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複雑系ブームの中の複雑な気持ち


「TASCフォーラム」
『TASC MONTHLY』(たばこ総合研究センター)第264号、1997年10月、pp.6-10.

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発表時に編集時に若干手直しされています。

引用される場合には、雑誌本体を当たってください。

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塩 沢 由 典

 

 去年あたりから、日本では、急に「複雑系」ブームになり、以前から複雑系にとりくんできた人達は、いくらか複雑な気持ちになっている。

第一は、複雑系に注目が集まり、うれしいことはうれしいのだが、どうもその注目の集まり方が気に入らない、ということである。

 今回のブームは、ミッチェル・ワールドロップの本(『複雑系』新潮社、原題”Complexity”)から引き起こされた。この本は、アメリカ・アリゾナ州サンタフェにある、民間のNPO「サンタフェ研究所」の伝記のような本で、この研究所にあつまる人々の知的冒険の世界を、それこそ冒険小説を語るかのごとく伝えていて、力作であるにつがいない。こういう科学ジャーナリストがいて、活躍しているというところに、アメリカ合衆国の研究基盤の厚みが現れている。

 しかし、焦点がサンタフェ研究所だけにあつまってしまうと、これまで独自にやってきた人達がおもしろくないのは当然である。物理方面で、日本の研究をリードしてきた東大の金子邦彦が、サンタフェだけが複雑系ではないと強調する気持ちはよく分かる。おなじような気分は、複雑系研究の伝統の深いヨーロッパにもあるようだ。クォーク理論を発見して有名なマレー・ゲルマンは、研究所の創設時からサンタフェのグル(精神的指導者)だが、つい最近翻訳のでた『クォークとジャガー』(草思社、原著は、1994年)の「まえがき」の中で、つぎのように語っている。

  「研究所と、ほかの研究・教育機関との関係の実態が、過去数年間にサイエンス・ラ  イターによって書かれた数冊の本のなかで、いささかゆがめられて伝えられている。  サンタフェ研究所で研究したのでないものまでその業績とされたため、実際に研究し  た人たち、とくにヨーロッパの同僚の多くを怒らせてしまった。」

複雑系の研究は、ニュートン的な決定論的科学研究、ラプラース以来の確率論的な科学研究に続く、第3の科学研究である、と多くの複雑系研究者は考えている。こうした大きなパラダイム転換が、一研究所のリードで進むはずがない。一理論の発見とは違うのである。世界のいろいろなところで、いろいろな専門分野と学問的伝統を踏まえて、多数の道を付け、その相互的な効果として、はじめて新しい学問像が見えてくるものであろう。サンタフェ以外にも、複雑系研究の流れがあると強調することは、たんなる手柄争いではないのである。

複雑な気持ちの第二は、売り込みがうますぎて、複雑系科学の意義や現状が、やや誇大広告気味になっていることである。当分できそうもないことに対するひとびとの期待が大きすぎると、しばらくして幻滅がやってくる。その反動がこわい。複雑系研究を線香花火に終わらせないためには、できたこと、できそうなこと、まだまだできそうもないことについて、正直に語っていくことが大切であろう。

 サンタフェ研究所は、この点でも、かなりの責任を負わなければならない。

 ワールドロップの本の「帯」には、まず「今、米国サンタフェ研究所に/驚くべき科学革命が進行している。」とした上で、つぎのような7つの疑問を掲げている。

なぜ、ソビエト連邦は劇的に崩壊したのか?

なぜ、1987年10月、株式は暴落したのか?

なぜ、恐竜は絶滅したのか?

なぜ、アミノ酸は生命と化したのか?

なぜ、WIDOWSは圧倒的なシェアを握ったのか?

そして、その最後に

「すべての鍵は「複雑系」にある!」

とある。

この10年近く、複雑系の売り込みをやってきたわたしも、おもわず「うまい!」とうなってしまう宣伝である。ひょっとしたら、日本の複雑系ブームは、この帯が作ったのかもしれない。

原本には、もちろんこんな帯はない。しかし、では日本語訳の「帯」の宣伝が日本語版編集者の創作かというと、そうではない。原著が1992年に出ていることもあって、WINDOWSには触れていないが、その他の6つの疑問については、「まえがき」にちゃんと出ており、これらの現象がすべて「複雑系」の振舞いであると説明されている。「誇大宣伝」の種は撒かれているのである。

これも、ゲルマンのいう「サイエンス・ライターによって、いささかゆがめられた」ことなのだろうか。サンタフェ研究所の活動とその学問的成果を伝えるとき、夢を語り過ぎていないだろうか。「なにができないのか」について、もうすこし進んで見込みを語るべきだろう。

複雑な気持ちの第三は、ブームに乗って、安易な紹介や便乗的な研究が増えていることである。経済学には、「悪貨が良貨を駆逐する」ということわざがある。あまりひどい煽り方がされると、研究が全体として浅薄なものになりやすいし、重要な研究がかすんでしまい、結局は研究の進歩を遅らせることになりかねない。

数学や物理学では、便乗的な研究といっても、一応は研究の水準というものがあろう。経済や経営の方では、ほんの聞きかじりでも、とにかくいくつかのキー・ワードの操り方を覚えれば、ひとかどの複雑系解説者を気取ることができるという問題もある。

現に、ビシネス書として刊行されているものの中には、もともと複雑系の考えなどなくて書いた文章に、表題と導入部にだけ、それなりの雰囲気を出したものがある。さすが、そういう悪質なものは、それほど売れていないようであるが、こんな本が増えることは困ったことである。

便乗的な研究には、後追い的研究も含まれる。経済学、とくに近代経済学と言われる方面では、戦後、一貫してアメリカの研究への追随・輸入が幅を効かせてきた。宇沢弘文がかつて70年代に、RATEX(合理的期待形成理論。人々には先見の明があるので、政府が財政政策などで経済の軌道修正を図ろうとしても、効果がないと主張する。70年代合衆国の理論経済学を席巻した。)は日本に上陸させないと、水際作戦を展開したことがある。しかし、独創的な研究、世界の先端に立てる研究が求められている現在ではあるが、こうした気骨は、若い世代にはかえって薄れてしまった。流行を後追いする傾向は、複雑系研究でも変わっていない。

 ある有力大学の経済研究所が「複雑系経済システム研究センター」というものを設立した。「系」という語は、もともと英語などの「システム」の訳語としてあるのだから、この名称自体が、かなりおかしげなものである。自信があるなら、「複雑経済システム研究センター」でよいはずのものであろう。あるいは「複雑経済系研究センター」か。この名前の付け方自体がかなり便乗的だと思われるが、このセンターのお披露目に出された本(『複雑系の経済学[入門と実践]』ダイヤモンド社)を読むと、研究組織も研究方向もかなりあわてて作ったもののようだ。

忖度するに、その経緯はこんなものであろう。学術会議などの提案により、日本にもCOE(センター・オヴ・エクセランス、特に優れた学術研究の中心)を作ろうというので、COE形成プログラムというものがあり、すでにいくつかの大学の研究所などが指定を受けている。その経済研究所には、すでに何期も務めた所長がおり、政治力もなかなかである。とうぜん、この研究所にもCOE形成プログラムの指定を、ということになったのであろう。しかし、新計画のために新たに人を集めてくる余裕はない。既存の所員である教授・助教授たちを集めて、なんでも入りそうな名前というので「複雑系」が選ばれたのであろう。この名称が一年以上まえから付けられ、計画の申請が出されていたとすれば、所長のジャーナリスティクなセンスが、実証されたことになる。

 この「センター」は、「複雑系マクロ経済学」、「地域経済システム」、「ゲーム理論」、「計量経済学」の4つのグループからなっている。ゲームの理論では、最近は、複雑系経済学の一つの鍵である「限定合理性」を考慮した研究が行われているし、複雑系経済学のもう一つの鍵である「収穫逓増」を取り入れた地域経済の研究は、かなり古い歴史をもっている。計量経済学が複雑系にどうからむか、いくらか未知数のところもあるが、寄せ合わせの11人のまとまりとしては、いい線を行っているかもしれない。今後の活動に期待したいのだが、かなりの問題を抱えている。

 たとえば、お披露目本の第2章の座談会で、地域経済担当の教授がつぎのように発言している。 

「複雑系という言葉自体を経済学者が最初に論文に使ったのは、私が知る限りでは、ポール・クルーグマンが一九九三年に書いた”Complexity and Emergent Structure in the International Economy" です。」(46頁)

この発言は、論理的な事実としては、正しいに違いない。「私が知る限りでは」と限定がついており、それ以前の事例を発言者が知らなかったことを疑う理由はない。しかし、この限定を外したとき、これははなはだしい事実誤認である。

手近な例を引けば、わたしの1990年の著書『市場の秩序学』(筑摩書房)は、副題に「反均衡から複雑系へ」となっており、3つの章で「複雑系」が掲げられている。うち二つは、雑誌に発表済みのもので、その日付は1987年と88年である。発言者には、私が経済学者の範疇に入らないのかも知れない。あるいはアメリカ滞在が長く、日本の事情に疎いのかも知れない。しかし、わたしの著書を挙げるまでもなく、経済学者の一部においては、複雑系・複雑性はすでに1960年代から重要なテーマだった。

 2例だけ挙げる。

H.A.Simon,"Architecture of Complexity",1962.

F.A.Hayek,"The Theory of Complex Phenomena",1964.

 この著者、サイモンとハイエクは、経済学主流の新古典派に入らないにしても、それぞれ1978年と74年にノーベル経済学賞を受けた著名な「経済学者」である。上の二本の論文も、それぞれかなり有名なものだ(日本語の翻訳もある)。複雑系の経済学にいくらか長い関心をもつものなら、先行研究に対するこの程度の知識はふつうもっているが、発言者にとって複雑系は、1993年以降のものであり、さらにいえば自分がポール・クルーグマン教授から共同研究を持ちかけられてから進み出したもののようである。

 複雑系研究は、それほど手軽にできる研究ではない、とわたしは考えている。たしかに、1970年代以降、数理科学の大きな変化もあり、それ以前と比べて、コンピュータ実験が手軽になったという違いはある。だからといって、最近の分析道具を使って飛びつけば、すぐにことが解決するほど、容易な課題ではない。学説史ばかり追って、自分の理論研究を進めない理論経済学者も困ったものだが、先行研究の失敗を知らずに襲いかかるドン・キホーテにならないよう自戒したい。

 自己組織化の観点からの地域経済研究には、すでにかなりの蓄積もある。複雑系研究といえるかどうかはともかく、それなりに研究は進むに違いない。「複雑系経済システム研究センター」の研究プログラムで問題なのは、センターのリーダー率いる「複雑系マクロ経済学」であろう。これは、マクロの景気循環モデル(つまり少数変数の経済モデルで、景気変動を解明しようとする研究)にカオス理論を適用しようとするものだ。

現在までは、最適動学モデルにどんな条件であれば、カオスが生ずるか、調べるという計画で研究が進められている。かなり一般的な条件でカオスが生ずることが証明できたとして、本人は自慢である。しかし、これは(景気循環モデルを含む)マクロ経済動学全般の問題なのだが、ある動学モデルがカオス力学系になることが証明できたとして、経済学としてどういう意義があるのか、問われるであろう。そもそも、マクロ経済モデルがカオスであるといえたとして、どのような意義があるのだろうか。

カオス力学系あるいは一般に非線形力学系が研究されているのは、ひとつには初期値敏感性があるためである。これは、初期値のごくわずかな差も、将来の大きな差異を引き起こす、という性質である。景気循環モデルにこんな性質があるなら、景気循環モデルによる予測は、意味がないことになる。しかし、そのような現象がどのくらいの時間尺度で起こってくるか、考えなければならない。たとえば、景気の全変動幅のたとえば1000分の1の誤差が、10分の1程度の差異にまで拡大されるには、どの程度の期間を考えるべきなのか。

 初期値敏感性のたとえでよく引かれるパン生地の変換(パンこね変換)でいえば、差異の最大拡大率は、一回の変換で2である。すると、1000分の1ミリの差異が10分の1ミリの差異にまで拡大するためには、最低、7回の変換が必要である。もし、一回の変換が景気循環の一循環節に相当するなら、これは経済予測としては超長期のものに当たる。最も短い循環といわれるキチン循環でも、平均40カ月の周期をもっている。7回の循環節を経るには23年という年月が必要である。景気予測その他は、一回の循環節の内部(つまり1周期内)で行われる。そのことを考えると、マクロ経済モデルがもしカオス力学系であるとしても、初期値敏感性は、あまり重要な性質とはいえないことになろう。

景気循環を数回経たのちの状態を知ろうとしても、経済の場合、そのような長期には、構造方程式自体が変化してしまっていると考えるのが適当である。他方、観測に時間がかかるといっても、通常の指標は3カ月もあれば結果がでる。予測などには、こうした直近のデータを参考にすればよいので、循環節を何回も経なければ意味をもたない性質の研究などには、ほとんど意義がないということになる。

わたしの研究計画は、上のセンターとはかなり違ったものである。概要は『複雑系経済学入門』(生産性出版)に書いた。興味のある方は、覗いてもらえればありがたい。



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