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サミュエル・ボールズのポスト・ワルラシアン・アプローチについて

制度と進化のミクロ経済学

塩沢由典・磯谷明徳・植村博恭訳、NTT出版、2013年7月
Samuel Bowles Microeconomics: Behavior, Institutions, and Evolution.
Hardcover: Princeton University Press 2004.
Paperback: Princeton University Press 2006.

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批評者  塩沢由典 2015.1.25現在  .


1. 全般的評価と本批評の目指すもの

この本に対するわたし自身の評価は、きわめて高い。新古典派主流から距離を取ろうとする経済学者の書いた(大学院レベルの)「ミクロ経済学」の教科書として、その内容のユニークさ(独創性)、体系性、分析の緻密さの3点において、本書は群を抜いている。すくなくとも、これに匹敵するものをわたしは知らない。(日本の)経済理論学会が本書を(『不平等と再分配の新しい経済学』とともに)2014年度の国際ラウトリッジ賞としたのは妥当な判断と考える。わたしは本書を高く評価する。だからこそ、長い間かけて、日本語に翻訳し、日本の読者にも広く読んでもらおうとしてしている(翻訳者の怠慢を棚上げしていえば、9年近くかかった)。わたしを含む新古典派主流から距離を取ろうとする経済学者は、すべて本書の分析とその水準に学ぶべきであろう。そうでなければ主流の経済学との対抗関係において、主流経済学を乗り越えることはできない。

しかし、以下に書くのは、この本に代表されるポールズの経済学あるいは社会科学に対する構想の批判である。その批判は、ボールズが本書で分析した内容がまちがっているといったものではない。訳者として、ボールズのモデルについてはわたし自身すべて責任をもって検算した。見落としその他があると思われるが、ボールズの分析の論理を追えなかった個所は1個所しかなかった。他にも、小さな見落としや過誤は、もちろんいくつもあったが(それらについては、訳者自身が誤謬を犯す危険をいとわず訳者注として補足した)、全体の論旨を損なうようなものではなかった。したがって、置かれた前提のもとに展開されている論理・論証については、異論を唱えることはできない。それにもかかわらず、わたしは全体としては、本書に対して、きわめて批判的でもある。それは、本書が教科書としてとして書かれたことに関係する。

教科書とは、自分の研究成果を発表する場ではない。(大学院生であろうと)あたらしく経済学を学ぼうとするものにとって、経済学とはなにか、その全体像を提示すべきものである。わたし自身、教科書を書いたことはなく、現時点で書けるとも思わない。書いてみたいという希望はもっているが、72歳の現在、可能性は薄い。わたし自身が教科書を書くという責任をとることなく、ボールズの教科書をそれが教科書であるという理由で批判することは、公正な態度とはいえないとも考えられる。しかし教科書は著者だけのものではない。経済学を学ぼうとするもの全体にとっての公共物でもある。とくに、これが主流から距離を取ろうとする経済学者あるいはそれを目指す志願者にとって、本書のもつユニークな位置と本書が置かれている経済学の状況を考えるとき、この教科書に欠けるもの、あるいはこの教科書に明示的に取り上げられなかったこと、あるいは代替案が提示されなかったことがもたらす可能性について声を挙げざるをえない。

現在のミクロ経済学のほとんどの教科書は、マーシャルとワルラスの伝統を引く「ワルラシアンの経済学」すなわち新古典派の経済学で書かれている注1。ボールズのこの教科書は、この伝統から離れ、経済学を刷新しようとする意気込みに満ちている。それがこの教科書をユニークなものとしている。しかし、これが大学院生向け教科書であることを考えると、本書に欠けている部分あるいは既成の教科書に任せてしまっていると思われる部分がどのようなものであるかを考えざるをえない。本書に書かれた理論と任せてしまった部分との関係が問われる。学生たちは、この教科書を学ぶ以前に、他のミクロ経済学を学習しているであろう。大学院で新規に経済学を学ぶ場合であっても、本書に欠けている部分は、他の教科書を参照して自己の経済学を形成するであろう。そのことを考えると、本書に書かれなかった部分に対して、本書がどのようなメッセージを暗に送っているかが重い意味をもつ。本批評のような批判ぬきには、新規入門者(あるいは既成の専門家まで)が経済学の中核理論としてワルラシアンの経済学を受け入れてしまう危険性が高い。

注1:ボールズ自身は、「新古典派」という名称の多義性と曖昧さとを嫌って「ワルラシアンの経済学」という表現を用いているが、本批評では両者は基本的に同一のものとみなしている。

本批評は、そのような危険性をあらかじめ指摘し、新古典派主流から距離を取ろうとする経済学者として次に書かれるべき教科書の全体像を考えようとするものである。批判の内容と表現は強いが、批判のための批判ではない。


2. ポスト・ワルラシアンのアプローチ

ボールズが『制度と進化のミクロ経済学』(以下『ミクロ経済学』)あるいは他の著作の中で、みずからの追求目標として掲げる方向をポスト・ワルラシアン進化社会科学 evolutionary social science と考えていることはまちがいない(p.457)。ここで「ポスト・ワルラシアン」と「進化社会科学」の二つの関係がまず問題になるが、ここでは同格ないし等号で結ばれたものと缶変えてよいであろう。「進化社会科学という用語を典型的なワルラシアンのパラダイムの特徴的な内容に対する代替的諸理論に言及するときに用いる」(p.457)とボールズが言っているからである(p.457)。

ここではまずボールズが考える「ポスト・ワルラシアンのアプローチ」について考えよう。単数系での
進化社会科学については、後に議論することにする。

『ミクロ経済学』のなかには、「ポスト・ワルラシアン」は、索引を参照すると、5回言及されている。そのうち、最初の3つは単なる言及であり、実質的な議論は最後の2箇所、すなわち第4部「結論」の第14章「経済的統治:市場、国家、共同体」に限られる。そのうち、457ページでは、ポスト・ワルラシアンのアプローチについて、次のように言及している。

この章では、わたしはポスト・ワルラシアンのアプローチを採用し、経済統治の現代的挑戦に取り組む。(中略)わたしは、3つの根源的な統治構造を選びだす。共同体、国家、市場の3つである。(中略)この扱いが示唆的なものであって、包括的なものでないことは避けようもない。

この個所を読む限りは、ボールズは、市場以外の経済統治をも分析することを「ポスト・ワルラシアンのアプローチ」と呼んでいるようである。進化社会科学を単数形で考えようという提案と結びつけて考えれば、このような考えは分からないではない。しかし、それは第×節進化社会科学の議題であるので、ここではその考察には立ち入らない。

ボールズは、第14章において表14.1「ワルラシアンのパラダイムと代替的理論」(p.458)という対比表を作成している。一方が「ワルラシアン経済学(教えられている内容)」、他方が「進化社会科学(展望されるものとして)」を10個の観点から対比したものであるが、方法論的議論は最後の対立項である「方法」説明に集約されていよう。

ここでボールズは、ワルラシアンのパラダイムを支える方法を「還元論(方法論的個人主義)」としている。かれの『ミクロ経済学』は方法論的個人主義と両立可能である(p.458)とするが、「それは個人が何をするかを全体的結果に結びつける因果メカニズムに焦点を宛てるという限りにおいて」であり、「内生的選好や文化進化の議論から明らかなように、総体的結果の個人に対する効果も...重要である」(p.458)と注意することで、方法論的個人主義を経済のある限定された局面を構成するものとしている。この点にわたしは異論がないが、ただこのような定式ないし注意に終わるのでは、方法論的議論としてまったく不充分だと考えている。その点については、後のボールズに欠けるもの1: ミクロ・マクロ・ループで議論する。

新古典派ないしワルラシアンのパラダイムのもうひとつの中心的な枠組みである「均衡」にもついても、ボールズはそれを「方法論的個人主義を表明している」(p.450)としているが、これがワルラシアン・アプローチの分析装置の核とである最適化と均衡について深い方法論的反省がないように思われる。この点は最適化と均衡の節の主題として議論する。定常性と均衡との概念的区別が十分でない点も同節の議題である。

このようにポスト・ワルラシアンのアプローチについて、それを進化社会科学と呼ぶという提唱以外に『ミクロ経済学』には、積極的な提案はない。進化社会科学についても、2個所ほど漠然とした言及があるのみである。したがって、ボールズの「ポスト・ワルラシアンのアプローチ」を考えるには、ワルラシアン・アプローチあるいはワルラシアンのパラダイムとどのように違う方向を探っているかを見る以外にない。

ワルラシアン・パラダイムについては、『ミクロ経済学』にはかなり明確な規定がある。10ページでは、それは3つの基本仮定をもつものとされ、それぞれが命題の形で表現されている。ここでは、簡単に次のように整理しておこう。

  1. 自分志向で外生的に与えられる選好を個人がもつ。
  2. 社会的相互作用は契約に基づく交換である。
  3. 規模に関する収穫逓増は無視できる。
これに対し、ボールズはみずからのアプローチを対置するが、それは3つの基本仮定を全面的に否定するものではない。「本書で展開されるアプローチでは、ワルラシアン・パラダイムと古典派経済学双方の基礎的教義の多くが保持されている」と断ったあと、次の3つの教義は保持されると指摘する(p.9)。

  1. 個人が何か行動しようとするとき、個人は何かを実現したいと努力している。
  2. 意図的行為は競争の影響によって制約されている。
  3. 非常に多くの人びとがこのような具合に相互作用するため、全体として生起する事態は典型的には非意図的なものである。
ここまで一般化して言ってしまえば、これらの主張を批判対象とするのに難しいが、問題がないわけではない。ボールズの主たる分析用具であるゲームの理論が、はたして多数者の相互作用という観点から十全のものかどうかについて議論がありうる。その点については、
分析用具としてのゲーム理論およびボールズに欠けるもの2: 価値論ないし価格理論で議論する。

下の3つの教義の範囲内で、上の3つの基本仮定を修正・拡大しようというのがボールズの基本的戦略である。

では、どのような方向に修正・拡大するのか。それぞれの基本仮定に対置して、ボールズが強調するするのもやはり3つである(pp.11-15)。

  1. 適応的かつ他者考慮的な行動
  2. 契約によらない社会的相互作用
  3. 一般化された収穫逓増
ただし、対応を考えて、順番は本に説明されているものとは変わっている。これらは、明確な対応関係をもっている。第1項「適応的かつ他者考慮的な行動」は、ワルラシアン・パラダイムの第1項「自分志向で外生的に与えられる選好」、第2項「契約によらない社会的相互作用」はワルラシアン・パラダイムの第2項「社会的相互作用は契約に基づく交換である。」、第3項「一般化された収穫逓増」はワルラシアン・パラダイムの第3項「規模に関する収穫逓増は無視できる。」に対応している。ボールズの提示するアプローチは、明確にワルラシアン・パラダイムを否定し、その基本仮定をそれぞれより一般化ししようという提案である。

ふつうに考えれば、ボールズはワルラシアン・パラダイムを乗り越えようとしているし、そのプログラムをかなりの程度に実現している意味では、かれの批判は現実的なもの・実効性のあるものである。しかし、わたしから見れば、これはワルラシアン・パラダイムの変種(variant)に過ぎない。なぜか。これが本批評の課題である。

もちろん、『ミクロ経済学』が教科書として書かれているという事実から、ボールズがこれまでの達成を超えて大きな方向性を示すことができなかった、あるいはすべきでないと考えた可能性がある。ポスト・ワルラシアン・アプローチについて、『ミクロ経済学』には何度も言及されているが、第4部「結論」(第14章「経済的統治:市場、国家、共同体」以前では、ワルラス以降の経済学の動向について一般的に言及しているだけであって、自らの考える方向を積極的に示したものではない。第4部「結論」における言及も、基本的には表14-1「ワルラシアンのパラダイムと代替的理論」という対比が中心であり、ポスト・ワルラシアン・アプローチあるいはボールズの目指す「進化社会科学」自体の積極的な開示・展望というには、スケッチ以上のものではない。

補助的に、ボールズの単著ではないが、ボールズとギンタスによるかれらの研究プログラムを語ったと思われる二つの論文(Bowles and Gintus 1993; 2000)をも参考にして、『ミクロ経済学』が目指すとしたであろう「進化社会科学」の問題点あるいは私にとって不満な点を明らかにしたい。ボールズ経済学体系の全体像を推測するためには、入門的教科書という制約があるものの、『ミクロ経済学』とほぼ同時に刊行され、かれの経済学観が反映されていると思われるBowles, Edwards, and Roosevelt (2005)をも参照する。

経済学がなにを目指すべきか

ボールズはワルラシアン・アプローチが契約の完全性(完備契約)を前提とすることを、批判の中心においている(Bowles and Gintus, 2000, p.1412)。この批判の第一の含意は、費用なしに強制可能な契約という前提が外されるとき、競争的市場における交換でさえ、古典的なホモ・エコノミクスの利己的な動機によってはなにがもたらされるかを説明しえない局面があるとされる。その具体例として、『ミクロ経済学』では、依頼人・代理人関係(第7章)、雇用関係(第8章)、信用市場(第9章)が議論されている。そこでの分析に不満があるわけではない。その分析の多くは、主流派経済学によってもアプローチされているという側面があり、その意味ではボールズ(とギンタス)の批判が真にワルラシアン・アプローチ批判となっているかいささか疑問であるが、その点については問題としない。

ワルラシアン・アプローチが完備契約を前提としているので、それを否定ないしより一般化した分析を行なうべきだという批判のいちばん弱いところは、ほとんどの場合において費用なしに契約が遂行される市場に関し、ワルラシアン・アプローチを批判できないことである。例として、商品市場を取ろう。商品の中には、買手が商品の品定めが出来なかったりして(情報の非対称性)、特別な取引形態が必要になることもあるが、そうした商品が市場経済・資本主義経済を主導してきたわけではない。より多くの商品は、人々が何度も使って(あるいは消費して)なじみがあり、質や量の同定が簡単で貨幣と引き換えに商品を交換すれば、契約の不完全性はほとんど問題にならない。よく指摘されるように、こうした交換は、基本的には匿名者の間の取引でありえる。このような売買が資本主義経済の勃興をもたらす原動力であった。市場経済の驚異は、むしろここにあるといえよう。

なぜ、このような取引のネットワークによって、世界の隅々にまでいきわたるようなネットワークが成立し、その成果として、かつては考えられなかったような経済の中にわれわれはクラスようになった。これは大きな驚異であり、謎である。資本主義経済を対象とする経済学がこの中核的な謎に迫ることができないならば、その経済学は、中心的問いを放棄しているとしかいえない。

『ミクロ経済学』には、個人の利益追求行動によっては社会の相互作用がうまくいかない例がたくさん語られている。第1部「調整と対立:生成的な社会相互作用」の諸章はほとんどそのような話題をめぐってのものである。第1章の二人の漁師の悲劇(共有地の悲劇の漁民版)、タカ・ハト・ゲームと所有権の導入(第2章)、漁師たちの悲劇の回避(第4章)、利害の対立とその調整(第5章)となど。これら諸章に提示されているように、社会的相互作用には、利己的個人の目的追求行動のみによっては、社会全体あるいは個々の行為者たち自身の目的を最適化できない状況が多数ある。ボールズの中心的主題は、このような状況をよりよい状態にシフトさせるものとして制度があること、市場経済においても、そのような諸制度なしには効率的な経済は成立しないことにある。

この主張をあえて否定する必要はないが、問題はこの主張の裏にある。経済学の解明すべき課題を制度の存在理由に限定することは、市場経済あるいは資本主義経済の中核的謎の解明を放棄するか、そうでないとしたらワルラシアンのアプローチにゆだねることを意味する。中核的謎の解明を放棄できないとするなら、ボールズ(とギンタス)の態度ないし議題設定は、匿名的交換市場という経済の中核部分において、ワルラシアンのアプローチが正しいものと認めることをも意味する。

じじつ第6章「ユートピア資本主義:分権的調整」においてボールズは、ワルラスとその後継者かつ完成者であるアローとドブルの業績に触れ、競争的均衡のパレート最適性を論じている。厚生経済学の第一基本定理は、競争均衡がパレート最適となるという命題である。本文中では、ボールズにはひとつの誤解があり、この定理がArrow and Debrew (1954)により示されたとされているが、同論文で示されたのは正確には競争均衡の存在である。競争均衡が存在するとき、それがパレート最適となることは、Arrow (1951)とDebreu (1951)において示されていたものである。しかし、これは小さな勘違いにすぎない。より大きな問題は、市場経済ないし資本主義経済の効率性をパレート最適すなわち分配効率性に求めていることである。

ボールズとギンタスは、分配の正義に強い関心を払っている。そのこと自体、わるいことではないが、その結果として市場経済や資本主義の効率性を分配の効率性でしか見れなくなっているとしたら、大きな問題である。なぜなら、市場経済・資本主義の効率性は、分配の効率性によるのではないからである。ライベンシュタインの古典的な指摘(Leibenstein, 1966)を待つまでもなく、分配効率性が経済の現実において大きな問題になるとは思われまい。かつてソ連という国があったころ、計画経済の非効率性の象徴として、農産物が利用されないまま腐っていくことが挙げられたが、資本主義経済においても、売れずに処分されていく食料や製品は尋常な数量ではない。しかし、資本主義のダイナミズムを生み出すものは、分配効率性ではない。競争に追われてイノベーションを実現することにおいてしか生き残れないという厳しさの反面が、(資本主義以前のもろもろの生産様式に比べると)驚くべき高さの経済成長を保証している。その原動力は、資本蓄積であり、技術進歩であり、生産性の上昇である。ところが、『ミクロ経済学』本文には、「資本蓄積」ということばはマルクスの引用中に1回現れるだけである(p.86)。これ以外には第11章「個人と制度の進化」に「富の蓄積」という表現が数回現れる。その他の章では資本あるいは富の蓄積の意味での「蓄積」という表現は現れない。「技術進歩」は、索引中には拾われていないが、第11章「技術変化」という表現が7回あり、そのほかに「技術進歩」が第14章表14.1内に1回現れるだけである。「生産性上昇」は、第9章「信用市場と富の制約、および資源配分の非効率性」に1回、「生産性成長」が第2章に1・2回現れるだけである。「生産性」そのものは、多くの章に現れるが、索引に拾われていないことは、この概念に対する主題的な考察がないことを意味している。

ボールズは、人々の生活水準の向上を願い、また先進国と途上国の大きな経済格差(賃金率など)に心を痛めていると思われる。しかし、人々の所得がいかに上昇するかについても、二つの地域の間になぜ大きな経済格差が生まれるかについても、説明していない。簡単にいえば、『ミクロ経済学』には、調整の失敗による低い経済成果の是正と分配の効率性に分析が限られている。

もちろん、一つの本にすべてを書き込むことはできない。『ミクロ経済学』が大学院生向けのミクロ経済学の教科書として書かれたために、これから経済学を専門に学ぼうとする研究者の卵のために、分析能力を養成することに限定したと考えることができる。「序文」には、「基礎的なモデル化能力を獲得する」ことを重視したとある(p. v)。しかし、その結果が、資本主義経済のダイナミズムとそこから起こる問題の分析よりも、(古典的および進化)ゲーム理論が適用可能な問題群に議題が限定されたとしたら、そこには小さからぬ問題がある。

「訳者あとがき」に触れているように(p.565)、ボールズは初期に「社会的蓄積構造理論」(Social Accumulation Structure Theory)の創設に関与しているが、そのような観点は『ミクロ経済学』からはまったく抜け落ちている。これはボールズが考える「ミクロ経済学」の範囲に入らないためであろうか。もしボールズが『ミクロ経済学』とは別に『マクロ経済学』あるいは他の体系を予定しているのであれば、そちらを待つ以外にない。「訳者あとがき」では、「本書にはそのような出版構想は示されていないし、その後も予告されていない」と書いた(p.570)。これは、「大学院生向け」の教科書という意味では正しいが、もうすこし範囲を拡げてみれば、ボールズのマクロ経済学ともいうべきものが書かれていないわけではない。それはBowles, Edwards, and Roosevelt (2005)『資本主義を理解する』である。これは共著であり、対象が学部学生向けの入門経済学といった性格のものである。語義説明と歴史的事実の紹介が多く、本格的な分析がなされているわけではない。

『資本主義を理解する』は、本文580ページという大冊であり、第1部「政治経済学」、第2部「ミクロ経済学」、第3部「マクロ経済学」の3部から構成されている。アメリカでは珍しい構成の経済学入門であろうが、日本では「ミクロ経済学」「マクロ経済学」に加えて「政治経済学」ないし「社会経済学」が教えられている大学が多いところから見ると、なかなかおもしろい構成である。Amazonの書評に「一年間の経済学のクラスより多くのものを学んだ」といったものがあるように(Mike H on August 16, 2006)、経済や経済学にほとんど知識のないもの向けの教科書としては内容におかいても、説明の分かりやすさにおいても良く書けているといえる。わたし自身も、経済学部と商学部で初年次の経済学教育を長く担当したが、これほどの内容を網羅することも、分かりやすく書くこともそうていできない。しかし、これが入門経済学であるという制約からか、分析の深さという面では十分なものとはまったくいえない。第15章「世界規模での進歩と貧困」で、なぜある地域は進歩し、他の地域は遅れているのかを制度のありかたから生産性(あるいは生産性上昇率)に格差が生まれる点を説明しているあたりは優れた見識であるが、生産性の水準と実質賃金率との関係は明確になっていない。利潤率と賃金率との相反関係は強調されているが、利潤が投資の原資となることに触れられていても、利潤率と蓄積率あるいは成長率との関係についてはまったく触れられていない。

最近出版されたボールズの本として参照すべきは『不平等と再分配の新しい経済学』(ボールズ、2013b)であろう。この本は、アメリカ社会に蔓延している「平等悲観論」に何とか反論したいというボールズの強い思いをコンパクトにまとめたものである。もっと書けたであろうが、このような小さな本にしたのは、より多くのひとに訴えたいという気持ちからであろう。しかし、この本は、ボールズの経済学体系のゆがみをより如実に表してもいる。過度の不平等は経済全体のコストを増加させると同時に生産性の上昇を妨げる原因となるという主張が誤っているというのではない。しかし、この本の表題が表すように、全体の基調は再分配によりより平等な社会をという呼びかけとなっている。それは結果の平等への要求であるが、そこにはさまざまな問題が付随していることは周知の通りである。同じ平等を求めるにしても、機会の平等により重点を置き、そのための制度設計を考えてもよいであろうが、ボールズの分析はどうしても結果の再配分による平等化へと向う傾向がある。

生産性上昇を重視する(ボールズ 2013b、p.45)という明言があるにもかかわらず、生産性の上昇をもたらすものが、生産過程ないし労働過程の内部にあるという視点がない点にも大きな問題がある。ボールズにとって、監視と金銭的刺激によってのみ労働者は努力水準を維持する存在である(ボールズ 2013a、第8章)。『ミクロ経済学』には、すでに触れたように、生産性上昇に関する主題的考察は希薄であるが、『資本主義を理解する』にはかなり詳しい解説がある(第15章「世界規模での進歩と貧困」の「生産性と所得」の項目)。しかし、図15.5(同、p.385)にまとめられているように、ボールズたちの眼に入っている生産性上昇の要因は、社会制度、知識、投資、労働やイノベーションへの刺激、技術などであり、労働過程・生産過程が抜け落ちている。

このような偏向は、ボールズたちの労働過程観がテイラー・システムに近いものであること(構想と実行の分離、同、p.330)や、労働と経営と関係を対立関係(アメとムチ)で捉える傾向から生まれるものであろう。制度や社会基盤が個別企業の生産性に大きく影響することはたしかであるが、それらが一定であっても、生産性とくに労働生産性が大きく上昇するものであることは、日本においては広く観察されている。現場の労働者たちは、みずから工夫して、生産方法を改善し、生産性を上げることに取り組んでいる。技術者と現場労働者の関係も、構想と実行の分離とは異なる協力関係も見られる。これらがすべてとは言わないが、こうした自発的な取組みも、資本主義企業の一場面であり、生産性上昇に対する貢献はきわめて大きい(すくなくとも無視できるものではない)。

ボールズ経済学体系の欠落は、生産性上昇に関して労働者や技術者たちの自発的な協調・協力といったアメとムチ以外の要因に目を向けていないだけではない。わたしには、ボールズが資本主義のダイナミズムとそれが生み出す諸問題(たとえば、所得格差の拡大、貧困、失業など)に数量的に迫る理論枠組みを欠いているように思われる。

格差の拡大はボールズの関心事であるにちがいない。昨年(2014年)4月以来、ピケティの『21世紀の資本』が合衆国で大ブレークし、日本でも高い関心が寄せられ、テレビや新聞、雑誌などで紹介や解説が行なわれている。いちばんよく紹介されているのは、
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すなわち、長期にわたりほとんど常時、利潤率(あるいは利子率)が経済成長率より大きいという指摘である。なぜそうなるのか、それは本当に正しいのか、などさまざまな批評が可能であろうが、格差の拡大にひとつの重要な機構を提示していることはまちがいない。しかし、ボールズの体系には、利潤率に関する議論はあっても、それが長期的にどのような運動をし、それは成長率とどのような関係にあるかを分析・検討する枠組みがない。すくなくとも『ミクロ経済学』はそれを欠いているし、『資本主義を理解する』の延長上ににそれが見えているとは思われない。ボールズは調整の失敗と契約の不完備性に注目するあまり、市場経済でふつうに起こると考えられている現象への関心が薄く、不平等や貧困への関心にもかかわらず、それをもたらす経済メカニズムを分析する理論・枠組みをもっていない。たぶん、そこは主流の経済学に任せられると考えているのであろう。

ボールズは、ワルラシアンの経済学を批判し、それにポスト・ワルラシアンの経済学を対置するが、その批判は主として仮定の狭さに向けられている。人間は、ワルラシアンの想定するような利己的で社会から独立した存在ではないし、契約は完備ではなく、契約を実効性のあるものにするには法執行権力などさまざま社会制度に依存している。この批判は正しいが、しかし弱い批判でしかない。なぜなら、市場取引の大部分は利己的な個人や完備な契約を想定しても成立するものであるからである。契約が不備で係争事件に持ち込まれるものがあるからといって、市場取引のすべてが法的判断と執行を必要するわけではない。むしろ、大部分がそのような手続きを必要としないからこそ、市場経済は一定の効率性をもつのである。裏返して考えると、ボールズの批判は、交換経済の典型的状況においてワルラシアンの経済学が妥当することを認めてしまっている。しかし、それでよいだろうか。

現在の経済学の混迷は、中核的理論は維持したまま、周辺部分の拡大を計るだけで克服できるだろうか。この点にこそ、その偉大な貢献をみとめながらも、ボールズの『ミクロ経済学』をわたしが批判しなければならない理由である。

以下の3節は、ボールズ経済学の理論全体というより、それを構成する個々の理論装置念に関するものである。個々の理論装置といえども、それらはボールズ体系の中では枢要な位置を占めている。なぜなら、以下に検討する3項目がワルラシアン・パラダイムに対する代替案としてボールズが提出するものだからである。

選好と行動について

すでに第1節「全般的評価」の中で触れたように、ボールズはワルラシアンの
3つの基本仮定に対し、代替的な3つの基本仮定を挙げる。その第一の対立項は選好を巡るものである。

選好の基本的特徴づけに関するわたしの疑問は二つである。第1は選好ないし行動の在り方としての利己的・利他的(ボールズの用語では自己考慮型たい他者考慮型)という対立の立て方にある。第2は選好・信念・行動という概念の3つ組みにある。

人間は利己的か、利他的か

ボールズは、ワルラシアン・アプローチの問題点の第1に「自分志向で外生的に与えられる選好を個人がもつ。」という基本仮定を挙げる。これに対しボールズは、選好は、自己考慮型なものとは限らず、他者考慮型であることもあり、かつその選好は社会の長期に渡る相互作用の中から適応的に選び取られたものであると指摘する。このこと自体にわたしはなんの異論もない。人間はきわめて自己中心的・自己考慮型であるが、ときに驚くほどの自己犠牲や利他性を見せる。孟子の性善説に対する荀子の性悪説などの対立も、人間の本性に関し、利己的とだけ見るか、他者を顧みる心(惻隠)があると見るかの対立と考えることもできる。これが中国倫理道徳論における千年の歴史の中心に在り続けたように、どちらと言い切れるものでないことはたしかであろう。人間は、時と状況に応じて、どちらの側面をも見せることがある。それ以上に踏み込んで、どちらであると言い切れるとはあまり思えない。

もちろん、ボールズも人間がつねに利他的・他者考慮的に行動するとは言ってはいない。その行動がつねに利己的・自己考慮型であるというワルラシアン・パラダイムの基本仮定の1つが狭いといっているだけである。ボールズたちがしばしば持ち出す最後通牒ゲームの実験結果も(第3章、第11章)、ある特定の状況において、多くの文化と民族において、純粋に自己考慮型の人間はあまり見られないことを示しているだけである。極端なワルラシアン原理主義者でないかぎり、こういうこともあると認めるにちがいない。わたしも同意見である。

問題は、ボールズたちがなぜこれほど人間が他者考慮型であることにこだわるかである。この知見は、資本主義とくに資本主義経済を理解するのに、どのくらい意義を持つものであろうか。ワルラシアン・パラダイムの基本形を与えたワルラスは、自己の価格理論をパリの証券市場のようなよく組織された市場を考慮して作りあげた。それがどの程度の妥当性をもつか、今は問題にしない(わたしは、たとえ証券市場の価格理論としても、ワルラス型の需要供給均衡理論には問題があると考えている)。証券取引所に限らず、資本主義あるいはよりひろく市場経済と呼ばれる事象のうち、即時現物の交換(売買)が理論の対象であるかぎり、そこに参加する人間が自己考慮型であるか、他者考慮型であるかは、ほとんど関係がない。このような市場においては、ひとびとは自己あるいは自分の家族あるいは自分の会社にとっての都合を考えて行動する。市場経済の強さは、ここにある。

より一般に、即時現物でない交換を考えるとき、支払いや荷渡しや品質保証を確実にするために、さまざまな経済慣行・法制度を必要としている。このとき、進んで契約を守る人間の比率が多ければ、それだけ社会全体の履行強制の費用は低下し、市場経済は効率的となるにちがいない。取引費用の低廉化は、通信技術や契約技術の進歩、低廉な法執行費用となどのほか、このような人々の社会習慣にも関係していることはほとんど明らかである。

資本主義経済成立の前提条件として、契約を守るような商習慣が大きな役割を果たしたことも十分考えられる。このような習慣がいかに形成されたか、あるいはどのようにすれば形成できるかを考察することは、いまだ機会主義的な行動の頻度の高い経済社会においては重大な問題である。グライフ(2009)は、中世の地中海世界において、ユダヤ商人たちがどのようにしてこの難題に取り組んだかの詳細な分析である。そこでは、相互監視や懲罰のネットワークが重要な契機となっており、グライフはそれをゲームの理論を用いて説明している。同様の考察は、東南アジアにおける華僑たちの商業ネットワークにも可能であろう。このような場面で、他者考慮型の行動習慣の形成は、経済過程を理解する上で大きな役割を果たすことをわたしは認める。しかし、ボールズの批判は、ワルラス体系の根幹に迫るものとは言えない。もしワルラスが生きていて、この話を聞くならば、そういう場面の分析にはわたしも他者考慮型の取引者を考えただろうと応えることに何の痛痒も感じないだろう。

自己考慮型人間のみでは調整の失敗に終わる状況(たとえば、パランプールの種まき[第1章]や漁師たちの悲劇[第4章])において、ひとびとが他者考慮型であれば問題が解決するということはできる。しかし、これは十分な解決策であろうか。このような提案で解決するのであれば、すこし賢明な村長が出て人々を説得すれば問題は解決していたであろう。そうでないから、所有権など強制力のある社会制度を設計・導入する必要があるのである。社会制度の設計においては、自己考慮型の人間を前提にしてでもうまく働く状況を作りだすことが必要であろう。すくなくとも、顔の見える範囲を超える大きな社会の問題としては、このように考えるべきであろう。

ワルラシアンの自己考慮型個人の狭さを批判して、他者考慮型人間をも含むよう社会科学の人間像を一般化することは、ボールズの分析にどのような新しい視点を与えたであろうか。すでに生産性について述べたとき指摘したことであるが、ボールズの企業組織論/労使関係論/労働過程論には、労働者の自発性と被雇用者間の協力という観点が欠けている。自己考慮型から他者考慮型への拡大を主張するなら、なぜこの面において、自発性や協力を考察しないのであろうか。それは労働生産性上昇の重要な側面を無視することである。

労働者のそのような行動は、資本ないし経営者に(広い意味で)買収された結果であるという見方があることはわたしも知っている。しかし、労働者の自発性や協力が生産性を上昇させていることは、それをきちんと認識することが労働者の側にとっても大切かつ有利な事実となることを理解しなければならない。

テイラー主義以前の労使関係では、生産性が上昇すると、経営者は、賃金を据え置いたままで、より高い目標を設定することがあったという。そういう時代においては、労働者や請負親方が生産性を上昇させるような工夫を拒否し、生産性向上への取組みに抵抗したことは良く理解できる。しかし、これは経営者や資本家にとっても、得な態度であったとは言えない。ボールズは、制度や知識、社会基盤の整備以外には、生産性を上昇させるものを資本投資としか見ていない(Bowles, Edwards, and Roosevelt 2005, 図15.5, p.385)。労働者の貢献が大きいとすれば、かれらの協力をえ、自発性を発揮させることにより、企業は競争上より有利な立場に立てる。労働者のそのような態度を奨励し、生産性上昇に対しては賃金引き上げあるいはボーナス支給という形で労働者に報いることは、利潤追求の観点からいっても損ではない。

ここ2〜30年ほど株主資本主義が力を得てより高い利潤と株価を要求しているが、企業の生み出した剰余をどのように配分すべきかは、株主・経営者・労働者のそれぞれの貢献の度合いを考慮すべきであることは当然である。ここで当然というのは、単に倫理的な観点あるいは公正の観点から言っているのではない。それぞれの貢献に報いることが、けっきょくは企業自身の発展につながる。ボールズがこのような観点を欠いていることは残念としか言いようがない。

これは単に理論枠組みの問題にとどまらない。日本では2000年以降、労働生産性の比較的大きな上昇があったが、賃金賃金の上昇が抑制されてきた。株主資本主義の思想に影響された結果かもしれない。賃金を上げる余裕がある鞍いなら、配当を増やせという株主からの発言と圧力は一時期かなり強かった。もし生産性の上昇が付加的あるいは新規投資の効果ならば、そこから生まれた付加価値の多くが資金提供者である株主に還元されるのは正当なことであろう。しかし、1998年以降、(金融保険業を除く)国内設備投資総額はほぼ原価償却費総額を下回っている。全体としていみると、新規投資というよりも多くは更新投資であったというべきであろう。もちろん、更新投資であっても、そのさい設備の改善により生産性が上がることはありうる。生産性上昇に対する資本と労働の貢献を正確に測定することは困難であろうが、労働者側の貢献があったとすれば、それに正当に報いることは企業にとっても、経済全体にとっても必要であり、かつ重要なことであろう。労働生産性の上昇に見合う賃金上昇がなかったことは、分配を考える現実的な問題としてしばしば議論されてきた*。ボールズは分配に強い関心を払うが、効率賃金と類似の観点(アメとムチ)に光を当てるのみで、その理論枠組みには労働者や現場技術者たちの貢献を評価するというもうひとつの重要な観点がなく、上のような現実的問題に切り込む論理を欠いている。

*内閣府『(平成26年度)年次経済財政報告』2014年7月、第2章「デフレ脱却への動きと賃金を巡る論点」
より一般的にいうなら、ボールズの現時点のミクロ経済学は、株主価値最大化を求める金融専門家にたいし有効に反論する理論構造をもたないというべきであろう。これは、大きな弱点といわざるをえない。ただし、この弱点は、容易に補正可能なものである。ここに述べたような事実はボールズのミクロ経済学と矛盾するものではなく、単に見落としに類するものだからである。

ホモエコノミクスを自己考慮型から他者考慮型をも含む形に一般化するというなら、労働者を監視するというテイラー主義的生産過程観を改め、より実態に近い考察を行なうべきであろう。そのことは、単に理論枠組みの問題にとどまらず、現実の経済のあり方に関する

信念・選好・行動

最適化と均衡について

分析用具としてのゲーム理論

「小さな社会の相互作用」という限界

ボールズに欠けるもの1: ミクロ・マクロ・ループ

ボールズに欠けるもの2: 価値論ないし価格理論

*これはNote: とりあえず、白紙として伏せる。noteのための *ワルラスの一般均衡モデル以外で十分な形で展開された集団レベルのアプローチはただ1つしかない。それは、... 生態系の進化ダイナミックスを描くモデルである。p.58

一般化された収穫逓増について

自己組織化、価格形成も自己組織化のひとつ 途上国が低開発にとどまるのは調整の失敗だろうか、それとも市場や資本主義がうまく機能しないせいだろうか。

進化社会科学

経済学という学問の成立根拠

参考文献

グライフ, A. (2009)『比較歴史制度分析』NTT出版。 ボールズ, S. (2013a)『制度と進化のミクロ経済学』NTT出版。原著は2004年。 ボールズ, S. (2013b)『不平等と再配分の新しい経済学』大月書店。原著は2012年。 Arrow, K. (1951) An Extension of the Basic Theorems of Classical Welfare Economics, in J. Neyman (ed.) Proceedings of the Second Berkeley Symposium on Mathematical Statistics and Probability Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1951, pp. 507-532.

Bowles, S., R. Edwards, and F. Roosevelt (2005) Understanding Capitalism: Competition, Command, and Change. Oxford University Press; 3rd edition. First ed. 1985 and second editoon by Bowles, S., and R. Edwards. Bowles, S., and H. Gintis (1993) The Revenge of Homo Economicus: Contested Exchange and the Revival of Political Economy. Journal of Economic Perspective. 7(1): 83-102. Bowles, S., and H. Gintis (2000) Walrasian Economcis in Retrospect. Quaterly Journal of Economics. 115(4): 1411-1439.

Debreu, G. (1951) "The Coefficient of Resource Utilization," Econmetrica, 19: 273-292.

Leibenstein, H. (1966) Allocative Efficiency vs. "X-Efficiency." American Economic Review 56(3): 392-415.


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