうべき構造として、吉田民人の「CD変換」がある。
吉田は、この概念を、吉田のいう古典的記号論を整理する中から、析出している。(『自己組織性の情報科学』p.43)。吉田は、古典的記号論には、ティチナー、ソシュール、オグデンとリチャーズに代表される系譜と、パースからモリス、????へとつながる流れがあるという。前者が記号を意識主義的(mentalistic)に理解しているのに対し、後者ではプラグマティズムを受けて、記号の行動主義的(behavioristic)な把握が試みられている。そのもっとも特徴的な部分が、パースを受けてモリスが意味の第3の作用???と呼んだinterpretant(解釈項 、ときくち)という見方である。始業のベルがひとびとを各自の部署に走らせるように、ある特定の記号を受信すると、それがある特定の行動を解発する傾向がある。これをパースやモリスは、記号のinterpretantとしての意味であると考える。このinterpretantは、吉田の意味変換という図式にしたがえば、CD変換という形で捉えられる。ここで、CはCognitive meaning(環境認知的意味)、DはDirective meaning(行動指令的意味)を表す。ある認知的な意味のある信号に接すると、それがある行動の指令に変換される。それがこの記号のinterpretantとしての意味であり、それはCD変換の形で表現される。吉田はこう整理した。
CD変換は、行動主義のS−R公式(刺激−反応反射)の再解釈とも考えられる。進化論的には、これが神経性情報処理のもっとも原初的な形態と考えることもできよう(同、p.50)。CD変換は、しかし、単なる刺激−反応パタンではない。CD変換とSR図式との最大の差異は、前者が記号過程に接続する糸口を与えている点である。目的行動をふくむ人間の意図的行動は、ふつう「物語」、「シナリオ作り」など「ことば」を用いる記号過程を媒介としている。記号論から出てきた概念として、CD変換には、SR図式にはつうじょう含まれない含意がある。
3】CD変換と内部状態
行動は、認知される外部の状況のみに依存するわけではない。外部とともに、行動主体の内部状態(空腹か、怒っているか、あるものに価値を認めているか)がどうあるかが、Cの受容やDの実行の条件となっていると思われる。また、Dを実行することにより、内部状態自身も変化すると考えられる。そこで、CD変換は、より詳しくは
qS−S'q' ないし qSS'q'
という形をもつ「4つ組命令」と見るのがよいだろう。
ここに、qは内部状態を指す。qSS'q'は、内部状態がqのとき、環境がSであるかないかが観察され、認知され、もしそうなら指令S'が実行され、内部状態をq'に変えるという意味をもつ。内部状態がq以外のときには、外部状態がSであるかどうかという認知作用が起こるとはかぎらない。
CD変換をqSS'q'の「4組命令」を外部との関係にいてのみみたものと考えることができる。チューリング機械とは、4組qSS'q'の空でない有限集合であって、最初の2記号に同じものを含まないものをいう(Davis, p.5. Def.1.3)。計算機としてのチューリング機械においては、内部状態qにおいて、ヘッドが読み取る記号が文字Sならば、記号S'が次のいずれかによって、以下の動作を行い、状態q'に移行する。
S'が文字の場合 テープの現在位置の記号を消して、文字S' を書き込む。
S'が命令の場合 ヘッドの位置を右あるいは左にひとこま移動させる。
任意の帰納的な(算術的)関数は、このようなチューリング機械によって、計算可能である。コンピュータのプログラムは、ひとつのチューリング機械を特定のプログラム言語を用いて表現したものである。CD変換を素過程とする行動は、それらを4組命令の集合と考えたとき、一種の(拡張された)チューリング機械と見なすことができる。この比喩は、(1)行動をCD変換のプログラム化されたものとして捉えることを可能にし、また(2)プログラム行動の普遍性・一般性を印象づけるのに効果がある。
04】ダニの課題と解決
プログラム化された行動のみごとな例を、生物学者のユキュスキュルが報告している。それは、野ダニの産卵行動である。これは行動がなぜプログラム化されていなければならないのかを示す意味でも、示唆的である。
ダニは、目がよく見えない(光を感ずる程度)。跳びはねることができない(ノミとの対比)。すばやく動きまわることもできない(クモとの対比)。このような能力限界に制約されているが、野ダニは産卵のためには、哺乳類の血を吸うことが必要である。ダニは、この難問をどう解決しているのであろうか。環境世界という概念をもちいて動物の記号作用を考察したユキュスキュルによれば(2)、精包を受け取ったダニは、産卵のために哺乳類の血を吸うという課題を、つぎのように解決している。
(1)木によじ登り、枝の先まで進む。
(2)酪酸の匂いがするまで待機する。
(3)酪酸の匂いがしたら、脚を放し、落下する。
(4)衝突をうけ、着地したら、歩きまわる。
(5)暖かいところがあれば、止まって膜に口器を突き刺す。なければ、状態(1)へ
戻り、同じ系列を繰り返す。
この行動は高度にプログラム化されている。これらは、すべてqSS'q'の形の「4組命令」の集合として表わすことができる(3)。ダニはどのようにしてこのようなプログラムを発見したのか。それは謎としかいいようがないが、このプログラムが、ダニに与えられた能力の範囲における見事な解であることは間違いない。逆にいえば、能力が限定されているからこそ、行動はプログラム化されなければならないのである。
ダニの産卵プログラムという解は、もちろん、ダニの他の能力や外部条件にも依存している。上の解決策が有効であるためには、@長期間、飲まず食わずで生きられる、A成功率が低くても、種が絶えない、B逆にいえば、一度成功すれば、増殖倍率が大きい、などの条件から仮定されなければならない。また、酪酸の匂いが哺乳動物の有効なマーカーであるためには、@多くの哺乳動物は、酪酸の匂いを発散さている、A哺乳動物以外の動物ないし物は、酪酸を発散させない、などの性質とその性質が保存されるだけの環境の定常性とが要請される。
04】人間能力の3つの限界
ダニほどではないが、人間も、さまざまな能力の限界に条件つけられている。かれは、けっして、全知でも全能でもない。ユキュスキュルのいう機能環に合わせて考えれば、次の3つの限界が指摘できる。
(1)視野の限界
(2)合理性の限界
(3)働きかけの限界
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手持ちのフロッピーには欠けています。復元作業をサボっています。あしからず。
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11】能力の限界が行動のプログラム化を要請する
一度にできないとすれば、多段階の解決を図る以外にない(働きかけの限界)。
世界の認識能力に劣る主体にとって、何らかの単純な指標(マーカー)の選定と、それによる判定が行われなければならない(視野の限界・合理性の限界)。
行動パタンは、認知→動作を基本とする(CD変換)。
行動プログラムの特徴を上げるとすれば、
@内部状態により、基本的に観察すべきものが指定される。
外部状況が、ある特定の警報状態(alertness)を呼び起こすという、逆の関係も 考えられるが、これはプログラムからいえばむしろ例外的か。
A一時に観察される事項は、少数かつ特定の特徴の検出という形をとる。
五感全部を用いて、総合的な判断を行うことも考えられるが、合理性の限界のも とにある主体にとって、総合的判断はかならずしも得意としない。
B知的変換作用は極小に抑えられている。
過去の記憶その他を総合して、次の行為を決めるということも考えられるが、多 くの場合、判断は現在の状態にのみ依存してなされる。
C一度になされる作為・行為・働きかけは、対象世界のごく一部に限定されている。12】プログラム行動と計画
行動はすべて、なんらかの程度にプログラム化されていると考えられるが、それは頭のなかに行動の「計画」をもつこととはかぎらない。
L.A.Suchmanは、T.Gladwinの研究を引いて、ヨーロッパ人の航海術が計画(plan)に基づくのに対し、Trukeseの航海術は、頭の中に描かれた航路をもたず、行く先々にあらわれる徴しるしにたいし、ad hoc に対応することで成り立っていることを指摘し、行動をこのような situated actions と捉える見方を提示している。
プログラム行動は、計画に基づくものではなく、ときどきの徴(qにおけるSの認知)に基づき、次の動作・行為に進むものと理解できる。
プログラム(program)は、その語源からいえば、「まえもってpro、描かれたものgram」という意味をもつであろうが、このような語源的意義に捕らわれるべきではないであろう。
13】指令的知識の重要性
バーナードは、経営過程においては、科学的知識でない「行動的知識」の重要性を強調した(野中・竹内、p.52)。
中岡哲郎や小池和男も、CD型の知識[徴候の認知→解決行動]が熟練・知的熟練の基本的要素であると指摘している。
Nelson and Winterは、企業の技術ないし知識をルーティンの集合と捉えて、これらを技術進化における遺伝子に相当するものと考えようとしている。
この考えは、経済学の制度派の伝統からきている。(旧)制度派は、ジェームズなど、アメリカ・プラグマティズムの影響を受けているという。とくに習慣論など。
塩沢も、経済の総過程を形成するものとして「習慣」、「慣行」、「ルーティン」を行動の基本においている。
14】行動プログラムは縦進型探索解である
探索においては、縦進型と横断型と2種類ある。横断型では、おなじ深さをもつすべての分枝を調べて、次の深さに進む。全部の分枝を調べるので、解が見つかった場合、最適なものが得られる。縦進型では、ひとつの探索でどんどん深さを高めていく。運が良ければ、解はすばやく見つかる。しかし、それが他の可能な解と比べて、最適なものがどうかわからない。
15】プログラム行動と成果ないし効率
あるプログラム行動の成果がどのくらいのものになるかは、その行動のなされた状況に依存する。一般には、成果に高低があり、期待できる平均的な成果の高さによって、行動に満足するか否かが決まる。
16】プログラム行動は満足行動である
行動プログラムは、@実行可能であり、Aそれから期待される成果が(平均的に)満足できるものであれば、受容される。行動プログラムは、基本的に満足解である。
ある行動プログラムは、@他のより良い行動プログラムが知られたとき、Aなんらかの理由で、現在の行動プログラムに変更を加えるべきと考えられたとき(たとえば、危機意識の浸透)、不満足なものに転化する。このとき、別のよりよい満足解の探索が再開される。
17】行動プログラムと最適性
行動プログラムは、通常、最適行動ではない。最適な行動を行おうとおもっても、そのような行動を見つけることができないことが多い。
ひとつの例は、囲碁・将棋のような「有限回・交番・公開・勝ち負け決定ゲーム」においては、先手か後手に必勝法が存在する。(囲碁・将棋には、無勝負という場合があるので、厳密には不敗法が存在する。)
しかし、このような「存在」は、数学の原理として言えることであって、じっさいに計算して求まることとは大きな「かい離」が存在する。じっさいに求めようとすると、勝ち負けまでの分肢を全部調べようとすると、天文学的な数字となり、コンピュータに計算させても解けない。
囲碁・将棋が知的ゲームとして存続しえているのは、そのためであり、もしだれかが必勝法を計算できるならば、もはやそのときから「だまし」でしかない。実際には、すべてを計算できないから、その代わりに、「定石」というかなり広義のプログラムが重要視されている。(「定石」を広義のプログラムというのは、定石がすべて【08】のように書けるかどうか分からないからである。
18】行動・知識の歴史偶然性と文化性
あるプログラム行動が、ある社会の構成員にひろく採用されているかどうかは、多分に伝統と慣習の問題である。それはプログラムの発見の偶然性により、社会ごとに異なりうるものであり、文化性をもっている。
19】知識=可能性としてのプログラム
「することができる」と「どうするか知っている」とが、同じ意味になる。フランス語では、これを savoir faire と表現している。「どうするか、知っている」が深い縦進型探索の解であるなら、知っていることは「できる」ことでもある。
定型的なプログラム行動は、固定されてはいるが、それは知識であり、可能性を与えるものである。
習慣・慣習・ルーティンなどいろいろな形態をとっていても、この意味で行動プログラムは可能性を与えるものであり、制約条件ではない。
制約条件と考えると、固定化されていることにより、成果の低い定型というように受け取られる。しかし、このような見方は誤ったものと言わざるをえない。
20】知識の2類型
知識には、事実認識型知識(knowing−that、宣言的知識)と行動指令型知識(knowing−how、手続き的知識)とがある。このような知識の2大区分は、G.ライル以来、多くの人が受け入れている(Anderson,1983; Singley and Anderson,1989; Nonaka and Takeuchi,1995など)。
しかし、哲学では、知識といえば事実認識型知識のみを扱ってきたのではないか。つまり、真の命題を多く知ること、命題の真偽を明らかにすることをもって人間の知能としてこなかったか。
21】行動プログラムは知識の原型か
人間(まして動物)にとって、亊実認識型知識は知識として特殊な形態であり、知能が十分発達した段階でのみ発現する知識と考えられる。原始的な生活においては、(禁止をもふくむ)指令的知識こそが、生活の知恵であり、技術であった。
22】プログラム型知識の科学
科学の営みがなんらかの知識を生み出すことならば、知識の重要な類別であるプログラム型の知識について考察する「科学」あるいは「哲学」があってもいいだろう。
このときの「科学」を構成するひとつの重要な要素である行動プログラムについて、真偽を議論しても仕方がない。行動プログラムについては、価値判断の基準は、真理ではなく、その有用性であろう。
「プログラム解明科学」の提案が、知識のこのような在り方、およびその判定基準について考えよう、その必要がある、というならわたしは賛成である。それは、従来の科学には想定されていない問題構成を含み、それは旧来の科学のパラダイムに対し、新しいパラダイムを提示するものになろう。
23】プログラム型知識の「論理学」
プラグマティズムやマルクス主義のように、行動・実践を重視した哲学も、行動・実践の「論理学」(あるいは「文法」)を作り出すことはできなかった。
このことは偶然ではない。行動プログラムは、有限の計算能力(合理性の限界)をもつ人間が発見したものである。そこには、たとえば「より成果の高いプログラムがある場合に、それに切り替えよ」という指示・指令が働いているとしよう。この指示・指令には、推移律(transitive law)が成り立たない。古典的な論理学が扱い安いものであるのは、推移律が成立するからである。しかし、行動プログラムの場合には、推移律が局所的にはしか成り立たないような「論理学」を構築する必要がある。
このような「論理学」が成立していない以上、プログラム型知識の論理学は困難であると言わざるをえないと思われる。
24】工学的知識について
工学の知識は、「こうすれば、うまく行く」という部分を含んでいる。「こうすれば」の部分は、savoire-faire ないし know-how の知識であり、命題的真理のたいしょうではないが、人間にとっては重要な知識である。吉田は、これを「実証科学」に対置される「設計科学」と考え、これをも「プログラム解明科学」の一部に組み込んでいるように思われる。
しかし、工学的知識をあえて実証科学と対置する必要はないと思われる。たとえば、新型原子炉で「実証炉」での検証がなされるように、工学的知識あるいはその知識に基づいて設計された機械・設備・建物などを実証試験にかけるという側面がある。
新しい点は、知識のうち、行動指令型の知識の有効性・有用性を判定する場面にある。 設計者たちは、しばしば「最適な設計」というが、ほんとうに最適がどうか確かめられていないことが多いし、確かめようともしていない。
25】紛争・事件の法的処理と最適処理
天安門事件で亡命した劉賓雁は、中国に憲法が制定されたとき、こう考えた。賢明な共産党がその場、その場で最適とおもう決定を行うならば、法律などというものはいらない。これらは社会主義国家のブルジョア的装飾である、と。しかし、劉賓雁はまもなく、自分の考えが間違っていたことを悟る。共産党はつねに正しい決定わ行うとは限らなかったからである。
この話から離れて、紛争や係争事件が起こったとき、なぜ裁判官は、そのおかれた条件のもとで最適な決定を行うのでなく、すべてを類型化し、その類型のなかで、一定の解決を見つけようと努力するのか。
公正さ・公平さを確保できないという説明が有り得るが、最適な決定にはとうぜんそのことにたいする配慮を払っているはずである。類型化して処理するのは、@われわれの判断能力・思考能力が限定されおり、そのため最適な判断ができないことがひとつ、Aもうひとつは、類型化することで初めて、事後的に結果を見て、ある処理プログラムが予期したとおりの結果を生み出しているかどうか判定できるようにするため、と考えられる。
26】経済行動と最適性
経済学は、従来、「効用最大化」、「利潤最大化」のような最適化原理によって経済行動は記述できると仮定してきた。しかし、このような原理は、無限の計算可能性などを前提としており、行動原理として現実的なものと思われない。
H.A.サイモンは、最大化原理・最適化原理に代えて満足原理を唱えた。この満足原理は、ある特定の行動を選出・指定するものではなく、具体的な行動としてはあるプログラム化された行動を考えることにあたる。
なお、これらは通常「原理」と言われ、法則とは理解されていない。
経済過程における法則については、§5で考える。
27】見習い学習について
ドラッカーは、技能(techn )について、「話し言葉でも書き言葉でも説明できない。やって見せるしかない。」「技能を学ぶ唯一の方法は、徒弟修行を経て経験を積むことしかない」といっている(野中・竹内、p.63)。
レイヴとウェンガーは『状況に埋め込まれた学習』において「正統的周辺参加」(徒弟修行的な学習過程)の重要性を指摘している。
28】プログラム行動に対するサンクション
ある種のプログラム行動に対しては、社会からこの行動の行為者に対して正負のサンクションが課される場合がある。これはこのようなサンクションがなければ、その当該のプログラム行動が維持・反復されないとき、サンクションは有効に働いているといえよう。 サンクションがなくても、それが対象とするプログラム行動が維持されるとき、このようなサンクションはリダンダントである。
29】主体のプログラム行動の作動過程として経済
経済主体である企業が次のような行動プログラムをもっていたとしよう。
自社製品にたいし、数期(大体5期以上)の平均をとり、それを将来の需要と考え て在庫ぎれを起こさない程度でなるべく少なくなるよう生産量を決定する。
経済の各企業がこのようなプログラムにしたがって行動しているとき、初期に十分な在庫があるならば、この経済は外生的な需要の緩やかな変化に追随できる。
このような考察・分析は、プログラムの作動の分析ではあるが、そこでやっていることは各エージェントがある行動法則にしたがって行動しているとき、どのような総過程が生まれるのかという分析と異なる所はない。その意味で、この「作動過程」自身は、プログラム化されたものと見る必要がないし、むしろ積極的に、法則探求的ないし論理数学的構造探索と言ったほうがいよいであろう。
30】過程の分岐
つぎに、企業が次のような行動プログラムをもっていたとしよう。
自社製品の売れ行きがよい→投資を増大する。
自社製品の売れ行きが悪い→投資を控える。
§25のプログラム行動とともに、このようなプログラムにしたがって各社が投資決定を行うとき、景気循環が生ずる可能性がある。詳細は省く。履歴効果など、他の要素を導入しないと実際にはこうならないが、例示として認めてもらおう。
このとき、経済全体の景気が悪ければ、自社の売れ行きも悪く、投資を控える。反対のときは反対という状況が生まれる。このとき、プログラム自体が変化するわけではないが、行為自体は全体の状況の影響をうける。また、あるプログラムの成績は、この総過程のありようによって影響を受ける。
31】ミクロ・マクロ・ループ
これまで行動プログラムが、あたかも他から影響を受けない「行動原理」のごとく語ってきたが、じつはそのような単純な行動からの「構成」は成立しない。なぜなら、全体の過程がどうあるかによって、行動プログラム自身の成績・意味が変わり、別のプログラムに変更される可能性があるからである。
ミクロの行動原理(ある行動プログラムで代表される)とマクロの経済の総過程(たとえば、景気循環の存在)とは相互に他を前提としており、これらがある種の安定関係を作り出すのは、行動プログラムが暗に陽に前提する過程とほぼ同一の過程がこれらのプログラム行動から結果するときに限られる。このように、個別のプログラム行動と全体の総過程とのあいだには、互いが他を規定するという「ミクロ・マクロ・ループ」が成立していなければならない。
32】自己強化過程あるいは逸脱増幅的相互因果連関
丸山孫郎のセカンド・サイバネティクスやB.アーサーの自己強化過程(収穫逓増)により、たとえばデ・ファクト・スタンダードの成立を説明できる。これは、最初の小さな優位さの差異が、優位さが優位さを生む形で、事実上の独占化に近づくからである。
このような過程は、プログラム化された行動の結果であろうと、そうでない過程の結果であろうと、その内在的な論理は同一であり、この過程は、プログラムと呼ぶよりも、自己強化過程ないし逸脱増幅的相互因果連関と呼ぶべきであろう。このような研究にどちらかの名称をつけるとすれば、それはやはり法則探求的ないし論理数学的構造探索といったものになろう。
33】自然選択と主体選択
行動プログラムなどは、自己複製されうるものは、ひとつの目的についても、ひとつではない。このとき、どちらの「複製子」が存在比率を高めるかの推測を巡って、「選択」という見方が存在する。
選択のモードには、大別して「自然選択」と「主体選択」の2種類がある。(あるいは、内生的選択・外生的選択といってもよい。)
自然選択は、主体の個人的な判断によってではなく(つまり個人の主観・意図・判断とは無関係に)、自然界の出来事、あるいは、社会や経済など人間的な世界の出来事により、ある特定の複製子が他の犠牲において優先的に増殖することをいう。たとえば、ある習慣をもつ種族が比較的大きな生殖率をもち、比率的に増殖するなら、この習慣は社会的に選択された、ということになる。
主体選択は、これに対して、選択が行動主体の判断に基づいている場合をいう。たとえば、結婚式が仏式・神式・キリスト教式・民法式などによって行われるとして、その選択を行動主体が行うとき、この選択を主体選択という。
生物種の選択は、つねに自然選択であり、個体の判断に基づいて、生存か・非生存か、選ばれることはない。
34】事前選択と事後選択
ある主体が複数の行動プログラムを選択しようとしても、合理性の限界の下では、どの行動プログラムがよい結果を生み出すか、やってみないと分からないことが多い。この場合、事前選択は働きえない。経済学や決定理論は、選択といえば「事前」のものしか考えてこなかった。しかし、合理性の限界のもとでは、どの選択がよいか、「事後」にしか分からないことも多いであろう。
付録1.
知覚世界(視野) 受容器
主 客
思考世界 内的世界 相互構造
(合理性)
体 体
作用世界(働きかけ) 効果器
注
(1)吉田民人は、 「プログラム解明科学」という科学研究プログラムを提唱している。この主張には、A−Version とD−Version との二つがありうる。
A−Version(Agressive V) では、つぎのように主張される。生物以上はすべてプログラムで指定されており、プログラムという視点を通してしか、対象は理解できない。生物以上には、法則定立科学を適用するのは間違いであり、このレベルでは法則というものはない。生物や人間、人間社会は、プログラムが基礎となってふるまいや行動が規定されているばかりでなく、それらが作動する過程や結果の理解においても、プログラムという視点で整理しなければならない。
D−Version(Defensive Version) では、つぎのように主張される。生物以上には、法則だけで理解しようとしてもどうにもならないプログラムというものがある。理論構成においては、どこかにプログラムというものが重要な役割を占めるべきであり、それなくしては対象理解に重要な欠陥が生ずる。しかし、プログラムの作動する結果や過程において、従来の法則定立科学の分析手法が有効な場面も多く、そこでは法則定立科学と類似の理論構成や考察がなされることはありうる。
わたしは、「プログラム解明科学」の提唱の内、D−Version をほぼ全面的に受け入れるが、A−Version には支持しがたいと考える。「プログラム解明科学」という科学研究プログラムのひろい浸透のためにも、A−Version は捨て、もっぱらD−Version において人々を説得するべきではないだろうか。その際にも、「プログラム」という概念をあまりひろく使うのは得策ではない。それを利用することでよく分かる(あるいは、それを用いないでは理解できない)場面で「プログラム」という概念を使うべきであり、そのような場面の分析・考察を積み上げることで「プログラム解明科学」という構想は支持されていこう。
(2)「システム2元論の誤謬」『複雑さの帰結』をみよ。
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