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朝日・文化

戦後とは何だ 下

失われた「理想の力」

東京 2002年8月9日夕刊 10面

塩沢由典(しおざわ・よしのり)
大阪市立大学教授      .



 わたしは1943年に生まれた。しかし、いくら記憶をさかのぼっても、戦争直後の風景しか思いだせない。

 物心ついたころ、家の裏庭にはまだ防空壕があった。それは格好の隠れ家だったから、それが取り壊されることになったときには、ひどく惜しい気がした。食料配給が続いていて、よく母と一緒に配給の列に並んだ。父が帰らない日の夕食は、ほとんど水団(すいとん)だった。かぼちゃの水団はおいしかった。

5・6歳も年上の人に話を聞くと、敗戦で社会の思想が大きく変わり、そのことに衝撃を受けたという。戦後に小学校にはいった私たちの年齢では、もはやそんな感慨もなく、戦後は所与のものとしてあった。どうやら私たちは、戦中と戦後の断絶を経験しなかった最初の世代に当たるらしい。

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 この世代が政治的に登場したのは1960年代だった。安保、キューバ危機、ベトナム戦争、中国の文革。激動の10年間だった。1968年には、プラハの春、フランスの5月、アメリカの反戦運動。日本でも翌年に続く大学紛争があった。文革の標語「造反有理」は、日本でもフランスでもアメリカでも、時代の気分の一部であった。

造反してどうするのか。なにか変えたいという若者固有の気分とともに、まだ社会には理想を実現しようという熱情があった。世界平和、民主主義、自由、社会主義、そして人間はだれでも平等だという思想。こうした夢を実現しようとする強い想いがあり、理想がひとびとを動かしていた。

 現在も、夢と理想はあるかもしれない。しかし、現在、理想の力を信じている人はごくわずかしかいない。理想が力を失っただけでなく、理想には社会を変える力があるという信念そのものがしだいに失われた。戦後が失った最大のものは、理想の力を信ずる心ではないだろうか。

 わたしの専門の経済学の分野でも、計画経済、ケインズ政策、福祉国家、開発主義が力を失っていった。趣旨・目標・起源の違いにもかかわらず、これらには共通の性格がある。それらは、結局は国家の力・組織の力によって、目指すところを実現しようと考えていた。理想を掲げて、優秀な組織人が国家の負託にこたえてプログラムを組み、実行する。それが効率的で、結果としてひとびとの利益になるという考えていた。

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 わたしが経済学を専門とするようになったのは1970年代であるが、わたし自身ほとんどこうした枠組みの中で考えていた。ソ連経済の非効率は知っていたが、それが原理的に機能しないものとは思わなかったし、現にそこそこの成果を示していた。ケインズ政策・福祉国家・開発主義も、そこそこ機能していた。もっと改善すれば、かなり満足なものになる。こう考えていたが、それは経済の現実を知らない考えだった。

 70年代には、しかし、時代の思想を逆転させる動きも始まっていた。その多くは現実主義と呼ぶべきものであった。ケ小平さんの改革開放とゴルバチョフ書記長のペレストロイカ、レーガン大統領の減税政策、サッッチャー首相の民営化と規制緩和、インドのナラシムハ・ラオ首相の新経済政策。その後の20年間に起きた重要な政策転換は、それぞれ計画経済、ケインズ政策、福祉国家、開発主義の修正を図ったものであった。

 経済のような複雑なものを一元的な組織で管理・運営することには大きな限界があった。少数者の英雄的な努力よりも、個々の工夫や改革、革新の積み重ねの方が経済の発展に寄与する。市場経済は、それを可能にする仕組みであった。理想主義から現実主義への転換は、こうした認識の深まりの結果でもある。

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 小泉首相の改革も、基本的には、こうした流れに乗るものであろう。しかし、新保守主義と総称されるこうした経済思想にも落とし穴がある。1990年代後半のアメリカの好景気は、ITとともに、金融市場のバブルにも支えられていた。エンロンやワールド・コムの破綻は、象徴的事例だ。市場経済はその参加者たちの強い倫理観を前提にしている。小泉改革が周回遅れの試みに終わらないことを願う。

 いまは、新しい理想主義が要請されている。現実を踏まえた理想の力が必要とされている。拝金主義では市場経済は支えられない。さいわい、経済分野では、ベンチャー・コミュニティビジネス・NPO(非営利組織)など、新しい経済活動の担い手が生まれつつある。まま誤解があるが、ベンチャー起業家の多くは金儲けが主目標ではない。新しい技術やサービスを世の中に広めたいのだ。かれらは大政治思想では動かないが、等身大の理想と使命感とをもっている。理想の力を信ずる人たちがまた少しずつ増えてきている。戦後がしだいに失った理想の力に今一度希望を託してみたい。



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塩沢由典

しおざわ・よしのり 長野県生まれ。京都大学理学部で数学を専攻。「ベトナムに平和を!京都集会」(京都べ平連)の反戦運動や、雑誌「思想の科学」の活動に参加した。フランス留学中、英国で活躍した経済学者スラッファや、フランス構造主義の哲学者アルチュセールの影響を受け、経済学に転じた。89年から現職。
 数理経済学を研究する中で、需要と供給の一般均衡をうたう主流派経済学が非現実的な諸仮定に基づいていることを反省し、複雑な環境における人間行動を複雑(な=>)さの視点から視点から捉える「複雑系」の考えに到達した。進化経済学会副会長。関西ベンチャー学会会長を務め、新産業の育成にも携わる。著書に『市場の秩序学』『複雑さの帰結』など。近著の『マルクスの遺産』では、マルクス経済学を負の遺産と受け継ぎ、新しい経済学の構築に取り組むよう提唱している。



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