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哲学カフェに関する本
クリストファー・フィリップス『ソクラテス・カフェにようこそ』
森丘道訳、解説 松葉祥一、光文社2003年6月30日発行。
- ソクラテス・カフェとは、皆に開かれた哲学的なディスカッションの集まりのこと。教育者でフリーライターの著者が立ち上げた「人生」を語る運動、ソクラテス・カフェのライブ記録をまとめる。
【著者紹介】教師、フリーライター。Society for Philosophical Inquiry(SPI)設立。様々な場所で「ソクラテス・カフェ」を開催。
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マルク・ソテーの『ソクラテスのカフェ』とほとんど同じ名前なので、「翻訳かな」と間違えるかもしれない。じつは、これは合衆国の各地で哲学カフェを開催するのを応援しているNPOの主宰者が書いたものです。「ソクラテス・カフェ」という名前は、あるとき参加者から聞かれてとっさにつけた名前だと本文中にあります。
ソテーの本は、一冊目は「哲学カフェ」の生まれたいきさつ、2冊目はソテーの考える哲学問題が中心ですが、フィリップスのこの本は、さまざまな場所・さまざまな機会にもたれた哲学カフェの模様がかなり忠実に紹介されています。著者は、ソクラテスの対話を若いプラトンが聞いていて、長い時間の後、頭の中で再構成したのと同じ手法を使ったといっています。
フィリップスが取り上げている「問いかけ」は、とても身近なものです。彼の活動は、哲学をみんなのものに取り戻す運動です。実験哲学カフェは、日本で哲学カフェが成立するか実験するという意味会いをもって始まりました。他の場所でも、いろいろな試みがあり、哲学カフェをやってみたいと考えている人はたくさんいるでしょう。そういう人がいつももつ躊躇は、「実際にはどうやったらいいの」という疑問です。この本は、そういう人にも大いにヒントになると思います。(ys)
この本については、多くの人が紹介・感想文を書かれています。以下に、そのいくつかを紹介します。部分的な紹介ですので、全文は各項目をクリックしてよんでください。
bbsよりよき世界を求めて
- にょろさんによる紹介 2003/08/31[たくさん載っているので下の方まで探してください。]以下、解説より
ソクラテス・カフェというのは、「みんなに開かれた哲学的なディスカッションの集まり」のことです。
一七世紀のロンドンで誕生したコーヒー・ハウスは、市民が平等な資格で出会い、世論をつくりだしてゆくための場という役割を果たしていました。そこから、新聞や、政党政治、保険などの制度が生まれたのです・・・哲学カフェは、そうした役割の一部を果たすことができます。そこで議論されるのは、必ずしも政治的なテーマではありません。しかし、参加者自らが議論を作り上げるプロセスに関わっていることを自覚し、集団で議論することを学べます。また、権威にとらわれず、根本から問い直すことができます。<略>フランスの社会学者エドガール・モランは、次のように述べています。現在、エリート官僚たちが、問題を細分化して、自分たちの結論を押し付けてくるのに対して、「哲学カフェは、正当で必要な反応を示し」、「市民の哲学」を作り出すための議論の場になりうる、と。」
私は、日本でこそソクラテス・カフェが必要だと思います。よく言われることですが、日本の場合、一度も市民社会が形づくられませんでした。その大きな理由の一つは、いくつかの幸運な例外を除いて、コーヒー・ハウスのような公共空間が存在しなかったからであり、ディスカッションを重視する教育が行われてこなかったからだと思います。その結果、個人と国家をつなぐ装置がなく、個人は国家を「恐るべき鈍感さ」で受け入れ、場合によっては逆に「公的なもの」と国家を同一視する国家主義に突き進むことになりました。
今、必要なことは、公共性を市民の手に取り戻すことであり、そのための公共空間を確立することだと思います。そのためにソクラテス・カフェは大きな役割を果たすことができるでしょう。
Reading Diary 2004年2月26日(木)
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「ソクラテス・カフェはなにも別にカフェで開かれなくたって、少しもかまわない。どこであろうと、何人かの人が、いや、たった一人だけだって、とにかくそこに行って、みんなにあるいは自分自身に、哲学的な問いかけをしてみよう、と思ってやって来るなら、そこがソクラテス・カフェになるのだ。ダイニング・ルームのテーブルだろうと、教会だろうと、コミュニティ・センターだろうと、山のてっぺんだろうと、老人ホームだろうと、ホスピスだろうと、学校だろうと、刑務所だろうと、高齢者のためのセンターだろうと、どこでも良いのだ。(中略)もっとほんとうに、純粋に『哲学を知りたい』、と望むその場所で。自分一人でも或いは何人かのグループでもいい、問いかけを重ねあって自分自身を哲学的に探求したい、と思ったその場が、どこでも、ソクラテス・カフェになるのだ」そうです。
「人はなぜ死ぬの?」「死んだらどうなるの?」「どうしてこの世には男と女がいるの?」こんな疑問、幼いころに誰だってもってなかった?私は、「人はいつか死ぬのになんで生まれてくるんだろう?」って思ってましたよ。だって生まれてきたからには、必ず1度は死を経験しないといけない。そのときは、待ちこがれていた遠足の日が、いつのまにかすぐにやってくるように、意外に早くくるのかもしれない、って考えたら怖くてたまらなかったから。でもそんな疑問を母親なんかにぶつけたら、なぜだか叱られてましたね。「答えきれないからじゃないの」って思ってたけど、いつの間にか疑問をもつこと自体を封印するようになっていました。
小学校高学年のとき、何の教科だったか忘れたんだけど、目的地までの道順を教えるっていう問題がありました。答えは「東にまっすぐ行って。信号機があったらその道を北に進み、・・・・」という具合に答えなきゃあいけなかったんだけど、それより「四つ角を右におれて・・・」という方がわかりやすいと思って方角を使わずに答えたら、だめだと言われました。「でも、この方が私ならわかりやすい。実際は、地図を使って説明するわけじゃないから」と反論したら、その先生は烈火のごとく怒られました。そして、その時間の最後に「このクラスには、人の意見を聞けない者がいる。そんな者がクラスにいたら、そのクラスは絶対まとまらない」と言われたのです。その先生は、その日欠席されていた担任の先生の代わりに来られていた先生なのだけど、私は自分の人間性が全否定されたようで、とっても悲しくてたまらなかった。私はただその答え方がなぜいけないのかを、納得がいくように説明してほしかっただけなのですけどね。
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[HP作成者注]こういう先生がときにいるのですね。自分の考えだけが正しいと思っている先生って、知識はもっているのですが、ほんとはよくわかっていないのです。科学者に一番重要な資質は、自分の考えが間違っていないかどうか疑うことだと考えます。これが、また民主主義の基礎でもないでしょうか。
日本人は論理的思考が苦手と言われるのは、このあたりに問題があるんじゃないかって思います。理屈っぽい人って、あんまり歓迎されないものね。でも、「何のために生きるのか?」「生きるってどういうことなのか?」「愛するってどういうこと?」「愛って何?」そんなことをちゃんと考えておかないと、仕事や、人間関係なんかで行きづまったとき、身動きとれなくなるよね。もちろん、はっきりした答えはでないだろうし、答えはひとつじゃないんだろうけど。
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