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「エコノミストの読書日記」6 連載89

複雑系としての金融市場

塩沢由典(大阪市立大学創造都市研究科長)

 一般均衡理論の創始者であるワルラスは、パリの証券取引所をよく組織された市場と考え、それをモデルとしてかれの均衡理論を考えた。このことは彼の主著にも書かれていてまちがいない。しかし、均衡理論が株式市場や為替市場のような変動の激しい金融市場の理論として適切かどうかということは、まったく別の次元の話である。

 需給均衡理論が株式市場の価格理論として正しい唯一の場面は、「板寄せ」と呼ばれる価格付けの手続きを記述している点である。たとえば、東京証券取引所では、毎日の取引開始にあたって、顧客からの売り買いの注文を「板」に整理して、需給の一致する価格に始値をきめる(どこでも需給が一致しなかったり、複数の価格で一致する場合の値決めの約束もあるが、そうした詳細にはここでは立ち入らない)。この板は、簡単にいえば、需要曲線・供給曲線を描いたもので、その交点の価格が均衡価格である。ここまでは、均衡理論の記述に齟齬はない。問題は、その後である。

 均衡理論は、価格の変動を需給の変動が起こるからと説明する。もちろん、そこに異論はない。しかし、株式の需要・供給あるいは通貨にたいする需要・供給は、どのように変動するのであろうか。この点になると、均衡理論は、ほとんどなにも説明しない。需要が増大して価格が上昇するとか、供給が過剰になり価格が下落するといった説明も、金融市場では成立しないばあいが多い。通常の価格理論では、ひとびとは価格の高低に応じて需要量・供給量を決めるとされる。しかし、株式市場では、株価の絶対的高さにのみ反応して、買い注文・売り注文が出されるわけではない。

 株の売買でしばしば重要な動機となるのは、投機である。株価が高くても、もっと値上がりすると考えれば、買い手は増える。値下がりしそうなら、売り手が増える。つまり株に対する需給は、株価の高低よりも、その変動予想に依存している。投機動機がつよく働くという点では、為替市場も同様である。

 投機動機の存在が金融市場を波乱の多いものにしている。株価や為替レートは、均衡理論が示唆する「ある適正価格の周りに変動する」ものとはまったく違ったストーリーを展開する。

 一番わかりやすい事象は、バブルとその後の暴落である。このメカニズム自体は、さして難しくない。株式がしばらく上昇を続けると、ひとびとの間に株価上昇に関する強い期待と確信が形成される。それが株式市場への資金の流入を呼び、株価を押し上げる。それは人々の確信を強化し、より多くの人がこの確信を共有するようになる。株価はさらに上昇し、ひとびとはさらに買い進む。これは株式を媒介とする「ねずみ講」である。新たな参加者と資金が増え続けるかぎり、株価は上昇を続ける。しかし、いつかこのゲームには破綻が訪れる。資金流入が途絶える。新規参入者が減少する。期待が株価上昇速度を追い越して幻滅が生ずる。不安心理が発生する。このどれが起こっても、株価上昇は停止する。期待を裏切られたひとびとは売りいそぎ、暴落が発生する。

 バブルとその崩壊は、オランダのチューリップ熱(1637年崩壊)以来、多くの国でなんども経験されている。1920年代のアメリカ合衆国の株式ブームと29年の暴落は、1930年代を通して世界経済を不況に追い込んだ。1980年代後半の日本の土地と株式のバブルは、10年も続く長い不況の原因となった。1997年のアジア経済危機は、それ以前の投資ブームが原因である。1987年10月のブラックマンデイのように暴落率の大きかったにしては、実態経済への影響の小さかった例もないわけではないが、金融市場のバブルとその崩壊は、われわれの生活を直撃するきわめて重大な事象である。

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 残念ながら、経済学および金融理論は、このバブルとその崩壊という重大な現状を十分に説明してこなかった。アジア危機に際しては、2重均衡などいった概念が持ち出されて、高い均衡から低い均衡への飛躍といった説明がなされたが、飛躍自体がどのようにおこるかを説明するものではなかった。

 これに対して、近年、物理学者たちが金融市場に興味をもち、「経済物理学」と呼ばれる分野が発展してきた。物理学たちが解明できることをしつくして、経済に目をつけたという「お家の事情」もあるが、これまでの経済分析とは大いに異なる分析と理解が生まれつつある。統計物理学の最新の用具を駆使して切り込んできているので、その成果や理論、分析方法を理解するのは容易ではないが、経済学の本体に大きな影響を及ぼす可能性がある。経済学を学ぶものには目を離せない領域である。

 といっても、この方面の専門雑誌を読み続けるのは容易ではないし、片手間で全体像がつかめるわけではもない。そこで要請されるのが、学問の先端状況を説明する「解説書」である。

 自然科学では、「科学ジャーナリスト」という人たちがいて、学問の先端状況を専門外の人にわかるように説明してくれる。こうした努力は、しばしば「通俗化」として高く評価されないが、じつは学問の進歩に大きな意義をもっている。専門家が進んだ現在では、科学者といえども、専門外の分野での大きな進展を理解するには、科学ジャーナリストの媒介によることが多いからである。経済学でも、事情はよく似ている。先端的な成果を専門家以外のひとにわかるように解説することは、学問の進歩の必要条件である。このような本が経済物理学にも現れるようになったのは喜ばしい。

 ディディエ・デネットの『[入門]経済物理学/暴落はなぜ起こるのか』は、経済物理学の現在を展望するのに優れた「通俗書」である。地球物理学の出身者らしく、理論を一般的に説明するにとどまらない。過去・現在の多くの事例を渉猟しつつ、新しい概念を導入し、読者を説得し、理論を展開する手際は、見事という以外にない。本書には豊富な経済の事実が引かれており、当てはめやすいところに、ただ理論や用具を当てはめてみたというのでない本格さを感じさせる。

 高安秀樹・高安美佐子の『エコノフィジックス/市場に潜む物理法則』は、経済物理学の日本における先導者の手になるコンパクトな解説である。巻末には、25ページに渡って基本用語の解説がおかれているのも親切である。

 高安ふたりの本は、理工系・経済系の学生・大学院生向けに書かれており、説明も簡潔でデネットの本より読みやすい。ただ、きれいに切り取られた現象のみを扱っている感じがしないではない。複雑で多様な経済に経済物理学がどこまで切り込めるか、迫れるか。こうした関心の方には、大部ではあるが、多くの事象に取り組んだデネットの本を読んだほうが納得できるかもれしない。

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 金融市場の価格変動に対する現代的アプローチは、経済物理学にかぎられない。実際の市場をより実際に近い形でシミュレートすることで、金融市場の特性に迫ろうとする試みも見られる。マルティ・エージェント・シミュレーションと総称される方法であるが、最近は日本から世界の群を抜く注目すべきものが現れている。和泉潔の『人工市場/市場分析の複雑系アプローチ』である。和泉は認知心理学出身で、現実のトレーダへのインタビューや4年間にわたる新聞情報のデータ化を基礎として、1995年の円バブルの崩壊をある確率で再現するのに成功している。

[取り上げた本]

(1)ディディエ・ソネット『[入門]経済物理学/暴落はなぜ起こるのか』PHP研究所、2004年3月、2800円。

(2)高安秀樹・高安美佐子『エコノフィジックス/市場に潜む物理法則』日本経済新聞社、2001年12月、2200円。

(3)和泉潔『人工市場/市場分析の複雑系アプローチ』森北出版、2003年7月、3500円。


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