塩 沢 由 典
(しおざわ・よしのり)
金融工学ないしは金融経 済学といわれる分野が先端として注目を浴びている。金融が経済に占める比重がますます大きくなり、金融秩序の良し悪しが経済全体の成果まで大きく左右するようになっている。そのような専門知識が必要なことはよく分かる。金融工学は派生市場を成長させるのに大きな力を発揮した。それは、たとえば高温超伝導の発見が新しい技術分野を作り出したと同じ種類の福利を人類にもたらしたといってもよい。
1990年と1997年の2回にわたって、この分野の研究にノーベル経済学賞が授与されている。金融工学の威信は大変なものである。その成果の代表的なもののひとつであるブラック・ショールズ式は、確率微分方程式という、ちょっとかじったぐらいでは取り付くことのできない高度な数学を使って証明されている。専門家以外の人は、結果をありがたく受け取っておくしか仕方がない。理解はできないが、なにかすごいものらしいと多くの人が考えるのは当然である。しかし、金融工学は、そんなに信頼できる学問であろうか。
典型的な議論として、ブラック・ショールズ式を例に取ろう。確率微分方程式の知識などなくとも、その基礎に横たわる問題点は理解できる。その理論の基礎は、株価が「伊藤過程」をなすという前提にある。これは、傾向を取り除いた株価変動率が正規分布に従っているという仮定である。
この前提は、確率過程を議論する人にとってはきわめて普通のものだし、計算処理も比較的簡単である。ブラック・ショールズ式の巧みな解法は、この設定に追うところが大きい。しかし、株価の変動が正規分布に従っていないことは、よく知られた事実である。それは大まかには釣り鐘状になるが、正規分布より中心近くでは頂上が高く、中心から離れたところでは裾野が尾を引くという特性をもっている。この現象はしばしば「高い頂点、厚い裾野」と表現されている。
問題は、これが数学の細かい修正かどうかである。フラクタル幾何学を創始したマンデルブロートの説明を引こう。かれは、1998年9月のアルカテルの株価が一日に40パーセント下落し、その後数日間にさらに6パーセント下げた例を取り上げる。これはアルカテルのヴォラティリティ(変動率の標準偏差)の10倍にあたる変動である。もし変動率が正規分布に従っているならば、このような事態が起こる確率は7.6×10^-24[印刷用注意:7.6掛ける10のマイナス24乘]しかない。ビッグバン以来現在まで150億年たっていると言われている。上の確率は、日数でいえば、その150億年が200億回繰り返されて初めて1回起こる程度の確率である。しかし、アルカテルに限らず、標準偏差の数倍にあたる「まれな」現象(たとえば、標準偏差の
6倍以上なら10億回に一回程度の確率)がわずか100年=3万7,524日間に何回も起こっている。ここには、近似の程度ではすまされない重大な問題がある。大きな為替変動や株価変動などには、金融工学は有効に対応できない。このことは、事実によっても証明されている。1997年のノーベル賞受賞者ショールズとマートンが共同経営者として参加していたヘッジファンドLTCMは、翌1998年のロシア政府のデフォルト宣言によって事実上倒産してしまった。ショールズとマートンの意見に反して、社長のメリウェザーがロシア国債に手を出した結果という同情論もある。しかし、わずか5年で破綻という事実は、金融工学の弱点を象徴的に示している。
金融工学は、数年に一回起こる、大きな変動を理論から排除してしまっている。そのような事態が現実に起こったときには、それはとうぜん対応できない。金融工学は、平穏で日常的な99%の日々については正しいかも知れない。しかし、数年に1回起こるかも知れないことに関しては、それはまったく誤った知識と対応策とを与えている。たとえば、1997年のアジアの金融危機は、金融工学の仮定では「起こりえないこと」であり、2度と起こると心配する必要のないことである。しかし、別の理論(たとえば、のちに説明する複雑系の理論とシミュレーション)に立つならば、類似の危機の心配は現実の問題として存在する。修正しなければならないのは金融工学の前提であり、そこから導かれる政策提言である。金融工学に頼って危機管理はできない。
複雑系経済学は、現実に対し異なるアプローチを取っている。まず、それは株価変動が正規分布からいかに離れているか、どのような時系列として特性づけられるかに関心をもつ。複雑系経済学は、金融市場の価格を、一定の均衡値を持つものとしてではなく、つねにゆらいでいるものとして捉える。そのゆらぎを物理学の手法を使って解析する研究がソニーの高安秀樹氏らによって進められている。そのような測定の一つにハースト指数がある。株価のハースト指数は、0.8という大きな値が出ているが、正規分布に従うならばこの指数は0.5に等しくならなければならない(エドガース・ピーターによる1928年から1989までのS&P500指数の5日間隔の収益率の分布に関する測定)。こうした測定により株価の性質を調べるとともに、複雑系経済学は、時系列のそのような性質が生ずるのはどのような機構に基づくものか明らかにしようとする。これは容易なことでない。しかし、最近では、理論的にも、シミュレーションによっても、金融市場の価格変動がなぜ「高い頂点と厚い裾野」となるか、解明がすすんできている。
ここからが本論なのだが、紙数の関係で説明はだいぶ端折ったものにならざるをえない。 まず、理論の枠組みからいうなら、近年、「ミクロ・マクロ・ループ」という関係が注目されている。これは世界認識を含む個人の生活世界(ミクロ)と市場の全体過程(マクロ)の間の相互決定的な関係をいう。このことを考慮に入れることなく、個人の行動を定式化することはできない。
金融経済学における「効率市場仮説」を例にとろう。この仮説には、強いもの、半ば強いもの、弱いものなど幾つかの変種がある。強い仮説は、インサイダー取引でも儲けることができないという内容であり、それを支持する人はすくない。半ば強い仮説・弱い仮説は、それらが正しいならば、それぞれファンダメンタル仮説・テクニカル分析は無効であるという含意をもつ。しかし、市場には、その両者を利用し続ける人が絶えない。効率市場仮説を信ずるひとたちは、彼らが単に誤っているからだと考えるが、複雑系経済学の考えは違う。
ひとびとの行動と市場価格のミクロ・マクロ・ループに注目すると、弱い形であれ、効率市場仮説が破れる可能性がある。価格が上昇していることから、多くの人が今後も上昇すると信じて株式を買えば、それは自己実現的予言となって、実際に価格は上昇する。こういう事情があるとき、株式市場に短期の系列自己相関が観察されるのは当然である。
株価はつねに変動しており、ひとびとの仮説が市場の現実の動きを作りだす。クォンタム・ファンドの総帥ジョージ・ソロスは、この関係を「リフレクシヴィティ」(再帰性、相互作用)と名付けている。ソロスの哲学は、投機家としての直観に基づくものであろうが、思想と市場価格との間のミクロ・マクロ・ループという金融工学が気づかない重要なポイントを押さえている。
ひとびとの予想形成とそのダイナミックな変動をコンピュータのシミュレーション・モデルに組み込むことにより、「高い頂点、厚い裾野」がなぜおこるか解明する研究も行われている。たとえば、電子総合研究所の和泉潔らによる研究では、投機家の心理を組み込み、さらに遺伝的アルゴリズムにより仮説を変化させると、ファンダメンタル情報の所与の系列に対し、ある確率でバブル期が生ずる。正常期にくらべバブル期の変動幅が数倍高いとすると、「高い頂点、厚い裾野」という現象のひとつの説明がえられる。
和泉らの成果は、コンピュータに組み込んだエージェント(人間もどき)の行動による市場過程の研究であるが、現実の人間がマシーン・エージェントととも参加する仮想市場を形成して、より大規模な金融市場のシミレーション実験を試みる計画も進んでいる。それがU−Mart計画である。具体的にはインターネット網を使い、たとえばJ30など現実には存在しない先物市場を形成することを通して、価格変動の性質や各種エージェントの優劣、さらには(ストップ安などの)市場の諸制度の有効性などを実験的に検証していくことが計画されている。それは、経済をすべての情報が瞬時に伝わり処理され、収益機会がつねに存在しないような世界=均衡とは見なさない。
以上、複雑系経済学の最近の成果として、それが金融工学といかに異なるか、金融市場をどう見、どう解明しようとしているかを説明した。複雑系経済学は、しかし、金融市場に限定された理論ではない。その本領は、経済過程を複雑なものと見なおすことから、経済の分析を進めることにある。
現在の経済学の主流は、新古典派経済学と呼ばれている。この経済学は、収穫逓減と無限合理性の仮定のもとに成立している。前者から供給関数、後者から需要関数が構成される。しかし、これらの仮定は、理論の必要上前提されるものであり、現実と掛け離れている。新古典派は、経済を、すべての情報が瞬時に処理され、収益機会がつねに存在しないような世界=均衡と見なしている。それでは解明できない現象が多すぎる。新古典派理論は、均衡理論の罠にはまってしまっている。複雑系経済学は、こうした膠着した経済学を覆して、新しい経済学をその基礎から作り直そうという運動である。