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複雑系経済学の現在
塩沢由典
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0. 複雑系経済学の歴史
1. 諸学問のおける位置と関係
2. 経済行動
3. 過程分析
4. 結合関係
5. 経済の原理
6. 競争の原理
7. 選択と進化
8. 知識
9. 経済のシステム特性と経済学の方法
10.新しい分析用具
補注
文献
☆これは校正前の未定稿です。引用などはかならず以下の本から行ってください。
塩沢由典責任編集『経済学の現在1』「経済思想」第1巻、日本経済評論社、2004年11月、pp.53-125.☆
☆『経済学の現在1』にはあるふたつの図は省略されています。
0.複雑系経済学の歴史
複雑系経済学は、基本的には日本で始まった経済学である。その歴史は最長でも20年程度にすぎない。北アメリカやヨーロッパの経済学においては複雑系はひとつの新技法程度のもととしてしか受け止められておらず、その考え方を基礎にして新しい経済学が成立しうるとは考えられていない(Rosser Jr., 2004; Schweitzer, 2002)(注1)。複雑系のひとつのセンターとなり、経済学にも大きな影響をもったアメリカのサンタフェ研究所はより意欲的であった。「複雑適応系」の考えを経済に適用し、それにふさわしい経済分析の枠組みを作り出せそうとした。それは経済への新しい接近法を与えるものではあったが、均衡と最適化に反対する立場にもかかわらず、経済学としての全体の枠組みはまだ明確ではない(Arthur, Durlauf and Lane,1997b, Silverberg, 1998)。
日本でも1990年前後に、「複雑系経済学」あるいは「複雑系として経済」の学問としての経済学という問題意識をもっていた学者は数人しかいなかった。それぞれは、独自の学問上経歴を経て複雑系経済学に行き着いている。西山賢一は、化学から生態学を通って、複雑系に近づいた。出口弘は、システム論から出発し、経済を複雑系と捉える立場に達した。塩沢由典は、反新古典派の論理を突きつめていく中から、計算複雑性の概念に行き当った。吉田和男は、最適化手法を企業経営や経済運営に適用する問題を考えていくなかから、その限界を認識するに至った。西山賢一と出口弘は、国際大学グローバル・コミュニケーション研究所の創立メンバーである。グローバル・コミュニケーション研究所は、村上泰亮を所長とする小さな研究所ではあったが、新しい学問形成への意気込みがあった。
複雑系経済学を成立させた契機は、ふたつある。複雑系一般の考え方と経済学自体における反省とである。
複雑系の思想
複雑系の考え方は、現在では自然科学・社会科学・人間科学・工学を問わず、世界にひろく浸透した思潮である。その萌芽は、19世紀末の(社会科学は、自然科学とはことなる複雑な現象を対象としており、自然科学を手本にはできないとする)精神科学の主張にも見られる。20世紀の折り返し点で、ワレン・ウィーバー(Wiever,1948)は複雑さが20世紀後半科学の基本問題となるという科学研究の戦略プログラムを打ち出したが、それはまだ早すぎた知見だった。複雑さがいろいろな学問において新しい挑戦の鍵となると理解されるようになるのは、1970年代以降といえよう。数学におけるカオス力学系やフラクタルの発見、化学における非平衡熱力学、計算機科学における人工知能の行き詰まりなどが契機となり、諸科学に対する複雑さの重い意義が理解されるようになった。1984年には、モンペリエ・シンポジウムが開催され、サンタフェ研究所が設立された。1992年には日本でも、金子邦彦・津田一郎などが中心となり「複雑系」の第1回研究集会が京都大学基礎物理学研究所で開かれている。相互刺激はあったとしても、複雑系への関心は、同時多発的なものであった。
複雑系の経済学への影響は、多様である。マクロ経済学は、非線形力学系として再組織されたが、経済学的な展開は乏しい(Dechert、1996)。フラクタルの命名者のマンデルロー(Mandelbrot,1997)は、長く経済を離れていたが、もう一度、金融現象に戻ってきた。ハーバード・サイモン(Simon,1972 & 1976)は、人工知能や記号系仮説の世界から、合理性の限界を強調する立場に戻った。統計物理学者たちが、データの豊富な経済現象に目をつけ、経済物理学が成立した(Mantegna & Stanley, 2000、高安・高安, 2001)。この他、「経済学における複雑さ」のテーマで、進化ゲーム、強化学習、ニューラルネットワーク、エージェント・ベースのモデル化、個体群動学、自己組織化、創発、収穫逓増といった手法・主題が取り入れられつつある。経済的な対象としても、金融市場、景気変動、技術進化、空間動学(spacial dynamics:都市や国際間の経済関係形成)、人工社会(エージェント社会)、意思決定、生態系などが扱われている。しかし、Horgan(1995)が批判するように、数理科学の新しい手法というだけでは、他の3つのC(Cybernetics, Catastrophe, Chaos)と同じように、「複雑さ」(Complexity)も移ろいやすい流行に終わりかねない。また、Silverberg(1998)が指摘するように、新しい手法による新しい話題の取り込みというだけでは、主流の経済学の一部に容易に吸収されかねない。複雑系経済学は、複雑系の科学である以前に経済学である。それは経済学内部からの反省に出発するものでなければならない。
経済学における反省
経済学の内部にも、複雑系の考えを必要とする契機はあった。市場経済と計画経済をめぐる議論の中で、情報と知識が経済活動の重要な項目であることが認識された。新古典派の合理的人間像に対する強い批判もあった。より深いところでは、数学的定式化そのものに対する反省も出た。50年代・60年代には、数理経済学と計量経済学(簡単にいえば、数学とコンピュータ)への過大な期待があったが、1970年代にはそれへの反動として経済学の現状に関する広範な批判と反省が生まれた。反均衡という標語のもとに、新しい経済学の枠組みが模索された。複雑系経済学の必要は、「経済学の危機」「科学革命の必要」という意識なくしては生まれ得ないものであった。
新古典派経済学の理論枠組みは、行動に関する最大化原理と状況の選択原理としての均衡概念とにある。この枠組みへの異議申し立ては、20世紀の後半、多くの立場からなされた。複雑系経済学を特徴付けるものは、「複雑な状況の中での行動」という主題を明示化し、均衡分析に代わる過程分析という枠組みで経済学のすべてを再構成したことにある。「均衡」(equilibrium=平衡)は、経済学のあらゆる分析に使われる強力な用具である。しかし、均衡の枠組みにとどまっている限り、理論として組み込めないいくつもの状況がある。収穫逓増、定型行動、追随的調整、経路依存、進化などである。
これらのうち、収穫逓増は、マーシャルの時代から自覚されてきた問題である。収穫法則に関するスラッファの論文(1926)は、学説史的には、不完全競争理論の出現を促したとされることが多いが、より深い底流としては、収穫逓減以外には均衡理論とが整合しえないという問題を抱えていた。収穫逓増は、ヤングやカルドア、村上泰亮なども、経済発展の重要な機構とみなしている。その認識が経済学の主流になりえなかったのは、それが単に「正しい認識をする」問題ではなく、理論の枠組みの改造(パラダイム・チェンジ)を必要とするものだったからである。
経済学における複雑さの重要性については、アメリカ合衆国やヨーロッパでも、さまざまな角度から認識されている(Arthur, Durlauf and Lane,1997a, Schweitzer, 2002b, Rosser Jr., 2004)。しかし、それが経済学の理論枠組みの再編へと結びつかないのは、新古典派経済学の中核に対するしっかりした批判と反省がなされていないからであろう。日本においては、主流の経済学に対するスラッファ以来の反省が複雑系と結びついたところに、欧米にはない特色がある。これが日本において複雑系経済学を成立させた大きな要因となつている。サンタフェ研究所も、均衡を批判し、経済は均衡の外にあると主張するが、その理由は商品や技術、行動が不断に進化するためとしている(Arthur, Durlauf and Lane, 1997b)。これは間違いではないが、それでは進化のない状況では均衡理論が成立すると認めていることになる。このあたりの理解において、サンタフェの認識はまったく不徹底である。
日本における複雑系ブーム
複雑系経済学が日本でひろく認知される学問になったのは、1996年・97年の複雑系ブームによる。これは日本のみで起こった現象であり、この有無が社会における「複雑系」の地位を大きく違うものにしてる。このブームは、ミッチェル・ワールドロップの『複雑系』(1996)が予想外の売れ行きを見せたことによる。いくつかの偶然も手伝って週刊誌の『ダイヤモンド』(特集:知の大革命/「複雑系」の衝撃、1996年11月2日号)や月刊の『現代思想』(特集:複雑系、1996年11月号)が後を追いかけて特集を組んだことなどから、複雑系ブームは本格的になり、新聞などにもとりあげられる話題となった。この経緯は、当事者でもあった田中三彦・坪井賢一(1997)に詳しい。この関係の話題を経済に限らず広い範囲で広くカバーしたものとして井庭崇・福原義久(1998)ある。これは当時の前期博士課程と学士課程の学生二人による紹介である。
複雑系を日本に有名にしたのはアメリカのサンタフェ研究所の活動である(Waldrop, 1992; 吉永, 1996)。この研究所は、ロスアラモスで活躍した物理学者などが、従来の科学方法論では覆い切れない事象に関心をもち、「複雑さ」を主題として科学の再編成を試みるために作られた株式会社制度の研究機関である。常勤のメンバーは少なく、類似の関心をもつ学者に学問分野を超えて集まってもらい、深く討論することを活動の中心としている。サンタフェ研究所の初期に、その研究計画に興味をもった一人にシティコープのジョン・リード会長がいる(ケリーとアリソン, 2000)。リードからの資金援助の申し入れを受け、経済学をも研究所のテーマとすることになり、K.アローの推薦でスタンフォード大学教授のブライアン・アーサーがサンタフェに加わった。かれは、収穫逓増における分岐過程に注目して「経路依存」の概念を広めていた(Arthur,1994)。
これらの概念は、情報化時代の経済の特徴を理論付けるものとして(なかば誤って)理解された。このため、複雑系経済学の主要内容として、しばしば収穫逓増と経路依存のみが取り上げられる。ブーム後に複雑系を追いかけはじめた紹介者たちに多いが、それでは複雑系経済学の全体像を見ていないことになる。
複雑系がブームとなったことから、多くの解説書がでた。複雑系の考えを簡単に解説した後、応用としてさまざまな経済現象が取り上げられている。北浜流一郎(1997)、町田洋次(1997)、森谷正規(1997)は、著者の経済観を複雑系の用語を用いて語ったものである。経済学を発展させるという契機には乏しいが、複雑系の話題の豊富さを証明している。田坂広志(1997a、1997b)、複雑系の思想を経営の現場に落とし込む試みである。
さまざまな立場
複雑系の思想そのものは同時多発的なものであった。ブームのあと、その考えを経済学や経営学に取り入れようという試みがさまざまな形で起こった。残念ながら、その大勢は、複雑系の考えを受けて反省し、新しい学問を形成しようとするものではなかった。みずから新古典派経済学と居直ったものまであった(ダイヤモンド編集部+ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス編集部、1998a)。複雑系が既存の科学に対する反省であることが忘れられ、新しいひとつのツール、新しい主題と考えられることも少なくなかった。複雑系のブームは、複雑系を社会の中に認知させるのには役立ったが、日本の社会科学の大勢がまだまだ輸入学問であることを証明する結果にもなった。
複雑系経済学の中には、マクロ経済をカオス力学系とみるものがある。カオスの発見は、複雑系の思想に大きな画期となった。従来のマクロ経済モデルは基本的に平面上の力学系であり、その極限は、発散するものを除けば、均衡点(平衡点)か極限周期道しかありえないものであった。それに比べれば、経済の動力学はカオス力学系ではないかと考えることはひとつの重要な飛躍である。グッドウィンやメディオは、非線形力学系としてのマクロ経済学の再建に力を注いできた。しかし、他方では、非線形力学系の生み出す模様の美しさといった、経済学としてどういう意味があるかあまり分からないものに興味が走っているものもある。
マクロ経済モデルを理論上いかなる資格のものと位置づけるかが問われる。もしマクロ経済モデルの研究が新しい予測モデルを見出すことにあるのだとすれば、カオスの発見の意義や複雑系の思想を十分に考えていないといわざるをえない。双曲的平衡点の近傍を何回も通過するとき、初期値の小さな違いは何十倍・何百倍にも拡大する。これは経済予測の限界を示すものであるが、そうした含意を真剣に受け止めた研究があまりない。
こうした傾向の中で、注目すべき主張を展開しているのは、オームロッド(2001)である。オームロッドは、経済予測を行う研究所を主宰していたが、予測そのものに限界があることに気付き、それを前提として経済政策のあり方そのものを考えなおすことを提案している。その提案を簡単にいえば、制御モデル(微調整モデル)に基づいて適切なマクロの経済運営を行うという考え方(いわゆる「マクロ・ケインズ政策」)から、経済制度等を設計する立場への転換である。吉田和男(1997, 2002)の立場もこれに近い。野田聖二(1999)は、日本の戦前戦後のクズネッツ・サイクルを詳細に調べた上で、方法論上の反省として複雑系に注目している。
経済学そのものではないが、複雑さの帰結を深く考えた著作も現れつつある。齋藤了文(1998)は、複雑な人工物に挑まざるを得ない工学という学問に、複雑さの観点から哲学的考察を加えている。経営学者にとって複雑系は、なじみやすい概念であるのかもしれない。接近方法はことなるが、ダイヤモンド編集部+ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス編集部(1998b)、中田善啓(1998)、河合忠彦(1999)、涌田宏昭編(1999)などが出てきた。これら経営学の文献には、残念ながら、ブーム以前からの日本の複雑系経済学の蓄積が生かされていない。社会研究では、複雑系をヒントに日本文化を研究したものに濱口惠俊(1998)がある。
本章の最後に議論するように、複雑系経済学は、新しい分析方法を必要としている。その一つがエージェント・ベースの経済モデルである。従来のコンピュータ・モデルは、セル・オートマトン程度の単純なもので、経済行動との関連が薄かった。エージェント・ベースのモデルでは、人間が実際に市場で行っていると同様の行動を実現することができる。解説書としては、生天目章(1998)、出口弘(2000)などがある。エージェント・ベースのモデリングは、今後、複雑系経済学を研究しようとするものにとって必須の技能となろう。この方面では、U-Mart計画など世界の先端をいく研究が進んでいる。
複雑系の含意を重く受け止め、経済学の革新を目指すといっても、新しいパラダイムが確立しているわけではない。吉田雅明編(2003)、西部忠(2004)など、経済学以外の専門家を交えたさまざまな討論も試みられている。海外でも、複雑さの帰結を深く考え、経済学として捉えなおそうという動きがないわけではない。とくに、ロースビー(Loasby, 1976, 1991)の一連の著作には注目すべきである。エージェント・ベースの組織研究としては、Axelrod(1997)やAxelrod and Cohen(1999)などがある。
このように「複雑系経済学」ないしその関連学問には、さまざまな立場と考えとがある。本章は、それらさまざまな立場を解説するのではなく、わたしの考える複雑系経済学の全体像である。わたしの立場からは、複雑系経済学は、単に新しい主題を提起するものではなく、新古典派に代替する新しい理論枠組みである。それは概念・理論・分析方法を包括する全体性をもち、方法論から分析用具、状況の定義にいたる全面的な反省と再構築を要請している。その全面的な展開には、厚い一冊の書物が必要である。以下では、そうした展開を展望しつつ、構想の概略を述べる。
1.諸学問における位置と関係
この節では、まず新古典派経済学の理論枠組みの問題点を指摘し、その上で、複雑系経済学が進化経済学や他の社会科学への基礎的な視野を提供するものであることを示す。
一般均衡理論の枠組み問題
新古典派理論のもっとも完成した形は、一般均衡理論として与えられている。その代表的なものは、アローとドブルーの「一般競争均衡」理論である(Arrow & Debreu, 1954)。アローとドブルーの理論は、数学的には厳密に定式化されており、その存在証明も完璧である(角谷の不動点定理による)。与件とされる条件も、きわめて一般的に見える。消費者の人数や財・サービスの種類数、生産者の数は任意であり、選好関数や生産可能性集合に関する仮定も一般的なものにみえる。しかし、経済学的な含意を調べるとき、この一般性には大きな問題がはらまれている。この定式が可能となるためには、各消費者・生産者ごとに供給関数・需要関数(より一般には超過需要関数)が定義されなければならない。そのために消費者および生産者について、非現実的な仮定がおかれなければならない。これを「理論の必要」という。「理論の必要」とは、既存の理論枠組みを防衛するための説得的言説である。理論の進歩・発展のための論理展開と類似の構造をもつが、その効果がもっぱら既存理論のアノマリーを覆い隠すためにあることに注意しなければならない。
消費者は任意の価格において効用関数の値を最大化できることが要請される。財・サービスの種類Nがすこし大きくなると、これは人間の計算能力にとって過大な仮定である。生産者については、生産可能集合が凸であると仮定される。これは数学的な表現をとっているため、その含意が分かりくい。しかし、これは規模に関する収穫逓減を仮定するものである。これも非現実的である。事実は規模に関する収穫一定あるいは収穫逓増である。
新古典派の解説の中には、収穫逓減が発生する理由を説明するものがある。その一部は、代替に関する収穫逓減と規模に関する収穫逓減の混同に基づいている。代替に関する収穫逓減は、一般的に成立するが、それは規模に関する収穫逓減とは独立の事象である。規模にかんする収穫逓減は、所与の価格体系において需要関数・供給関数が定義できるという均衡理論の枠組みが要求しているものである。「理論の必要」から、非現実的であると分かっている仮定の正当化がなされることは、新古典派の経済理論が科学革命を必要とすることを示している。
価格変数の供給関数という概念は、現在の価格では企業はこれ以上供給したくないと考えていることを含意している。このような考え方ほど現実の市場経済をゆがめた見方はない。複雑系経済学は、価格を独立変数とする需要・供給関数という概念自体を否定し、そのような枠組みにとらわれない新しい理論枠組みを提供している。
最適化と決定の数学
人間の経済行動を最適化として捉えようという考え方は、均衡理論の枠を超えて広がっている。最適化(最大化・最小化)は、数学問題として定式しやすいものである。数学の社会問題への応用が固有の困難さをもつものとは一般には理解されていない。手軽な応用領域として数学者が気楽に乗り込むことが多いために、複雑さの問題を理解しない素朴な理論がつぎつぎと再生産される運命にある。
期待効用を最大化するという定式もそのひとつである。この拡大は、正確な意味での不確実性を織りこむものではない。フランク・ナイトは、事象の確率が推定される場合を危険、そうでない場合を不確実性と区別した。期待効用は、各事態の確率が推定されているという意味でナイトのいう危険の領域に入る。しかし、こうした定式が不確実性に対処するものであるという誤った確信が再生産されている。
条件付確率といった概念を導入すれば、期待効用は定式でき、その最大化も定式化できる。しかし、前提となる条件付き確率がどのように推定され、その誤差が最適解をいかにゆがめてしまうかについては、ほとんど考察されていない。最適解が求まったとしても、その「解」が他の習慣的な方法より優れている保証はない(塩沢由典、1988b)。期待効用を推定して、それを最大化するように選択を決めることは、効用最大化という「理論の必要」に応えるものでしかない。
複雑な状況の中での選択の場面において、最適化はきわめて限定された状況でしか正当化されない。複雑系経済学は、これに代えて定型行動という考え方を提出している。定型行動は、過去の経験の中から選択・採用されてきたものである。最適解と定型行動とのどちらがより高い成果を上げるかについては、先験的には決められないが、形式的な計算においてのみ最適とされる「解」よりも、定型行動の方が長い経験に根ざしていることを忘れてはならない。
社会科学の基礎として
複雑系経済学は、新古典派経済学の批判理論であるばかりではない。それは、人間社会の営みを根底から反省しなおす学問として、進化経済学や会計学、経営学などに対する基礎理論としての性格をももっている。
進化経済学は、経済を進化という視点から捉え、分析する。経済の重要なカテゴリーである商品・技術・行動・制度は、すべて進化するものと捉えられる。これらは、それ自体が複雑なもの(商品、技術)であるか、複雑な状況に対処するもの(行動、制度)であり、維持・複製と改善・改良という2側面から考察すべきものである。複雑系経済学は、これら重要なカテゴリーを「進化するもの」と捉えることがなぜ重要であるかを説明するとともに、これら進化するものの作用する場である経済過程自体の分析枠組みを提供している。
複雑系経済学は、経営学と調和的な経済学である。経済学の標準理論が考えるように、もし企業が利潤を最大化できるならば、経営学は一行ですんでしまう(サイモン、1945:)。経済学の標準理論と経営学のこのような不幸な関係のために、経営学はこれまで経済学と無縁の(あるいは矛盾する)存在であった。経営学がその学問の初期から複雑な状況の中で経営者はいかに意思決定するか(したらよいか)について研究してきたのに対し、経済学にはそのような視点が欠けていたからである。複雑系経済学は、このような事態を改革し、人間の経済行動について経営学と同じ視点を導入しようとしている。この意味で、複雑系経済学は経営学から多くを学んできたが、新古典派経済学との対決から得られた知見の一部は、経営学を問い直す基礎となる可能性がある。
複雑系経済学は、会計学の意義をも明らかにする側面がある。会計は、ひとつの制度であり、かつ情報の縮約装置である。なぜ、このような処理が必要であり、その制度設計はどうあるべきかについて、複雑系経済学・進化経済学は多くの問題意識を会計学と共有している(Shiozawa、1999)。
2.経済行動
経済行動をいかに理解し定式化するかは、経済理論の骨格を決める問題である。新古典派経済学は、人間の経済行動を最大化(より一般的に最適化)によって定式化できると考えた。この定式は、経済行動が目的追求的であるという理解の部分的な反映である。しかし、この定式が有効なのは、状況が単純で最適解が容易に同定できる場合に限られる。複雑系経済学は、このような状況設定がきわめて限定されたものでしかないこと、したがって最適化による定式は一般的な適用可能性を持たないと考える。
複雑な状況における目的行動
複雑系経済学は、経済行動の大部分が目的追求的であることを否定しない。意思決定者が可能なかぎりよりよい決定を行おうとしていることも否定しない。しかし、最適な解を求めることはおおくの場合、不可能であり、人間の経済行動は最大化=最適化とはまったく異なる原理に基づいて構成されている。
「最適化」という問題定義に換えて複雑系経済学は「複雑な状況における目的行動」という問題を設定する。状況の複雑さは、客観的に存在しているものではない。その状況を理解しようとする人間の能力との関係において定義される。無限の理解能力もつ全能の神にとって複雑な状況は存在しない。目標をもっとも高い水準で達成するには、どうしたらよいか。この問題が定式化でき、実行可能な最適解が得られる場合には、状況は単純である。そうでない場合、状況は複雑である。
複雑系経済学は、ほとんどの問題状況が複雑であることを認識し、そのような状況における目的行動がどのように組織されているかについて考える。ロナルド・ハイナー(Heiner,1983)は、この状況をCDギャップと捉えた。CはCompetence(解の発見能力)、DはDifficulty(最適解発見の困難さ) を意味する。かれは、CDギャップが大きいほど、行動は定型的で予測可能なものになると主張した。
人間行動を定型的なものと捉える考え方は、多くの研究者が行っている(Nelson and Winter, 1982 Minsky, )。定型行動は、ルールに基づく行動、ルーティン行動、プログラムされた行動などとも呼ばれる。吉田民人(1990)は、意味の一類型としてCD変換があると指摘している。ここでCは認知的意味(Cognitive Meaning)、Dは指令的意味(Directive Meaning)を意味する。CD変換は、ひとつの定型行動を指示していると考えることができる。複雑系経済学は人間行動を定型行動と捉えることから出発する。
進化と行動
ヤーコブ・フォン・ユキュスキュル(Uexkull,1934:1973)は、人間の行動が定型的であることにひとつの重要な示唆を与えている。かれは、動物がそれぞれの種に特有な環境世界(Umwelt)をもち、固有の仕方で世界を観察し、反応し、世界に働きかける存在であることを指摘した。ユキュスキュルは、動物が機能環によって世界を掴んでいると考える。機能環とは、知覚器官が受け取った信号を動物の内的世界が作用器官への命令に変換する回路である。四つ組の集合で表される行動は、ユキュスキュルのいう機能環の働きを記号化したものと考えることができる(注2)。
人間の行動を考えるとき、人間がどのような能力をもつ存在かについて考えなければならない。その場合、人間の可能性に注目するとともに、その限界についても考慮しなければならない。経済の行動主体としての人間は、生物的な条件というべき以下の3つの限界をもっている。
(1)視野の限界
(2)合理性の限界
(3)働きかけの限界
これは程度の差はあれ、おおくの生物と人間とが共有している条件である。3つの限界は、それぞれ知覚器官・内的世界・作用器官の限界に対応する。人間の行動と動物の行動とに連続性が観察されるのは、本質的にはおなじ客観条件の中にある存在であることによる。行動の基本構造が同じてあることは、人間が動物から進化してきた存在であることを考えれば当然のことである。この同一性があって始めて、人間行動がどのように進化してきたかを人間という種を超えて考えることができる(1)。
三つの強い限界のものとにありながら、動物たちは複雑な状況の中で曲がりなりにも行動し、繁殖している。このことがなぜ可能であるのか。これは限界に注目することからは解けない問題である。西山賢一(1997)は、H.A. サイモンの限定合理性(bounded rationality)をも、方法論的な個人主義に立つものと批判し、状況の側がもつ性質に注目している。
熟練と組織行動
10年以上も同じ職場で働いてきた労働者がもっている熟練というものがある。中岡哲郎は、熟練の要点が「判断」にあることを指摘したあとで、この判断は「徴候->結果(すなわちとるべき行動)」というパタンの集合としてあること、「徴候を認めると自動的に手が動いてしまう」反射的なものであることを強調している(中岡1971;塩沢1996、第3章3)。上の観察は、機械生産を中心とする工場においてなされたものであるが、より基本的な技術というべき農業技術においても、同様の観察が可能である。中岡(1990)によれば、農業技術の基本は、気象のある徴候を特定の農作業に結びつけることにあった。
組織の運営においても、特定の状況->特定の行動というパタン(すなわちCD変換)は、重要な意味をもっている。一般に組織文化と言われているものは、組織員の多くに浸透している無意識的な反射の集合として存在している。サイアートとマーチ(1967)は、報告の仕方についてそれぞれ組織に固有のルートと内容の選別のルールがあることを強調している。ルールは、公式のものでも非公式のものでもありうるが、こうしたルールによる事前の構造化がなければ、突発的な事故や事件に対し、迅速な対応ができない。事務の多くは伝票の作成と発行によって処理されている。記入すべき事項を必要十分な範囲であらかじめ決めておくことにより、事務の間違い防止と処理の迅速化とが図られている。これは、必要事項への該当事項の記入という定型化によって可能になっている。会計は多くの処理ルールを前提する。活動の多くがこのように定型化されることが、経営と会計の基礎にある。
定型行動の基本構造
定型行動は、どのような構造をもつものであろうか。塩沢由典(1990、第8章)は、チューリング機械に示唆を受けて、任意の人間行動を四つ組反射の集として表現できると考えている。一つの四つ組は、 qSTq' という形で与えられる。この四つ組は、前半の条件部qSと後半の作用部Tq'とに分けることができる。全体として、「内部状態がqのとき、qの指示する観測を行い、状況がSならば、働きかけTを行い、次の内部状態q'に移行する」という命令と解釈される。条件部が満たされるとき、自動的に作用部が実行されるという意味では、これは一種の反射である。
具体的な例として店頭における在庫管理を考える。qは、その管理を行う任務を意味する。それは一日の特定時刻(たとえば、3時)に、店頭に陳列されている商品Aの在庫量を調べることにあたる。その観測結果Sが、Xと与えられたとしよう。目標とする在庫量をZとするとき、Tは問屋に対し翌日早朝に商品AをZ-X納入するよう発注することなる。q'は、この場合、qと同一で、翌日に同様の管理を行うまでの待機状態に入ることである。商品A、B、Cがあるとき、それらの在庫を順次調べることは、以下のように表示される。q=qaを定時に商品Aの在庫量を調べること、qb,qcを続いて商品Bおよび商品Cの在庫量を調べることとすれば、四つ組の集合{qSTqb, qbSTqc,qcSTq}は順次商品A、B、Cを調べて適量を発注する行動を表す。
四つ組表現の優れた点は、内部状態を仲介することにより、順序のある一連の行為をさせることができる点にある。単なるCD変換では、多数のCD変換の間に順序をつけることはできない。すべての行動が四つ組の集合で書き表されるというのはひとつの仮説である。この仮説は、定型行動が普遍的であるというだけでなく、行動が特定の形をもつた要素行動に分解されること、行動はそれらを適切に順序付けたものであるという強い主張を含意している。
理想的な主体では、同じ条件部をもつ四つ組反射は存在しないはずであるが、現実の人間では、しばしばその条件が満たされず、どの反射を取るべきか葛藤が起こる可能性もある(ミンスキー(1990)の『心の社会』は、このような状況を想定している。)
習慣的行動と純正の決定
すべての経済行動が習慣的なものであるとはいえない。企業を人間と同様の制御機構をもつものとみる立場から研究したスタフォード・ビーア(1987)は、企業行動の圧倒的部分は自律的になされなければならず、経営は例外的な介入でなければならないと考えた。ビーアのいう自律的な行動は、基本的には定型行動で表されるものであり、例外は、行動自体の改変が求められている場合として存在している。企業経営といえども、その行動の多くは、定型行動によって支えられているのである。
人間は新しい行動を組み立てることができる。その要素・要素が反射的なものであっても、新しい組み合わせは新しい行動をつくりだす。定型的な行動であっても、それがなされるべき時期や四つ組反射の組み合わせについては、熟慮が必要なことがある。そうした熟慮に基づく決定をカトーナは「純正の決定」と呼んでいる。採用される頻度からいえば、純正の決定は、習慣的行動に比べれば稀でしかない。しかし、純正の決定がなされるのは、その判断に賭けられている金額が大きいからであり、ときに将来を大きく左右する。
純正の決定といえども、まったく白紙で物事が分析されるわけではない。過去の経験から多くを学び、情報を集め、さらに多くの筋書きを検討して(シナリオ分析)、最善と思われる案が採用される。このような検討が行われるのは、そこで採用される案の良し悪しによって結果が大きく変わるからである。しかし、重大な検討になればなるほど、ひとつの代替案の検討にかかる費用が大きくなり、期待される成果の予想は困難となる。純正の決定は、熟慮に基づくという意味では新古典派の経済学が想定している状況に近いものだが、その決定自体は「目的変数の最大化」といったものではなく、少数の代替案に関する(組織の場合、組織手続きを経た)総合判断による。純正の決定であればあるほど不確実な事情も多く、決定の結果が予想通りになる可能性も大きくない。多くの重要な(ときに戦略的決定と呼ばれる)決定が後に判断の過ちであったとみなされることが少なくないのはこうした事情による。
純正の決定には、経済分析はむしろ予言能力を持たないことを分析の前提となければならない。決定の当事者ほどの情報も分析時間も掛けることなく、仮想的なモデルの分析によって、どの案がよいか経済学者が事前に判断できるとは考えられない。経済では、意思決定者と分析者とはほぼ同一の知的能力を持っていると考えなければならない。したがって、純正の決定に関しては、経済分析は主として二つの方策しかない。ひとつは、純正の決定が事態の進行を決定的に左右するような過程の分析は避けるという方策である。もうひとつ、分析にどうしても純正の決定を含まざるを得ない場合の対応である。このような分析においては、純正の決定に相当する部分は、むしろ選択がランダムに行われると想定するのが妥当であろう。モデル上で容易に善悪の区別がつくような選択は、習慣的決定の範疇にあり、ここにいう純正の決定ではない。
3.過程分析
過程とは、時間の中での事態の展開である。それをどのように記述するかについては、ふたつの枠の取り方がありうる。ひとつは事件=出来事が起こるごとに時間が進行するという枠の取り方(event driven timing)、もうひとつは時間を一定の間隔で進め、その間隔ごとにいくつかの事件=出来事が生起するという枠の取り方(period by period timing)である。時間というものの本来的な姿からいえば、前者の事件駆動型記述が適切であろうが、十分短い時間幅を取るならば、実質的な違いは少ない。
経済では、多くの行為が一定のリズムをもってなされる。目的にしたがって適切な時間間隔を選ぶことにより、記述・計算が簡単になり、分析はより的確なものになる。たとえば、小売店舗における商品の発注・補充に関する過程を分析する場合には、ほとんどの場合、一日という時間幅を取って考えることができる。もちろん、この間、消費者は確率的にやってきて、買い物をしていく。その過程を分析するためには、事件駆動型で考察するのが適当であろう。一日の終わりに在庫量を調べて発注するといった定型を考える場合には、消費者の来訪ないし特定商品の購買量は一定時間におけるポアッソン分布として一括して考えてかまわない。
計算機を使えば、時間経過の追跡はあまり苦にならないが、記述の簡便さのためには、一定の時間幅を考え、その上でのストーリーの展開を追う期間分析が過程分析の主流となる。
時間因果の尊重
期間分析は、スウェーデン学派などが古くから用いている。新古典派の分析にも、そうした扱いは珍しくない。とくに世代重複モデルなどでは、複数の期間と世代とを考慮するなどの工夫が一般である。したがって、期間分析という形式自体には、新古典派をこえる視点があるわけではない。しかし、これらの分析には、過程分析というにはふさわしくない論理が組みこまれていることが多いので注意を要する。それは、J.R.ヒックスの「週」に代表されるような、ひとつの期間にひとつの均衡(一時均衡)を想定するという移動均衡の考え方である。
移動均衡においては、ひとつの期間において経済主体間の調整が行われ、その期間内に均衡が成立すると仮定される。特定の期間に属する変数も、均衡値を表している。このような設定が過程分析にふさわしくないのは、これが均衡の成立と収束を前提として、均衡自体の成立機構・収束過程を一切明らかにしないからである。過程分析は、基本的には、(決定論的であれ、確率論的であれ)過去が現在を、現在が未来を決定するという時間因果を尊重し、そこに想定された因果の系列がどのような時系列を惹き起こすかを主要な課題としている。移動均衡は、このような時間因果を無視し、理論上・空想的に考えられた均衡状態に状況が期間内に収束することを理由もなく前提している。このような過程が起こるかどうか、それを調べるのが過程分析の主要な目的であることを移動均衡の考え方はまったく無視するものとなっている。期間分析という形をとっていても、移動均衡の時系列分析を過程分析の範疇に入れることはできない。
時間因果の循環がないかどうか簡単にチェックするには、過去に与えられた変数の値から、現在および未来の諸変数がすべて因果関係を表す関数の値として陽表的に表されているが見ればよい。もし同一期間の変数間に決定関係が見られる場合には、ひとつひとつの変数について、それを決定するに用いる関数の独立変数に未確定の変数が含まれていないことを確認しなければならない。反対に方程式系を解いた値を変数に割り当てる操作が差し挟さまれていれば、そこにはなんらかの時間因果の無視があるとことになる。
計算モデルを作成する場合には、このチェックはほぼ自動的になされる。ひとつひとつの変数が因果関係を表す関数により記述されていること、同時方程式系を解くプログラム(ないし関数)を内包していないことを確認すればよい。
定型行動と過程分析
定型行動は、過程の中でのみ定義される。時間間隔を適切にとれば、ひとつの四つ組反射qSTq'は、条件部と作用部とは別の時刻における事象となる。すなわち、時刻t-1で条件qSとが成立するとき、時刻tにおいて作用Tが作動し、内部状態がq'に移る。あるまとまった行動が四つ組の集合として表されるとき、典型的な時間経過は線形となり、対応の内部状態を q0、q1、q2、・・・、qMとするとき、一連の反射が{q0S0T0q1、q1S1T1q2、q2S2T2q3、・・・、qMSMTMq0}と表されるとき、時系列 S0、S1、S2、・・・、SM が観察されることを条件として、主体からは作用 T0、T1、T2、・・・、TM が加えられることになる。
上では、内部状態がqMにいたるとq0に戻ると設定されているので、M個の期間ごとの周期的な働きかけとなる。この周期にあわせて時間間隔を取り直すことも可能である。この場合、基本的には各期間ごとにひとつであるべき変数が、より小さな時間間隔で変動することを許容しなければならない。しかし、分析の目的によっては、この中間段階を捨象して、最後にたどりつく状態をひとつの変数で表現すれば十分なことも多い。このとき、一連の作用を、その全体的な効果によってまとめて表示することにすれば、ひとつの四つ組qSTq'によって表示することも可能である。
作用は、つねになされるものとは限らない。在庫管理などでは、「何もしない」ということがしばしばある。これは「何もしない」という作用と考えればよい。定型行動といっても、いつも同じ行為をしているわけではない。時系列が期待される状況を示さないなら、四つ組反射の条件部が満たされない。この場合、四つ組反射自体が起動しない。
調整の時間尺度
経済の諸事象・諸行為は、それぞれ固有のリズム・時間間隔をもっている場合が多い。たとえば、組み立てラインでは、タクトタイムというものがあり、その時間内に各工員は一連の作業を終了する。すると、新しい作業対象が運ばれてきて、また同じことを繰り返す。この時間は、秒単位のものから、分単位のものまである。人間が働く職場であるがきり、一日は多くの仕事にとってひとつの区切りとなる。同様に週・月・四半期・年といったカレンダー上の時間単位が、多くの事象の自然な時間単位をなしていることがある。
ある経済行動の時間リズムは、基本的には判断をすべき頻度と同一である。たとえば、ある小売店では毎日、品目ごとの販売量を調べて、翌日補充すべき数量を決定する。この場合、一日ごとにどれだけの補充をするかという判断がなされ、その指令内容が実行に移される。この場合、判断の頻度と補充の頻度は同調している。判断はより頻繁になされるが、ある行為はもっと間歇的になされる場合もある。商品補充でいえば、それほど頻繁には売れない品目については、毎日補充するのでなく、在庫がある数量をきった場合に、一定の目標値となるよう補充するという方法がある。この方法は(S,s)法など呼ばれている。この方法では検品は毎日行われるが、それが発注に結びつくのはもっと稀で、一回の発注から次の発注まで数日から数十日の期間が経過する可能性がある。もし検品に処理時間と費用とがかかるとすると、毎日調べるのは適切でないかもしれない。その場合、平均の発注頻度の3倍か4倍程度の頻度で調べるのでも大きな問題は起こらない。
いかなる判断はどのくらいの頻度で行うべきかは、ひとつの選択問題である。その間隔は、判断に要する費用(金銭に換算されないものを含む)、変化の程度と頻度、調整することによる利得などによって異なってくる。これは、行動方式を一定に決めた上で、頻度をパラメータとする最適問題として解ける場合がある。この解が現実的意義をもつためには、問題の定義が実情に近いことが必要であるが、そのような状況の特定化が困難な場合も多い。このような場合には、パラメータを変化させてみて、作業費用などを計測比較して持つとも成績のよいものを採用するという方法もある。店舗や工場、経営の現場における定期的になされる判断・検討の多くでは、判断の頻度が経験的に定められている場合が多い。いずれにしても、判断の頻度を精密に確定しようとすることにはほとんど意義がない。したがって、多くの場合、カレンダー上の単位を用いて、毎日・毎週・毎月・四半期ごと・毎年といった頻度で判断がなされている。
目的によって判断の頻度にこのように違いが起こるので、経済過程の分析は、どのような行動の効果を分析しようとしているかにしたがって、採用すべき時間間隔が違ってくる。これは、対象とする過程によって時間リズムないし時間の刻みが異なるということである。これを西部忠(1996)は多層的調整と呼んでいる(吉次・西部2004、植村・磯谷・海老塚、1998をも参照)。
過程分析では、需要の変化あわせて供給を変化させるといった調整が可能である。たとえば、店頭在庫の範囲内であれば、突然の顧客の来訪によるランダムな買い希望に応えることができる。一日あるいは一週間単位で表明された需要にあわせて、不足分を仕入れることも可能である。過程分析では、主体に需要予測などの過剰な判断を課すことなく、適応反射型の対応を追跡することができる。これが過程分析のよいところである。均衡理論では、このような行動は認められず、価格を独立変数とする需要・供給という概念が必要となっている。
価格調節と数量調節
調整の時間尺度をただしく分析することは、経済学の内容にも関係する重要な問題である。近代的な機械生産においては、おおくの商品は規模に関して収穫一定あるいは収穫逓増状態で操業されている。この状況においては、価格による調整は新規参入か退出を通してしか作用しない。参入退出には多大の埋没費用がかかり、日常的に参入退出による調整は稀にしか作用しない。したがって、新古典派の価格理論が想定するようには価格による調整が恒常的には効かないものが大部分となり、調整機構としては数量調整が優勢とならざるを得ないのである。
ことなる時間尺度で進行する過程の影響をどう処理するかは、分析の設計に当たってよく注意しなければならないことである。この点に十分注意しなかったために、分析に混乱が生じた事例として数量調節と価格調節をめぐる数多くの論説が挙げられる。
たとえば、J.ヒックスや森嶋通夫などは、商品の特性により価格固定的な市場と価格調整的な市場とがあり、それらを二つの類型として分析しようとした。かれらは数量調節の重要性を示した意味で経済学に大きな貢献をしたが、数量調節・価格調節調整の時間間隔についてはただしく問題化できていない。「価格固定的」な商品であろうと、年単位の時間間隔でみれば価格は柔軟に調整されている。需要の変動特性や数量調節にかかわる費用、数量調節が有効になるまでの時間、取引目的などにより商品特性に違いがあり、それが価格の調整期間と数量の調整期間とを決めている。その結果、価格調整期間が数量調整期間より長いものは数量調整型市場とみなされたが、それはけっして固定価格的な市場ではない。
4.結合関係
経済は地球全体をも覆う巨大なネットワークとして存在する。小さな範囲に対してしか働きかけられない人間がこの巨大なネットワークに有効に働きかけられるためには、ネットワークそのものが特殊な構造をもっていなければならない。それは、このネットワークが緩やかに結合していることである。
緩やかな結合系
小売店に、突然、顧客がやってきて、ある商品を定価で買いたいと申し出る。店主は、棚から必要量を選んで客に渡し、客の希望に応える。これは毎日見かける平凡な事実である。しかし、この背後にはシステムとしての経済の重要な特質が隠されている。
経済において、工場・商店・個人がそれぞれ独立に判断し、行動できているのは、個々の行為を可能にする仕組みが経済システムに備わっているためである。そのような仕組みの備わっているシステムを「緩やかな結合系」と呼ぶ。このシステムの特性は、大規模なシステムであるにかかわらず、そのごく一部の変数だけを変化させることができることにある。
緩やかな結合という性質の重要さは、硬い結合という仮想的状況を考えてみるとよく分かる。たとえば、東京の山手線や大阪の環状線のような環状の鉄道を考え、ここですべての列車が鎖でゆるみなく連結されているとしよう。このように硬く連結された状況では、列車群の運行にはさまざまな不都合に直面する。ある列車が駅に近づいて停車するとき、他の列車も停止しなければならない。ある駅で駆け込み乗車があり、発車が遅れても、すべて列車に同じように遅れなければならない。現実には、列車と列車の間隔は、衝突の危険のないがきりで自由に変更できる。列車の間にこのような「ゆるみ」があることが、駅と駅の間隔をある程度自由にとることを可能し、列車の発着時間にも一定の裁量を可能にしている。緩やかに結合しているということは、大きなシステムを運用するために必要不可欠な仕組みである。
切り離し機能
経済が緩やかな結合系であるのは、そのような緩やかな結合を可能にする機構が経済の内部に組み込まれているためである。すでに言及した在庫はほとんどどこにでも存在して、諸変数を切り離す機能を担っている。
経済において切り離し機能を担っているものは在庫とはかぎらない。貨幣や信用も切り離し機能を担っている。貨幣は、売りと買いとを分離する機能をもっている。この切り離しがなければ、すべての取引に需要の二重の一致が必要となり、取引実現の機会は非常に限られたものとなる。信用は、お金の貸し借りに限られない。商取引における買い掛けないし売り掛けも信用の一種と考えることができる(塩沢1990;1996a;1996b)。
受注残高も、違う種類の切り離し機能をもっている。注文を受けてから、生産して納品するまでの期間に余裕を持たせることにより、注文と生産とを切り離している。納入期間を調整することにより、一日あたりの生産量を平準化できたりするのは、この切り離し機能による。操業時間も、切り離し機能を果たしている。工場には一般に標準生産量があるが、操業時間を調整することにより、実際の生産量を標準生産量から切り離すことができる。
切り離し機能は、もちろん、完全ではない。受けた注文は、無限に待たせられるわけではない。操業時間は一日24時間を越えることはできない。在庫は取り崩していけば早晩底をつく。そうなる前に、別のところから、あるいは自分で生産することにより、補充しなければならない。在庫は、機械の「あそび」のようなものであり、どこにでも少しずつあるが、大きくとることにはできない。在庫による調節にはおのずと限界がある。在庫を利用して一時的な調整をするとともに、つねにその補充を図っておかねばならない。
所有制度
市場経済は自由な交換のネットワークである。交換は、任意の二人の合意によってなされる。それが可能なのは、もちろん、それを許容する社会制度があるからである。それを私有財産制あるいは私的所有制という。
私有財産制のもとにあっては、すべての財産は、いずれかの人格によって所有されている。この人格には、自然人はもちろん法人も含まれる。所有主体である人格は、その所有する財産について、一定の処分権を認められている。たとえば、日本の民法は「所有者ハ法令ノ制限内ニ於テ自由ニ其所有物ノ使用、収益及ヒ処分ヲ為ス権利ヲ有ス」(206条)と定めている。この所分権は、法令に反しないかぎり排他的・独占的であるとされる。したがって、自然人であろろうと法人であろうと、所有の主体はその客体である物件について、他の人・機関等に許可や承認をうることなく、それを廃棄したり、売却したり、交換することができる。
もしすべての財産が共有ないし社会的所有であったならば、任意の財産の処分には社会の合意を必要とする。多数の人間からなる社会では、これは簡単なことではない。いちいちの案件について協議することは実際的にはできない。排他的・独占的私有財産が認められていることが市場経済の制度的基盤をなしている。私有財産制は、ひとびとの意思決定を切り離し、それぞれの自由な決定を可能にする社会制度上の切り離し装置である。
5.経済の原理
経済は緩やかに結合した巨大なネットワークである。それは各所に切り離し機能をもち、各主体がそれぞれの判断に基づいて行動することを可能にしている。統一的な調整・制御によるのでなく、各部分に分散した調整・制御によって過程が進行することを自律分散制御という。市場経済は、自律分散制御により全体過程が進行するシステムのひとつの典型である。市場経済は、分散的に調整されながら高い成果を示している。それはなぜであろうか。
交換の原理
市場経済は、相対取引を中心とする自由な交換の連鎖として存在している。経済の原理として説明しなければならないのは、交換がなぜ行われるのか、そしてなぜ広く交換が行われるかである。
交換とは、甲乙2者があって、それぞれいくらかの財をもっているとき、その所有の財の一部を他に譲ることを条件に、他からその財の一部をもらい受ける契約である。なぜ交換ということが行われるのであろうか。交換の起こる典型的状況は、しばしば需要の2重の一致と表現されている。それぞれが欲しい物を手に入れるのであるから、交換を拒否するより、交換に同意する方が双方にとって得になる。
これは交換の成立する状況と理由を説明する。しかし、これは経済において交換がなぜ普遍的な現象であるのかを説明していない。交換は自由な意思による同意を前提とする。一方ないし第三者の強制による財のやり取りは、交換とはいわない。双方にとって交換が得であると判断される以外に交換が成立する可能性はない。需要の二重の一致は、かなりの偶然がなければ成立しない。それにもかかわらず、交換が一般的・普遍的でありうるのはなぜか。それは次の定理1および定理2によって説明される(注3)。
[定理1]任意の種類数の財をもつ経済において、甲乙2者が自分の財ベクトルa、bをもっているとする。それぞれの財ベクトルの直交双対凸錐をOaおよび Obとする。さらに、甲乙は評価ベクトルva、vbをもっているとする。Oaとvaを含む最小凸錐をC(a)、Obとvbを含む最小凸錐をC(b)とする。ふたつの凸錐C(a)、C(b)が原点0を除いて共通集合を持たないならば、交換によって甲乙両者の手持ちの財ベクトルの評価を高めることができる。
この定義に意味を持たせるためには、いくつかの定義が必要である。ある非負ベクトルa=(a1,a2,・・・,aN)の直交双対凸錐とは、非負ベクトルでaとの一次積<a,u>が0となる双対ベクトルuの全体からなる集合をいう。財ベクトルの評価とは、財ベクトルと評価ベクトルの積をいう。
評価ベクトルは、主観的なものであって、客観的なものであってもよい。たとえば、資源制約下にある生産工場にける生産物の代替比率であってもよい。評価は、経済に存在するすべての財に対するものである必要はない。甲乙2者が所有する以外の財については、評価としてどのような比率をもとうが、定理1の前提からは排除されてしまう(甲と乙の財ベクトルの直交双対凸錐が共通のベクトルをもつ)。評価は、現在の状況のもとでのみ確定していればよい。新古典派の効用関数のように、すべての組み合わせについて事前にその効用がわかっていると考える必要はない(注4)。
定理1は、定式を工夫することにより、生産にかかわる交換の原理に変形することができる。それを定理2として掲示しておこう。各用語の詳しい紹介は省略する。
[定理2]甲乙二つの生産者があるとする。その手持ちの財と技術により、それぞれ独立に(つまり両者の間で交換を行うことなく)ある生産aおよびbができているとする。いま、甲と乙の生産可能集合のaとbにおける評価凸錐をそれぞれC(a)、C(b)とする。ふたつの凸錐C(a)、C(b)が原点0を除いて共通集合を持たないならば、交換を行うことにより、甲の生産a'と乙の生産b'で、全体としてa+bの生産を維持しながら、両者の生産を生産可能集合の内点に移すことができる。
[図の挿入]
これら定理は、2者のうち一方がある財を所有しない場合をも包含するよう前提が立てられている。そのため、やや難しい「境界条件」が付されているが、甲および乙の財ベクトルの成分がすべての財について正のときには、上の定理はもっと簡単になる。財ベクトルaおよびbが正のベクトルのとき、その直交双対凸錐は0ベクトルのみからなり、Ca、Cbは評価ベクトルva、vbと同じとるからである。このとき次の系をうる。
[定理1の系]任意の種類数の財をもつ経済において、甲乙2者が正の財ベクトルa、bと評価ベクトルva、vbをもっているとする。評価ベクトルva、vbが比例的でないならば、交換によって甲乙両者の手持ちの財ベクトルの評価を高めることができる。
このとき、ふたつの評価ベクトルが比例的でないならば、ある交換sを行うことにより、両者の手持ち財ベクトルの評価を改善できる。
定理2についても、同様の系が得られる。生産点aおよびbが生産可能集合の境界超平面の内部にあるならば、評価凸錐は境界超平面の法線ベクトルとなる。これらが比例的でないなら、甲乙両者の間で交換を行うことにより、生産の総量を不変に保ちながら、両者の生産を生産可能集合の内点に移動させることができる。これは、生産において、なんらかの投入要素を節約できることを含意している。
2者がそれぞれの状況にあわせて選んだ評価ベクトルが偶然比例的であることは珍しい。反対にいえば、二つの定理は、偶然組み合わされた2者において、交換により両者の状態を改善できる可能性が一般的であることを示している。これこそが交換が一般的・普遍的である理由である。
学説史に関する注意
定理2の生産者は、人格をもつものに限定する必要はない。甲と乙が国の場合、定理2はリカードの比較生産費説となる(境界条件は除く)。評価ベクトルは、両国における原価の比に相当する。甲と乙が工場ないし地域の場合、それはカントロビッチの一定理となる(カントロヴィッチ、1965、結論16)。この場合、評価ベクトルは「客観評価」と呼ばれている。
評価凸錐がひとつの評価ベクトルに帰着する場合には、定理1および2は、じつはパレート最適であるための条件と同値である。実際、定理1の系の逆の裏(対偶)は、以下の形となる。
[定理1の系の対偶]再配分により両者の所有ベクトルの評価を同時に改善することができないとき(つまり、パレート最適が達成されている場合)、両者の評価ベクトルは比例的でなければならない。
この意味で、定理1および2は、(境界条件その他に関する拡張をのぞけば)新しい定理ではない。均衡点はパレート最適点でもなければならない。その条件はさまざまな形に表現されている。定理1は基本的に線形代数の一部として与えられているが、連続微分可能な効用関数についても、評価ベクトルを等効用超平面の法線(効用関数の勾配gradientベクトル)と読みかえれば基本的な内容は同一である。
しかし、定理1および2が扱っている状況が均衡状態でない点に関するものであることは重要である。任意に与えられる二つの評価ベクトルは、一般に比例しないことが通常であるから、定理1および2は、一般的な状況において、交換により関係両者の状態の評価を高めることができることを示している。これは、両者の合意による交換の可能性が普遍的に存在することを示すものである。これに対し、新古典派は、すでに均衡が達成された状況を考え、その条件を考える。その珍しい例外(ほとんど唯一と考えられる例外)は、エッジワースのボックス・ダイヤグラムによる交換の原理の説明である。これは、所有ベクトルにおける効用関数の勾配がことなるならば、交換により両者の状態評価が改善されることを示している。
定理1と2とは、もっとも単純な場合には均衡の必要条件と数学的には同値である。しかし、これらの定理は、どのような状況を分析しようとしているかについて、新古典派経済学と複雑系経済学との違いをよく表している。複雑系経済学では、改善の可能性が汲み尽くされた極限ではなく、つねに改善の可能性があることに注目する。実際的な意義をもつのは、時間制約のなかで有限回繰り返される交換である。そのような状況においては、つねに改善の可能性は残されているとみるのが妥当であろう。
市場経済では、中央計画や取引市場のように一カ所に情報を集めることなく、外部からの指令もなく、参加者がそれぞれ自主的に判断して行動している。このような自律分散型経済は、均衡の成立を保障しないが、相対取引によって一般に事態の改善が可能である。この可能性は、それを発見した2者により、2者だけの合意により実行に移される。計画経済や協議型経済が、社会の多くの関係者の合意を必要とするのに対比して、これは市場経済の大きな特徴である。少数者の合意による決定は市場経済の調整を迅速なものにしている。
価格と等価交換
貨幣が存在する経済では、交換比率は価格で表示されるようになる。これは、直接には財の一定量がどれだけの貨幣と交換できるかを示すものである。N種類の財のある経済においては、この価格体系は(p1,p2,・・・,pN)と表される。貨幣を媒介とする交換は、通常、等価交換と言われている。等価交換と交換の原理とは両立しうるものであろうか。
このような誤解が生ずる背景には、評価と価格とがしばしば混同されてきた経緯がある。たとえば、マルクスの価値論は、価格で示される価値と評価とを混同している。
価格が存在するとき、交換が成立するのはどのような場合であろうか。いま価格ベクトルwと甲の評価ベクトルva、乙の評価ベクトルvbとが与えられたとしよう。価格ベクトルwを通る超平面Σがあって、それによりvaとvbとが分離されるとしよう。このとき、境界条件が適切ならば、Σの法線ベクトルsによって定義される交換によって、甲と乙とはそれぞれの所有物の評価を高めることができる。ベクトルsとベクトルwとは直交しているから、交換の前後で所有物の価値は不変である。価格ベクトルwによる等価交換が甲乙両者の得になるためには、wを通る超平面により評価ベクトルvaとvbとが分離されることが必要である(十分となるためには、別に端点条件が必要となる)。したがって、価格ベクトルとふたつの評価ベクトルは、けっして一致しない。
評価が主観的なものである場合には、一方が他方に働きかけて、その評価を変えさせることが可能である。甲のもつ財が新しい材料であり、乙がよく知らないとき、その評価は当然低い。しかし、それを用いて乙が新しい製品を作れることを甲が乙に説得できれば、その評価は大きく変わる。この場合、価格は不変でも、以前は不可能であった交換が可能なものになる。これは、次節「6.競争の原理」で説明する販売拡大努力のひとつの形態を示している。
分散した知識の有効な利用
F.ハイエクは、分散した知識が調整(coordinate)される場として市場を考えた。交換により専業化と効率化とがもたす限りでこれは正しい。分業ないし専業化は、経済の発展を可能にする主要な機序(mechanism)のひとつである。しかし、分散した知識が人々の間にうまく交換され、利用されるのはなぜであろうか。
ひとつの理由は、商品の生産に関係するさまざまな知識が、ものに体化して受け渡されることにある。交換においては、商品は価格と財としての特性をもつに過ぎない。ハイエクが強調するように、商品の買い手にとって、商品を生産するに必要なさまざまな知識はかならずしも必要とされない。買い手が生産者であり、商品を原材料として使用している場合には、商品の加工特性や機能が知られていれば、後は原価構成要素としての価格のみに関心を注げばよい。この意味で商品が財として売買されることは、知識の切り離し機能をもっている。この切り離し機能があるために、生産者は自己の商品の生産方法に精通し、納期を含む製品の品質を保ちながらに生産費用を低下させることに専念することが可能になる。
もっとも、この切り離しも完全なものではない。営業活動に関する項で指摘するように、新製品の売り出しにあたっては、製品そのものの用途を利用者に代わって開発し、その利用方法を潜在的な利用者に向けて発信していかなければならないといったことがある。逆に、ある製品の生産者がより適切な機能をもつ材料を求めて生産者を探すといったこともありうる。しかし、商品は、その生産に当たって必要な知識のかなりの部分をブラックボックスに入れたものであることに変わりはない。分業は、知識における分担と熟練を可能にする。分業の利益は、規模の利益を追求するものであるとともに、知識における分担と熟練を利用するものでもある。
価格と技術選択
ある製品を生産する二つ以上の方法が知られているとき、生産者はなにを基準にして生産方法を選択すればよいだろうか。これも分散した知識の社会的な利用の問題である。個々の企業がもっている技術知識のうち、どれを利用するかという問題だからである。
技術的観点のみによって生産方法を選択することはできない。他企業との競争のもとにおかれている企業は、より低い費用で生産する方法を強要される。社会的規制や将来の技術展望がこの選択に反する意思決定をもたらすことはあるが、同じ製品を生産するには基本的には生産原価の低い技術が選択される。生産方法の選択は、価格体系に依存している。ある価格体系Uにおいては生産方法甲が、別の価格体系Vにおいては生産方法乙が有利になる可能性がある。このとき、生産者甲の選択が生産者乙の原材料価格に影響して生産者乙の選択に関係し、それが生産者甲の選択に関係するといった堂々巡りに陥ることはないのだろうか。
最小生産価格定理(塩沢、1983)は、結合生産のない経済においては、そのような選択の循環が起きないことを保障している(注5)。この定理は、各財の生産に複数の生産方法が存在する場合に、各財ごとにある生産方法を一組選べば、その組(技術体系)により生産される商品の生産価格(生産原価に一定率の粗利を加算したもの)は、すべての財において他の方法で生産される場合の生産価格より小さいか等しくできることを保証している。耐久資本財が存在する場合でも、耐久期間中の効率が一定であるならば、同様の定理が成立する。最小の生産価格を与える体系の探索は、仮にとった体系の生産価格によって原価を計算してより低い生産原価をもつ生産方法を選びなおすだけでよく、この再選択過程は通常数回の繰り返しにより最小価格を与える体系に収束する(コンピュータ実験による未発表結果)。
この事例は、分散した知識が価格計算を通して経済全体における「効率化」を実現するメカニズムの一例を与えている。ハイエクは、価格の変動がある財(たとえば、カリフォルニア産のオレンジ)の生産がおかれている状況に関する知識を代替することができることを指摘しているが、価格の変動が与える信号作用が無条件に有用なものとはいえない。価格が変動することにより伝達されるものもあるが、あまりに変動しすぎては、製品設計における原価計算の基礎が崩れてしまう。分散した知識の社会的な利用には、最小生産価格定理の示すような隠れた経済機序があることを見逃してはならない。
条件付き取引
典型的交換は、甲乙2者の合意に基づき、両者の所有する財を相互に譲渡することにある。このとき、財の交換比率に関する交渉があるとしても、交換の成立後に財の処分権について譲渡者が条件をつけることはない。このことは貨幣を媒介とする売買契約においても同様である。これまで示してきたことは、市場経済は個々独立のこのような交換のネットワークとして成立しているということであった。しかし、典型的交換によってすべての状況が交換当事者双方にとってもっとも有利な結果をもたらすとは限らないことには注意しておく必要がある。この場合、典型的な交換に代わる、付加的契約条件の付いたより複雑な取引契約がなされる。
商品を買い入れて再販売している商人を考えよう。いま、当該の商品は、一日で価値がなくなるものだとする。新聞を売るキオスクの独立経営者を考えればよい。キオスクの経営者は、毎日早朝、新聞を一定部数買取り、顧客の求めに応じて販売していく。一日の終わりに売れ残った分は、翌日に持ち越しても買う人はほとんどおらず、価値のないものとなる。仕入れた新聞のすべてが売り切れれば幸いだが、それでは潜在的な顧客を逃すことになりかねない。売れ残りをも覚悟して、キオスクの経営者は、毎日何部仕入れればよのだろうか。この問題については、次の定理がある。
[定理]売れ残り価値が0となる商品の期待売上利益は、次の不等式を満たす最大の整数yを当初部数とするとき、もっとも大きい。
Φ(y)≦v/p
ただし、vは同付加価値、pは単位あたり売価、Φは潜在的需要部数がy以下である確率(累積分布)である。
毎日の需要は確率的にしか分からないとし、簡単のために曜日や天候による売り行きの違いは無視している。確率分布Φと付加価値率v/pが定まれば、毎日の仕入れ部数を決定することができる。
[参考図]
ところで、この定理は、vとpの解釈を変えれば、発行元である新聞社自体にとってもなりたつ。つまりpを新聞社の出荷価格、vをpから印刷と発送にかかわる単位原価を引いたものとすると、新聞社にとって当該キオスクに当初何部置くのがもっとも粗利益を大きくできるかを計算することがきる。
新聞の場合、新聞社とキオスクとでは付加価値率が大きく異なる可能性がある。たとえば、新聞朝刊1部の小売価格を150円としよう。キオスクの仕入れ価格を100円としよう。これは、新聞社のキオスクに対する販売価格でもある。いま、新聞社の部数あたり比例的原価を30円としよう。キオスクの付加価値率は34パーセント弱、新聞社の付加価値率は70パーセントである。毎朝初めに何部おくのが良いかは確率分布Φの形状に左右される。いま、確率分布Φが図のようなっているとすれば、キオスクにとっての希望配置部数は60部、新聞社にとっての希望配置部数は120部となる。このような違いは、新聞社の付加価値率がキオスクの経営者の付加価値率よりかなり大きいことから生まれている。
さて、このような状況において、新聞社とキオスクの間の取引が買い切り制(つまり単純な交換)であるとしよう。このとき、仕入れ部数を決めるのは買い手のキオスク側となるから、毎朝当初置かれる部数は60部となる。しかし、配置部数60部というのは、新聞社にとっては最善の状態ではない。もし120部配置することができれば、毎日平均して80部程度の販売量が期待できる。買い切り制のもとでは、新聞社は潜在的な顧客の多くを逃がすことになる。
この事態は、新聞社とキオスクの取引契約を変えることにより解決できる。それが委託販売制である。委託販売では、キオスクに配置する部数は新聞社側が決める。キオスクは、売れるだけ売り、販売数に応じて1部あたり50円の手数料を取得する。この契約は、キオスク側にとっても得である。毎日売れる部数は、100部程度となり、60部仕入れる場合の期待収益より大きくなる。
市場経済の基本的な取引は、単純な交換であるが、それのみですべてをカバーすることはできず、ときに付加的な条件をもつ取引契約が必要となる。ここに多様な経済制度の生まれるひとつの事情がある。上の事例では、委託販売制は売り手・買い手の双方に有利な契約であった。これは、経済制度がかならずしも社会の強制によるものでないという事例ともなっている。
6.競争の原理
市場経済の進歩・発展を駆動するものが競争にあることは、ほとんどすべての経済学者が一致して認める。しかし、市場経済における競争がいかなる場所でいかなる具合になされるかについて、新古典派と複雑系経済学・進化経済学とでは、大きな見解の隔たりがある。
「競争」概念と理論
新古典派経済学は「価格理論」とほぼ同範囲のものとして存在している。そのため、競争に関する理論的な説明は、ほとんどすべて価格競争として説明されている。完全競争、純粋競争といった概念の定義も、価格を軸としている。これが競争の実態を大きくゆがめるものであることは、すでに多くの指摘がある。
新古典派理論の競争概念をゆがめているのは、需給均衡という考え方である。より正確には、価格を独立変数とする需要と供給とが定義され、それらが一致する価格体系に市場が帰着するという一般均衡理論の枠組みである。このような定式化が成立した理由は容易に想像できる。古典派や新古典派の初期において、経済の調整変数としてひとびとの目に見えていたものは価格のみであった。数量的な調整は、部分的にできたとしても、その全体的な変動を推定することは困難であった。そこで目に見える調整過程として、価格による調整に焦点が絞られたのである。
需給均衡の枠組みがいかなる理論的難点を引き起こしているかについては、すでに第1節において言及した。この枠組みの含意は、「企業は市場で自社製品を売りたいだけ売っている」というものである。こうした状況でないと、企業の供給関数は定義されない。しかし、これがいかに現実離れした考えであるかということは、あえて説明するまでもない。このことがよく知られているにもかかわらず、競争概念が革新されないのは、新古典派の理論枠組みがこのような競争概念を必要としているからである。
市場競争をただしく捉えるためには、需要供給均衡という枠組みに代わる理論枠組みによらなければならない。複雑系経済学は、競争を価格競争から非価格競争をも含むより広い場に移すととも、販売拡大努力(現在の価格で、より多く売るための努力)という概念を導入する。
有効需要の原理
複雑系経済学は、基本的には時間の流れの中で諸変数の変化を追跡する分析である。したがって、新古典派のように「売りたいだけ売っている」という前提は不要である。反対に、複雑系経済学は、近代的企業の生産の増大を制約している主要な要因は、市場における需要の制約にあると考える。これこそP.スラッファが1926年の論文で提出した議題であり、ケインズ経済学の根底に置かれるべき考えであった。
ケインズの一般理論は、限界理論の2公準を軸に組立てられているが、それは有効需要の原理とうまく整合していない。このため、第2公準を否定することから始まって、ケインズ経済学をミクロ的に基礎付ける試みが長くなされた。それらが、結局、失敗に終わったのは、企業が直面している状況をただしく定義できなかったからである。生産量と利潤を増大させようとする企業の主要な制約が製品の売れ行きにある。需給均衡という枠組みは、その定式においてこの状況を排除している。したがって、マクロ経済学のミクロ的基礎付けが成功するためには、基礎に用いるべきミクロ経済学の枠組みを変えなければならない。既成の新古典派理論に基づいてマクロ経済学を再構成しようとしても、それは理論の構造として不可能なことであった。
ケインズ経済学は、しばしば、価格が固定的であるとの前提にたって説明される。価格調整がつねに瞬時になされる世界では有効需要の原理は意義をもたない。この意味では、価格の固定性を仮におくことには問題がない。しかし、有効需要の原理は固定価格を前提とするものではない。製品価格を下げようと、原価をまかなえる範囲では、その値下げ幅はそう大きなものではない。原価を割らない範囲でどんな価格を付けようと、企業はほとんどつねに需要の制約に直面している。これがP.スラッファの原理であり、企業水準で捉えられた有効需要の原理である(塩沢由典、1990、第3章)。
生産容量の変更をのぞけば、価格調節の間隔は一般に数量調節の間隔より長い。そのため、価格が固定的であるかの印象を一部に与えているが、価格が変動する世界においても、有効需要の原理はつねに生きている。有効需要の原理は、マクロ経済においてのみ出現するものであるかの説明もあるが、それは新古典派ミクロ経済学を前提としているからである。需給均衡の枠組みを離れてみれば、マクロの有効需要の原理は、個別企業が直面している状況の統合された表現でしかない。
販売拡大努力
製品価格がどのような水準にあろうと、企業はほとんどつねに需要の制約に直面している。だからこそ、生産を需要にあわせて調節し、より大きな利潤を獲得するためにさまざまな手段を講じて市場(つまり、自社製品に対する需要)を拡大しなければならない。競争におけるもっとも基本的な努力は、販売拡大のための努力である。これは、正確には「販売量拡大努力」であり、日常用語では簡単に「販売努力」「拡販努力」「販売促進」「営業」などと呼ばれている。
「営業」は、もともとは利益追求を業として行う事業全体を指し示す言葉であった。それが販売拡大努力に意味が限定されていくのは、この活動が企業にとっていかに重要なものであるかを示している。現在、日本では、「営業」は主として販売拡大努力をさす言葉に代わってきている。営業本部、営業部、営業課などの組織の主要目標は、売り上げを伸ばすこと、販売努力にある。市場における競争の波頭は、つねに販売拡大の努力にある。
販売拡大努力は、じつにさまざまな方策によってなされる。各種メディアにおける商品広告、販売拠点への巡回指導とお願い、試供品の無償提供、商品説明員の派遣、新発売時の販売促進特別キャンペーン(お試し価格その他)、小売店への売れ筋情報の提供、景品付き販売キャンペーン、などなど。販売拡大努力は、なんらかの利益を先方に提供するものとは限らない。自社製品に対する買い手の認識=評価を変えることができれば、価格は一定でも買ってもらえるようになる。先方に対するこうした説得も、販売拡大の重要な努力のひとつである。これまで取引のかなった企業に商品を売り込むには、自社製品の原材料としての特性などをよく相手にわかってもらうことが販売成立の第一歩である。有力な製品開発においては、完成前から用途開発のための共同研究を開始するなどのことも行われている。これらすべてが、販売量をより大きくするための努力である。
このために、大変な金額が投入されることがある。もちろん、販売拡大は、利潤増加の手段であるから、投入された金額に見合う効果がなければならない。簡単にいえば、一定の金額Mを投入して、販売量がXだけ伸び、その結果として各種の販売努力にかかる費用を控除する前の粗利益の増分がM以上でなければならない。もちろん、販売努力の効果は、長期にわたるものもあり、販売拡大努力の一部は投資としての性格をもっている。したがって、利益の計算は単純ではないが、費用をかけてまで販売促進に努力する以上、総合的・長期的にみて企業にとって利益があると経営者は考えていることになる。
販売拡大努力にかかる費用は、粗利益の大きな比率を占めることがある。この努力に多くの人員と資金とが投入される。このため、どのような拡販努力をすれば効果的であるかは、経営における重要な意思決定の課題である。
一定の販売価格と販売数量であっても、生産費用をより低くできれば、その分、利潤は増大する。得られた利潤は、再投資に使いうる。高い利潤が得られていることは、新規の投資を呼び込む材料ともなる。販売活動における優位性を確立する原資とすることもできる。そのため、生産方法の改善、品質の改良が販売努力と並ぶ重要な競争場面となる。受注生産を行っている企業では、納期の短縮と厳守が注文を呼び込む有利な条件となる。製品の原材料・部品の調達においてより有利な条件を獲得すること、より有利な供給源を発見することも重要な競争の場となる。
競争に関係するのは、生産原価を構成する費用だけではない。現在では、多くの企業で原価を構成しない一般管理費が大きな重みをもっている。組織のあり方、事務処理方法の改善、広告、販売チャネルの再構築などを通して、少ない費用でより多くの製品を販売する競争もある。技術開発と商品のデザインの重要性は、近年ますます大きくなっている。製品や企業のイメージ作戦であるブランディングや、どのような商品が売れそうかを調べるマーケティングも、経営の重要な手法となっている。
競争とイノベーション
事業を維持・発展させることは、企業としてまず確保しなければならないことである。この意味で、企業は継続事業体(going concern)と呼ばれる。外部環境が変わらないならば、これまで存続してきた企業は、これまでの商品、これまでの生産方法、これまでの原材料、これまでの顧客ないし市場、およびこれまでの組織管理を維持することで、継続できる。企業は、多くのノウハウの集合体であり、それはこの企業を維持・発展させる基盤である。しかし、企業の外部環境はかならず変化するし、企業内部の事情も変化する。競合する商品が出現して従来の商品が売れなくなくなる。他社に新しい生産方法が導入され、商品価格が低下する。新しい原料が出現して、同じ製品をより安くできるようよになる。顧客層の高齢化により、需要の構成が変化する。インターネツトにより、会議と事務手続きが変化する。こうした状況の変化がつねに起こっている。このような変化を利用して競争企業が新しい商品や生産方法の改善に成功するとき、企業は困難な立場に立たされる。商品の売れ行きが下がり、対抗して製品価格を切り下げても、従来どおりの販売量を確保できなくなる。
こうした事態に対応するためには、自分の企業も、商品・生産方法・原材料・販路・組織などを新たにし、より低い費用とより多くの販売を実現して、利潤を維持ないし拡大する以外にない。シュンペーターは、これらの活動をイノベーションと呼んだ。競争は企業にイノベーションの実現を強要するが、優れたイノベーションは競争に勝利するための有力な手段でもある。市場競争がイノベーションを強要し、それが経済の発展・進歩を駆動してきた。もちろん、個々のイノベーションは、成功を約束されたものではない。新しいさまざまな試みの中で、大きく成功するイノベーションはわずかしかない。ひとつの成功の周囲には多くの失敗がある。場合によると、イノベーションの期待収益率は負であるかもしれない。それにもかかわらず、継続事業体として企業がイノベーションに取り組まざるを得ないのは、なにもしない企業の運命が市場からの退出しかないからである。
シュンペーターは企業家の役割をイノベーションの遂行者として定義した。語源からも、期待すべき役割から言っても、それは正しい。ただ、イノベーションが新機軸と表現されるような画期的な新結合・新事物だけをいうのであれば、いささかバランスを逸している。生産方法の改善においても、実際に原価を引き下げているのは、生産方法に習熟し、改善・改良を重ね、さまざまな不測の事態に対応する知識の蓄積でもある。イノベーションは、新機軸・革新と呼ぶべき大きなものから日々の小さな改善・改良までの連続体である。イノベーションの考察が英雄史観であってはならない。改革の遂行者・革新の実現者の事跡は重要あるが、それを周辺で支える多数の人間の創意・工夫の蓄積効果を忘れてはならない。
7.選択と進化
複雑系経済学は、複雑な環境におかれた人間がいかに選択し意思決定するかに興味をもっている。それは、新古典派の合理的選択理論を現実性のないものとして拒否するが、人間が可能な限りで有利な判断・決定をしようとすることを否定するわけではない。複雑系経済学の主張は、人間行動は非合理的であるという主張とは区別されなければならない。新古典派経済学と複雑系経済学の違いは、選択すべき対象の水準の違いにある。新古典派は、直接、行為を最適化しようとする。複雑系は、これに対し、代替的な定型行動を選択の対象とする。後者は、行動が進化するという見方に立っている。この見方は、経済の他の重要なカテゴリーについても、重要な展望を与える。
選択の水準
人間行動を定型的なものと捉えることは、人間がつねに同じ行動をしているとみなすことではない。人間の行動は、動物に比べて、はるかに可塑的である。同じ状況・おなじ目的であっても、人間は利用しうる行動の定型を複数もっていることがある。人間は、いわば行動のレパートリーをもっている。選択は、これらのレパートリーの中から、ひとつの定型行動を選びだすこととして存在している。これは小さな違いに見えるかもしれない。しかし、複雑な状況のもとでは、本質的な違いである。
新古典派のシナリオでは、人間は、選択に先立って、まず状況を定義し、目的を定め、最適な結果がもたらされる行為を選択しようとする。このため、状況の因果モデルが必要となる。結果が一義的に予想できない場合は、(主観)確率に基づいて期待効用を最大化しようとする。しかし、適切な因果モデルを構築し、選択肢ごとの結果を推定することは、きわめて単純な状況に限られる。モデルの推定と結果の計算は、関係要素がすこし大きくなるとほとんど不可能になる。もしできたとしても、実質的な意義は期待できない。このような選択の考え方は、視野と合理性の二つの限界を無視するものである。
複雑系経済学の考え方では、行動の選択は二つ以上の定型の間でなされる。もっとも簡単には、定型行動は「兆候=>行為」というパタンである。比較すべきは、このパタンが平均的にもたらす成果である。同一と定義される状況において、行動乙が行動甲より平均的に成果が高いなら、行動甲から行動乙へと乗り換えることは、妥当な判断である。この比較は、経験と記憶さえあれば、高度な推測や計算はいらない。この判断においては、行為者が適切な因果モデルをもつ必要はない。
新古典派では選択はすべて事前に行われると考えられている。ことが起こってから選択はできないから、これは当然のことのように思える。しかし、これは世界理解や計算能力に限界のある人間にとっては、かならずしも適切なものではない。すべてを事前に計算しようとすれば、モデル構築や結果の推定に多くの恣意的な想定を入れざるをえない。選択の対象を繰り返しの可能なひとつのパタンと捉えるとき、事情は変わってくる。ある方式を実際にやってみて、結果をみるということが可能になるからである。これを吉田民人(1990)は「事後選択」と名づけている。正確には、行為の事後に選択されているのではなく、複数の方式を実際に試してみて、よい方式を選択するという意味である。正しくは「実績に基づく選択」というべきであろう。選択は、つねに事前になされなければならないものではない。選択の水準を変えることにより、経験や試行・学習のあとで選択することができる。これが可能になるためには、選択の対象が繰り返し可能なものとして同定されることが必要である(塩沢由典、1998b)。
このような選択の結果得られた行動は、一定の合理性をもったものといえる。これは事態の予測可能性に基づいたものではなく、具体的な状況の中で選びとられた合理性(目的への適切性)である。八木紀一郎(1998)は、ローソンなどの後を受けてこれを「状況づけられた合理性」(situated rationality)という概念で捉えることを提唱している。西山賢一(1997)は、これらを「状況に埋め込まれた活動」として理解しようとしている。
経営学にいう計画・実行・検証(Plan, do, see)のサイクルも、複雑な環境においてある行動を計画するとき、事後の検証と実績にもとずく選択の必要を例証している。
前提とすべき状況
行動の基本は[兆候=>行為]というパタンからできでいる。より複雑なものも、これらを順番に組み合わせたものである。これがなんらかの意義をもつためには、環境世界そのものにある定常性が仮定されなければならない。シャックルは、経済を無限に変化する万華鏡であると主張した。しかし、万華鏡がまったく新しい世界を前後の脈絡なく示すものであれば、人間は行動できない。定型行動は、時間経過の中で特定の兆候にたいし、特定の行為を行うと一定の状況を導くことが多いと期待できることに基づいている。こうした構造が環境世界にないならば、行動の平均的成果が存在することも、測定されることもない。
人間にとって、環境世界は大きすぎる存在であり、多くの場合、その全体は物理法則に基づく予測可能な体系ではない。しかし、多様に変化する現象の中に、一定のパタンを見出すことができることがある。それはある特定の予兆が見られるとき、ある結果の到来を推測させるものである。二つの事態のそうした継起は、古いことわざの中にも数多く見られる。「西の空が夕焼けになると、翌日は天気になる。」これは、素朴な観察に過ぎないが、農業の時代には重要な知識のひとつだった。
高度な実験科学においても、類似の状況がある。実験上の仮説が正しいものと確認されるためには、他の実験者による追実験において同じ結果が得られなければならない。これを再現可能性という。近代科学は予測可能性を持たなければならないという主張が経済学の内部でなされたことがある。しかし、近代科学といえども、未来の事象に対する予測可能性をもっているものは少ない。太陽系の運動予測は、系が比較的単純でかつ摂動計算が可能だったという幸運に依存している。科学技術の恩恵は、それが予測を可能にしてくれることにではなく、再現可能な多くの知見を与えてくれることにある。
現象の中に特定のパタンを見つけることは、じつは動物たちも行っていることである。この点において、動物から近代科学にいたるまで認知のパタンは、基本的には変わっていない。西山賢一(1999)は、ギブソンの生態学的心理学を受けて、環境が行為者にアフォードするものの意義を強調している。その議論を読むと、動物や人間の行動が環境世界の定常的な特徴をいかにうまく捉えているが良くわかる。
人間の経済行為も、状況がアフォードするものに依存し、それにうまく適応したものにずきない。その前提として、経済は一定の定常性をもつものと前提しなければならない。それは同じ事態が繰り返されていることを意味しない。経済は莫大な数の変数をもつシステムであり、すべての変数が同時に同じ値を繰り返すことはありえない。個々の変数を時系列的に調べてみても、完全な周期性は認められない。しかし、ある変数が特定の変化を示すとき、同じあるいは別の変数がある特定の動きをすることはしばしば観測されることであり、こうしたパタンがかなりの頻度で繰り返されることが定型行動の前提となる。こうした定常性をもつ時系列を「ゆらぎのある定常過程」と呼ぶ。これは確率過程論にいう「定常過程」よりずっと広い意味に捉えなければならない。
定型行動の選択の前提はゆらぎのある定常過程である。この定常性はもちろん一定の時間幅の中でいえることである。もし、その変動様式が大きく変化するならば、実績による選択の結果であろうと、もはや他の行動よりよいものとはいえなくなる。
進化するもの
行動以外にも、経済のいくつかの重要なカテゴリーで、定型行動とおなじように反復可能であり、実績に基づいて取捨選択されているものがある。商品・技術・制度である。これらは、定型行動と同じように、「進化するもの」と捉えられる。
進化するものは、単に変化するものではない。これらの変化の仕方に特徴があり、その変化を進化ととらえることが適切だからである。
商品・技術・行動・制度は、それぞれ小さな独立の存在から構成されている。たとえば、商品の多くは、個体性をもち、同じものの複製を作ることができる。行動や制度も、これ以上分解すると、ひとつの行動や制度と見なせなくなるまとまりがある。技術をひとつひとつの単位に分解することはかならずしも容易ではないが、ある機能を実現するのに必要な技術をひとつの単位として考えることができる。
これら四つのカテゴリーは、他と区別される個別性をもち、学習や模倣を通して、他の個人や社会に複製される。商品・技術・行動・制度は、この意味で複製子(replicator)と見なすことができる。生物進化論では複製されることが重要であるが、経済において「進化するもの」の特徴づけを与えるより重要な特質は、これらが時間を通して繰り返し可能なことである。たとえば、商品は、おなじものを別の時刻に作ることができる。行動や制度も、条件となる状況が満たされれば、繰り返すことができる。技術も、特定の機能を実現するノウハウと考えれば、繰り返し適用可能である。
時間の中で反復可能性なものでは、実績に基づく選択が可能である。商品・技術・行動・制度は、改善・改良・革新・普及を試みることができる。市場経済では、これら四つの重要なカテゴリーは、実績に基づいて選択され進化する。
過剰適応・過剰学習
進化の過程では、多くの選択肢の集合の中で、基本的には成功したものが採用される。これが一般に経済が進歩・発展していく道筋であるが、ときにはこの仕組みがうまく働かなず、状況への過剰適応や過剰学習が起こる危険性がある。成功経験は、多くの場合、有益な経験であるが、それが固化されるときには「成功の罠」に転化する可能性がある。フィンケルシュタイン(2003、p.348-50)は、失敗する経営者の7つの習慣のひとつに「かつての成功経験にこだわる」を上げている。
過剰適応は、ときに防ぎようのない過ちである。過去に成功した商品・技術・行動は、それらを維持・発展させる方向に圧力が働く。新しい可能性が出てきたとき、過去の技術や販路などを犠牲にしてまで、新しい可能性に賭けることには、大変な決断がいる。新しい可能性がよほどの確実性をもつものでないかぎり、そのような決断はできないし、やってもならない。銀塩フィルムで成功した企業が、ディジタル・カメラの出現を捕らえて、うまく業種転換を図るというのは、至難の業というべきである。
過去に投下された埋没資本にしばられない企業家のみが新しい可能性に挑戦できる。このような機構が働くかぎり、企業の新陳代謝はつねに幾分かは必然である。
過剰適応・過剰学習は、特定の動的状態=定常過程が長く続く場合に起こりやすい。このとき、特定の定常過程ではよい成果が得られるが、認知されない変化が起こった場合にも行動を変化させることができず、状況への不適応が生ずる。生物は、つねに環境の変化にさらされてきた。生物が一定の確率で自発的な突然変異を起こすのは、環境が一定の頻度で変化することを前提とした適応戦略であると考えることができる。
進化するものどおしが相互に関係をもって、他の一定の進化がなければ、自己の進化自体が成立しない(つまり、存続できない)とき、このような進化関係を共進化(coevolution)という。技術と商品の間、制度と行動との間には、このような共進化が生まれやすい。また、技術と技術の間の共進化や制度と制度の間の共進化のように、同一種類の進化するものの間の共進化もある。収穫逓増などの効果としてシステム全体が一定の方向への進展を見せる場合、進化そのものが定向進化の傾向を見せることがある。
8.知識
知識は、通常の理解では、経済学の対象というより、哲学や心理学の対象である。しかし、経済学には、経済学として知識を問題にしなければならない事情がある。経済学の問題とする知識は、真理である命題ばかりではない。ノウハウのように、真偽ではなく、有用性のみが問題となる知識もある。人間社会に関する知識の中には、人々がそれを信じて行動すればそれが真となるような構造の知識もある。
経済学が知識を問題にせざるを得ないのは、最近、知識の役割が重要性を増したからではない。すでに論じたように、分権的な意思決定により進行する経済過程の中で分散した知識がいかに調整され生かされるのかという問いは、市場経済を対象とする経済学のもっとも重要な問題である。しかし、知識は、人類の共通資産として、市場経済の展開とは異なる発展の様式をもっている。そこに経済学として考えるべき興味深い関係が生ずる。知識と私的財産制とをいかに調和させるかは重要な制度設計問題である。
支えとしての知識
商品・技術・行動・制度の4つのカテゴリーは、それらが進化するものとしての特性を持っているだけでなく、ひとつの共通の支えをもっている。それが知識である。たとえば、商品は、それ自体が利用法、生産方法、デザインと包装、原料獲得方法、販売経路、開発方法など、多数の知識・ノウハウの塊である。技術は、しばしば技術知識といわれるように、一般に知識的なものと考えられている。技術知識も、さまざな知識を組み合わせて使われている。ひとつの機械をとってみても、その操作・保守・改善などに多様な活動があり、それぞれに必要な知識がある。これらがすべて備わって全体として機械がうまく動く。新しい機械や装置、システムを開発するとなれば、そこに必要とされる技術は列挙しきれないほど多様である。
行動は、ふつうは知識とは考えられていない。しかし、定型行動が4つ組反射の集合として表されること、4つ組反射がCD変換であることを考えれば、行動はまさに知識に裏づけられている。違和感があるとすれば、これは知識というものの捉え方がせますぎるためである。知識には、事実にかんする知識とやり方に関する知識とがある(G.Rhyle、1949)。前者は、真偽が問題となる知識であるが、後者には真偽はなく、それが有用であるかどうかだけを問われる。人間の自覚的な行動は、こうした知識により支えられている。制度には、個人の行動を制約する側面と、選択の負担を軽減する側面とがある。制度には、強制が伴うものばかりでなく、それに従って行動することにより、紛争も少なく、交渉もうまくいくといったものも存在する。制度の多くも、自発的な学習に基づく知識に支えられている。
知識の共同体
科学は知識の全体の中で重要な地位を占めている。現在各企業で行われている研究・開発は、その研究手法や目標設定において科学に示唆を得ているものが多い。逆に、技術の発達が科学の進歩を助けている面もあり、科学と技術とが互いに携えて発達していきたことをできない。
科学の進歩・発展は、知識の共有や形式化に負うところが大きい。科学研究の重要部分が大学でなされているが、そこでの研究は公開を原則としている。この原則なしに、大学が社会の知の中心であり続けることはないだろう。公開は、たんに科学者の知的栄誉のためにのみなされるものではない。公開による相互刺激なくしては科学の迅速な発展は期待できない。和算は、江戸の初期、当時としては相当の水準にまで達したが、秘密主義と実用との分離から、その後、大きく発展することはなかった。
公開による知識の共有は、科学の発達のためには必須の条件である。自然科学だけでなく、社会科学・人文科学においても、同じことが言える。知識の公開は、学問の発達を促す重要な環境条件である。しかし、商品や技術など経済の重要なカテゴリーを背後で支えている知識については、競争上、ノウハウとして秘匿されることが多い。ここにひとつのずれが生ずる。知識の発展という観点からは、それらすべてを企業の内部に秘匿することは経済全体としてはかならずしもよいこととはいえない。しかし、企業で研究開発にお金と人員を投下するのは、利益の追求のためである。この研究結果をすべて公開していては、「ただ乗り」が生ずる。企業は、研究開発に投資するより、他社の研究成果を借用しようとするだろう。企業は研究開発から離れざるを得なくなる。この意味で、一定の知識(競争段階の技術)は、企業の内部に秘匿されるのを認めなければならない。
知識の進歩に公開と共有は大きな意義をもっている。他方、企業の研究開発を推進させるためには、その成果が(少なくとも一定期間)秘匿されることや独占利用権を認めなければならない。二つの要請を同時に満たすことはできない。
既成の技術知識が秘匿されたり、有償で開示されたりすることがある。これは知識財産として、特殊な所有概念として処理されている。そういう擬制の上に、知識は市場の論理の内部で処理されている。しかし、知識には、市場経済の論理には収まらない側面がある。市場経済は、分散した知識を全体しとして活用する注目すべき装置であるが、そのすべての側面を市場の論理で覆うことはできない。
知識は、知の共同体の内部で発達する。ここには市場の論理とはことなる協力の論理がなければならない。市場の論理のみでは処理しきれない問題を知識が提起していることを忘れてはならない。
9.経済のシステム特性と経済学の方法
複雑系については、それが方法論的全体主義に立つという理解がある。そういう主張をする論者がいることは確かだが、これは誤解である。すくなくとも、複雑系経済学は、このような方法的観点に立っていない。方法論的個人主義も方法論的全体主義も、ともに不十分であるというのが複雑系経済学の立場である。
方法の議論は、対象となる経済のシステムとしての特性を抜きにしては語れない。複雑系経済学が方法論的個人主義にも全体主義にも立ち得ないのは、経済のシステム特性について、複雑系経済学が従来とはことなる見方をしているためである。
経済のシステム特性
経済は多くの要素からなる巨大なシステムである。それが正常に機能するためには、多くの性質が前提されなければならない。
まず、システムの特性として以下の3つに注目しよう。
(1)時間特性 経済の状況は、ゆらぎのある定常過程としてある(ゆらぎ)。
(2)連結特性 経済の諸変数は、緩く連結されている(ゆるみ)。
(3)個体特性 経済の個体(主体)は、生存のゆとりを持っている(ゆとり)。
それぞれシステムの時間変化・連結・構成個体の生存に関する条件である。
これらが、経済内の諸主体の自律的な行動の環境要件となっていることに注意しよう。すでに指摘したように、有限の働きかけ能力しかない人間が経済に有効に働きかけられるためには、経済の諸変数が緩く連結していることが必要であった(4.結合関係)。行動の基本は[特定の兆候=>行為]というパタンからできでいる。これがなんらかの意義をもつためには、環境世界そのものにもある定常性(すなわち特定の継続パタンの反復)が仮定されなければならない(7.選択と進化)。経済が緩やかに連結され、特定の行動パタンを可能にする定常性をもっていても、行動の成果は、つねに期待通りの成果を収めるものとは限らない。多くの場合、行動は失敗に終る。すべての失敗が致命的なものであるなら、経済には早晩、それを担う主体は存在しなくなる。その意味で、主体は、多少の失敗や状況悪化に耐えられる生存のゆとりをもっていなければならない。
第3節で、人間は、生物的な条件として(1)視野の限界、(2)合理性の限界、(3)働きかけの限界の3つに条件付けられていることを指摘した。このような限界の下にある人間が生存し、行動していくためには、環境としての経済システムには、ゆらぎ・ゆるみ・ゆとりの3つの特性が必要である。
重要なことは、この論理が循環していることである。経済システムは、人間行動の総過程として存在している。人間行動自体が経済の総過程の中で進化し、選択された結果である。したがって、経済の総過程が人間の行動から生成されることを確認するだけでは十分でない。それらの行動の相互作用として展開される経済の総過程がひろい意味で定常的なものであり、行動と過程の間にある種の両立関係があることを証明しなければならない。これをミクロ・マクロ・ループという。これについては、すぐ後で考察する。経済学が単に行動科学ではなく、システム科学でもなければならないのは、こうした関係があることによる。
経済システムが全体としてどのような調整システムであり、それをどう定式化し分析していったらいいかについては、さまざまな提案がある。均衡理論は、基本的には調整の進行をアプリオリに前提するが、新しい提案はシステム内部にそうした調整機構が組み込まれていると考える点では共通している。西山賢一(1995)は、免疫系に類した自己調整システムを想定している。金子勝と児玉龍彦(2004)は、多重フィードバックシステムというアイデアを提起している。しかし、これらのアイデアの本格的な考察は、まだ始まったばかりである。具体的な経済行動の総過程として定常性が確認されている例は多くないが、谷口和久(1997)・森岡真史(1993)はこうした事情に対する貴重な例外である。
自己組織するシステム
交換が恒常的なものとなると、分業の利益が生ずる。生産方式によっては、規模の利益や範囲の利益が生ずる。分業の結果、特定の産業に関する知識と熟練が集積される。規模の利益があると、生産者にとって規模を拡大したほうが得であり、市場は過剰な生産容量における数量調整となる。このような競争においては、実際にどれだけ売れたかは、企業の利益率と利益量を決める大きな要因となる。より大きな数量を売り上げた企業は価格・広告・販売ルートの確保などにおいて有利となる。ここには、小さな差異を増幅するメカニズムが働いており、差異は時間の経過を通して拡大する。経済には状況の分岐を促す多数の機会があり、それぞれの分岐における歴史的経緯を無視して現在の状況を理解することはできない。これは経済現象の経路依存性と呼ばれ、複雑系経済学のひとつの重要な議題となっている(アーサー、2003)。
時間経路の分岐をもたらす機構は、経済には多数認められる。規模の利益・範囲の利益・学習の効果・連結の効果などが代表的なものであり、それらはひろく収穫逓増とよばれることがある(塩沢由典、1996、p.348の整理をみよ)。経済学としてはもっとも古い概念である「分業の利益」も、収穫逓増のいくつかの組合せと考えることができる。このような現象は、すでに1960年代に丸山孫郎(1984)により第2サイバネティックスと名づけられ、システム論ではひろく知られていた。この概念が経済学に入りにくかったのは、需給均衡理論が収穫逓増を排除しなければならない理論構造をもっていたことによる。
ミクロ・マクロ・ループ
経済は、分散した決定と行動に基づくネットワークであるが、それは個人(ないし個別企業)の行動からすべてが構成的に出来上がっているものではない。ある一定の範囲内では個人の行動は経済過程の決定因である。しかし、その個人の行動については、以下の3つの注意が必要である。
@現在の行動は、過去の状況の中で発見・選択されたものである。
A行動は、任意の状況に対応できるものでなく、一定の適用範囲をもつ。
B適用範囲外の状況については、アドホックな解決策が立てられる。
経済で通常観察される行動と総過程とは、相互に規定する関係にある。行動は、過去の歴史の中で進化してきている。経済主体は、任意の状況に適用できる既成の定型行動をもことはない。これは経済主体に仮定できる能力を超えている。現在は、長い共展開(convolution)の結果としてある(注6)。それは多重に分岐した結果としての現在であり、無前提の構成を可能にするものではない。
経済で重要なことは、任意状況でなにが起こるかではなく、経済ではどのような状況に構造化されており、そのことが経済発展や経済変動にどのような知見を与えるかにある。経済の全過程はミクロの行動の相互作用としてあるが、その行動は全過程の特別な構造化に適応した結果としてある。このミクロ・マクロ・ループの存在に注意することなく、経済学の方法は論ずることはできない。ミクロ・マクロ・ループに注目するとき、経済学は、方法論的個人主義も、方法論的全体主義も採用できない(塩沢由典、1999)。
構成的方法の破綻
一般均衡理論は、資源の配分状態・技術知識・消費者の選好が与えられれば、現在の状況がそれらの構成要素から再構成される理論構造になっている。一般均衡理論は、方法論的個人主義ないし方法論的構成主義の立場のひとつの模範例となっている。
アローとドブルーの理論では、凸性などの条件はつくが、基本的には任意の資源配分や技術知識、消費者の選好において、一般均衡が存在することを証明している。一般均衡理論は、与件の一般性において理論の卓越性が証明されていると一般に思われている。しかし、この一般性のために理論は隠れたところで大きな犠牲を払っている。任意の状況に即座に対応できる人間など本当はいない。アローとドブルーの理論では、そこを所与の資源配分と所与の価格体系において自己の効用を最大化するという定式を置くことによって切り抜けている。すでに説明したように、そのような計算能力=合理性を人間は持たない。
複雑系科学が明らかにしたひとつは、学問の守備範囲と内容の深さに関して一種のトレードオフがあるということである。これは、学問研究においてもわれわれの知的能力に一定の限界があり、一般により広い状況を説明する理論では、特別な与件において成立する特殊な構造を説明することは一般にはできないできないからである。一般均衡理論は、非現実的な仮定を導入することにより、この点を誤魔化しているが、経済は時間的な経過の中で成立した自己組織系であり、任意の与件から一挙に再構築できるものではない。J.シュンペーター(1977)はこのような再構築を「ab ovoの構成」と名づけたが、生物生態系であれ、人間の経済であれ、先立つ生態系・経済を無視して現在はありえないのである。
L.アルチュセール(1994)は、現実は「つねにすでに所与」の構造(le toujours-deja-donne d'une unite complexe structuree)として存在すると注意している。ミクロ・マクロ・ループの存在と自己組織化に留意するとき、経済はつねにすでに構造化され、経済として存在していると考えなければならない。過程分析は、白紙の出発点を持ちえないのである。
10.新しい分析用具
これまで記述してきたような、経済過程がもつさまざまな特質を組み込みながら、経済学の諸問題に有益な示唆を与えるような分析方法は存在するだろうか。とくに、定型行動のレパートリーをもち、ミクロ・マクロ・ループの存在に矛盾しない分析枠組みないし分析用具は存在しうるであろうか。エージェント・ベースのモデル分析がそれであるとわたしは考えている。そう期待するに十分な理由がある。
数学的方法を超えて
経済学は、これまで主としてふたつの研究方法を用いてきた。ひとつは文学的方法であり、もうひとつは数学的方法である。
文学的方法は、経済学の主題が明らかになる前から、経済の諸事実を観察し蓄積するために用いられてきた。経済史や実証的な調査報告などは、現在でも多くは文学的な方法によっている。古典経済学の時代の理論研究は、主として文学的方法によってなされた。数値例の検討も、基本的には文学的方法の一部と考えることができる。
経済を数学的方法によって研究しようとする動きは、すでに19世紀はじめに見られる。19世紀の最後の四半世紀になると均衡概念や限界効用の概念が導入された。20世紀には数理経済学は厳密な数学となった。数学的定式化と計算や証明の必要が、経済学の概念と論証を厳密なものにした。しかし、それは、経済に対する総合的判断を欠いたものであった。1970年代前半には、数学化された経済学の現状に対する反省の声が上がり、既定の研究プログラムに対する危惧が表明された。ベトナム戦争終了後、アメリカの大学が保守化するとともに、主流の経済学は、本章で指摘したような各種のアノマリーを内包しながら、理論的な不整合には目をつぶり、合理的期待形成、実物景気循環論(real business cycle theory)、内生的成長理論など、あまり根拠はないが論文が書けるというだけで研究される多くの流行が交代で現れることとなった。
複雑系は、複雑な状況における人間をテーマにするとともに、科学研究そのものに対する複雑さの影響にも関心をもつ。数学そのものに理論的限界はないものの、数学的思考や数学的分析は人間の能力の限界に規定されている。そのため、一定の定式化と分析はどんどん緻密になるが、解析に適さない主題は無視されるということが起こりやすい。マーシャルやケインズは、この点に気付いていた。そのため、かれらは極端な形式化に走ることはなかった(Marchionatti, 2002)。
経済学が均衡と最大化・最適化を主題としてきたのは、経済過程それ自体の特性を反映するというよりも、こういう枠組みでなければ数学的分析に上らないという事情によるところが大きい。この枠組みがさまざまなアノマリーを内包することが意識されながら、保守的な態度が繰り返されたのは、結局、最適化と均衡という枠組みを放棄するとき、理論経済学にはなにも残らなくなるという恐怖があったからにちがいない。数学化は、19世紀の末には前進的研究プログラムであったが、現在ではまったく別の意義をもつものとなっている。実情がこのようなものであるとき、必要なものは経済学に新しい分析用具を導入し、分析可能領域を拡大する以外にない。そのような可能性としてエージェント・ベースのモデル分析がある。もちろん、複雑系としての経済への接近方法は、エージェント・ベースのモデル分析とは限らない。Anderson, Arrow and Pines(1988)やArthur, Durlauf and Lane(1997a)、Schweitzer(2002)、Rosser and Rosser(2004)、さらには雑誌ECONOMICS & COMPLEXITYなどの諸論文で採用されている方法も、過程分析の枠の中で複雑さの観点を忘れないかぎり、それぞれ有用な分析方法となりうる。
第3の科学研究法
経済学が直面している事態は、もっとひろく科学一般が直面している状況と類似している。科学の方法で一番古いのは、理論(theoria)である。これは古代ギリシャに起源をもつ。theoriaは「観想」とも訳され、観察すること、じっくり考えることをいう。論理による推論は、人間の思考の中では古い階層に属する。これに対し近世にいたり、科学の方法として実験が登場する。これが錬金術などと深い関係をもつことはよく知られている。実験は、はじめ、オカルティズムと近いところにあった。これが科学の方法として確立するには、数世紀の時間を要している。近代にいたり、理論もまた革新された。物理理論の発展は、解析幾何学と微分積分学という新しい数学の開発と密接に絡み合っている。
ガリレイ以来の近代科学は、理論と実験の2つの方法の上に立つことはよく知られている。とくに現代物理学では、理論家たちが大胆な仮説を提出し、実験との対比によってそれらをひとつに絞り込むという形で理論が進んできた。しかし、現在、理論と実験の二つに加えて、新しい科学研究法が浮上してきている。それが数値実験ないしコンピュータ実験という方法である。この方面で特に進んだのが化学である。化学では、理論的推測と実物による実験に加えて計算化学による検証があって初めて完全な論文と認められるとまでいわれる。
コンピュータの記憶領域の拡大と高速化とが従来はできなかった多くの計算を可能にした。これらは数値実験とも言われるが、現実には実験できないような状況・設定においてなにが起こるか研究するためには、現在では欠かせない方法となっている。「現実には実験できない」状況・設定はたくさんある。数十年を超える長い時間がかかるもの、費用がかかりすぎるもの、調べるべき組み合わせが多数ありすぎるもの、実験では捉え切れない短期的な変化などである。
従来、社会科学には実験がないといわれてきた。失敗に終わった計画経済のような人類の運命をかけた実験がなかったわけではない。実験経済学がカバーできる範囲は、そう広くはない。経済で通常の意味での実験を大きな規模で行うことは難しい。こうした状況においても、コンピュータによるシミュレーションは可能な場合がある。コンピュータ・モデルは、必要なメカニズムが抜け落ちていても、それ自体としては検証するすべをもたない。シミュレーションが現実の実験や理論の代わりになることはありえないが、これまで実験や理論による分析の及ばなかった状況・設定を研究する大きな可能性をもっている。とくに経済学では、主体の異質性・変数の多さ・変化の複雑さなど、数学的分析に乗りにくく、避けて通らねばならなかった過程や機構が多い。経済学は、数学という分析方法の桎梏を脱ぎすてて、新しい方法・分析用具を開発すべきときである。
従来のコンピュータ・シミュレーションには、経済機構の模擬というにはあまりにも迂遠でしかも単純なものが多かった。手続き的なコンピュータ言語では、大規模なシステムを専門家以外の人間が組むことは困難であった。JAVAのようなオブジェクト志向の言語が開発され、広範に使われるようになり状況は変わりつつある。コンピュータ・シミュレーションという第3の科学研究方法を、いまや経済学として開発研究するときがきている。そのもっとも有望なものは、少なくとも現時点では、エージェント・ベースのシミュレーションでありモデル分析である。この点では、サンタフェ研究所も、ほぼ同様の見通しをもっている(Arthur, Durlauf and Lane, 1997b)。
エージェント・ベースのモデル分析
エージェント・ベースのモデルの構成方法等については、生天目(1998)に譲る。この方面でのひとつのマニフェストとして出口弘(2000)およびDeguchi(2004)があり、実際的に展開した事例として和泉潔(2003)がある。エージェント・ベースのモデル分析を実際に展開するのは、大規模なプログラム作成が必要となるなど、経済学をまなぶものには容易ではないが、U−Mart研究会から近く発刊予定の2冊は、経済的な解説からシステム設計までを詳しく解説したものであり、付録のCDを利用することにより、人間を含む実験も可能である。
エージェント・ベースのモデル分析には、他の方法では実現できない多くの長所がある。それらの中でも重要な特質として以下の利点が挙げられる。
@プログラム行動
エージェントの行動は、プログラムで書かれている。モデル分析では、多数のエージェントの相互作用を問題にするから、個々のエージェントの行動様式として、計算負荷のかかる最大化計算などは通常は組み込まれない。比較的簡単なプログラムで書かれた定型的な行動が採用されている。意識しなくても、おのずと合理性の限界が考慮される。
A異質なエージェント
異なる特性もつエージェントの相互作用を数学的方法によって分析することは容易ではない。方程式は多次元のものとなり、均衡などの特異点を除いて解析はほとんど不可能である。コンピュータをもちいる分析では、多様なエージェントを組みこむこと、それらの相互作用を追跡することは難しいことではない。
B過程分析
コンピュータを用いて時間経過を追うことは簡単である。プログラムを組む上では、諸変数の決定関係は明瞭であり、循環的な因果関係は排除される。分岐やそれに基づく構造化も、時間ステップを追う分析では、特別な困難なく実行できる。
C行動の進化
ホランドの遺伝的アルゴリズムは、突然変異と交差の二つの操作により、クラシファイヤーを進化させている。行動の基本形は、クラシファイヤーと同型であり、行動の進化をモデル内に取り込むことは可能である。こういう枠組みの中でなければ、行動と状況とのミクロ・マクロ・ループを観察することはできない。
Dストーリー分析
与件に適切な変化をもたせることにより、時系列にストーリーを持たせることが可能である。
Eメカニズム理解
プログラムを組むためには、相互作用の機構が明らかしなければならない。その機構を変化させることの効果も見やすい。
F多層的調整
変数の変化するリズムを適切に与えることにより、諸変数の多層的な調整を組込むことができる。
G制度の比較研究
複数の代替的制度があるとき、同じ条件下でそれぞれの制度がどのような結果をもたらすか比較できる。
このように見てくると、複雑系経済学の明らかにした経済過程の特質はほとんどすべて実現的できる。エージェント・ベースのモデル分析以外に、このような特質をもつ研究用具を創造することは、現時点では難しい。これがエージェント・ベースのモデル分析にそのユニークな地位を保証している。
今後の課題
問題は、結果として得られる時系列があまりに多様で、そこからどのような意味を汲み取るかが容易でないことにある。エージェント・ベース・モデルの実験に対する批判として、「ヤッコー」というものがある(和泉、2003)。「やってみたら、こうなった」という結果は容易に出てくるが、その結果からいくらかでも経済について理解を深める知見が生まれているのか、という疑問である。もし得られた結果がなんら新しい知見や理解をもたらすものでないなら、エージェント・ベースのモデル分析は、いくらか複雑なおもちゃで遊んでいるだけだという批判をかわすことはできない。
エージェント・ベースのモデル分析は、従来の数学的定式にくらべれば、はるかに自由度があり、行動や相互作用についても現実的な設定が可能である。エージェント・ベースのモデル分析は、モデル構築よりも、結果の解釈において困難に遭遇している。それは従来の研究方法にはない種類のものである。与件として与えられる自由度は高く、そこから得られる時系列は変化に富んでいる。辛抱強く実験を続けていけば、いつでも期待するシナリオに近い時系列が得られるといったことにもなりかねない。
このような問題点があるものの、エージェント・ベースのモデル分析は、従来用いられてきた分析枠組みに比べれば、経済現象を分析・研究するのにはるかに適した研究方法である。コンピュータ実験の結果を解析する方法が確立されるまでには、まだ長い模索が必要とされよう。しかし、方法に関する理解は、抽象的な議論により解決できるものではない。具体的な実験プロジェクトを計画・運営する中で成功や失敗を重ねることと並行して考えていく以外にないであろう。実験が科学の方法として確立されるまで長い時間が必要であったとおなじく、エージェント・ベースのモデル分析も、それが科学の方法として確立するにはなお長い時間が必要と考えなければならない。
[補注]
(1)"Complexity in Economics"googleで検索すると644件にヒットする。"Econ0omics of Comlexity"は63件、"Economics of complex systems"は34件であり、日本人の作成したサイトが半分以上を占めている。 2004年9月12日現在。
(2)Uexkullの後、かれの思想を受けてbiosemiotics(生物記号学)という学問分野が生まれている。今後の発展を注目しなければならないが、現在のところ「記号」作用に焦点が集まりすぎている印象がある。[Biosemiotics] http://www.ento.vt.edu/~sharov/biosem/
(3)この定理およびその証明は、2002年11月までに著者により発見され、著者の講義などで紹介されている。公刊物で発表されるのは、この論文が最初である。この定理の工夫は、所有ベクトルの成分が0である場合になおかつ交換が可能となる条件をいかに与えるかにある。
(4)証明は、難しくない。ふたつの凸錐C(a),C(b)が原点を除いて共通部分を持たないから、分離定理により、両者を分割する超平面Σがある。このとき、Σへの法線ベクトルsが存在して、C(a)に属する任意の縦ベクトルuについて<s,u>>0、C(b)に属する任意の縦ベクトルuについて<s,u><0となる。このとき、 a'=a+s、b'=b−s とおけば、<a',va> > <a,va> かつ <b',vb> > <b,vb> となる。じっさい、vaがC(a)に属することから <a',va> = <a,va>+<s,va> > <a,va>。第2の不等式も同様に示せる。
もしベクトルa、bが正のベクトルならば、ベクトルsの大きさを適当にとれば、ベクトル a'=a+s、b'=b−s はともに非負ベクトルとなる(必要ならば、sに小さな正の数εを掛ければよい)。ベクトルsを二つの非負ベクトルの差s(+)−s(−)となるよう分解しよう。このとき、甲から乙にs(−)を委譲し、乙から甲にs(+)を委譲する交換により、甲の所有ベクトルはa'に、乙の所有ベクトルはb'となり、それぞれva、vbにより評価してより高い値を得る(これが系の場合にあたる)。
問題は、ベクトルa、bがある財について0となる場合である。ここで、C(a),C(b)が直交双対凸錐を含むという条件が効く。この詳細は、WEB上に掲載する。
(5)最小生産価格の存在定理は、他の文献では「代替定理」「非代替定理」などと呼ばれている。しかし、ここで重要なことは、技術が代替するかどうかではなく、一定の上乗せ率のもとではすべての財についてさいょうの価格を実現するような技術の体系が最低限ひとつ存在することである。
(6)共進化(coevolution)としいう表現がしばしば用いられるが、この語の正確な意味は進化する二つのものの双方が、他の存在を前提に、同時的進化することである。これに対し、ミクロ・マクロ・ループで問題となるのは、状況一般とある進化するものとの相互規定的な発展であり、用語としてく区別することが望ましい。
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