複雑系の科学ないし複雑さの科学に対する一般の関心が急に高まってきた。ここでは、社会科学における複雑系研究の一例として、経済学の議論を紹介する。
自然科学系統の複雑系への関心は、(とくに日本では)カオス力学系の発見から始まったといってよい。一次元のカオス力学系をいくつか弱い相互作用のもとに結合させた系(カオス結合系)の研究などはこの直接の延長線上にある。これらは簡単な規則に基づくシステムが複雑な振舞いをする事例と見ることができる。コンピュータの発達により、さまざまな計算上の実験が可能になり、かつてはできなかった考察が可能に可能になった。遺伝子プールの進化ゲームなどもそうした例のひとつである。
経済も、その現象はきわめて複雑で、典型的な複雑系のひとつと考えられている。しかし、18世紀に成立した学問である経済学は、かならずしもこの複雑さに焦点を当てて理論を形成してこなかった。むしろ、19世紀の第3四半期以降は、物理学を典型とする科学運動の渦のなかに巻き込まれ、主体の行動から現象を説明しようとする構成主義的研究法(方法論的個人主義)が取られた。これに対し、近年にいたって、原理としての最大化行動を否定し、経済の複雑さとその重大な意義を強調する考えが出てきた。
経済学におけるその起源は、1920-30 年代の社会主義経済計算論争にまで逆上ることができるが、経営学で最初に提起された限定合理性の概念が経済学のなかで重要な話題になるのは1970年代以降といってよい。最近、経済学に複雑系研究の機運が盛り上がってきたのは合衆国のサンタフェ研究所の動向の影響が大きいが、経済学の内部にこの方向に向かう固有の動きがあったことを忘れてはならない。経済学における複雑系研究には物理系統の諸科学とは異なる視点と研究課題とがある。 経済学では、複雑さは対象の運動がたんに複雑であるというに止まらない。物理システムでは、個々の要素は一定の物理法則に従うのみで、システムが複雑であるかどうかは、その要素の振舞いを変えるものではない。これに対し、経済システムの一要素である行為主体にとって、状況の複雑さは行動の様相を変える重要な条件であり、その意味で複雑さは実在の条件である。
だれにとっての複雑さかという観点から、複雑さの研究には、つぎの3つの様相が区別される1)。
@対象の振舞いの複雑さ A行為主体にとっての複雑さ Bわれわれの認識過程に介在する複雑さ上の議論を整理すると、物理系統の複雑系研究では、つうじょう@の意味での複雑さが問題とされている。しかし、それは、じつはBの意味での複雑さと裏おもての関係にある。つまり複雑な現象を理解しようとするわれわれの通常の認識・理解能力の限界を超える事態と、それをわれわれの理解能力の範囲内に陥しこもうとする努力との相克の問題である。だが、物理系統の学問では、つうじょうそのようなことは問題にされずに済まされている。
これに対して、経済学では、@の複雑さに加えて、Aの意味での複雑さが介入してくる。後にみるように、経済系統の学問では、理論と行動が相互に干渉するという事態まである。したがって、経済学では、われわれの知識に関する検討も必要となり、複雑さの@ABのすべての様相を必然的に論ずることになる。ここに他の複雑系科学にはみられない経済学のニニークさがある。
複雑系としての経済にはどのような特徴があるか。まずそのシステム特性から見てみよう。
経済は人間が介在するシステムであり、つぎのような構成特性をもっている。
@多数の行為主体からなる。 A多数の商品・技術からなる。 B多数の取引が行われている。これらの特性は、常識的なものであり、詳しくは説明しない。経済学の外にも広がってきたゲームという見方からいえば、@は一人ゲーム(自然とのゲーム=ロビンソン・クルーソー)でも、二人ゲームでもなく、多数の人間ないしその複合体の間のゲームであることを意味する。Aは、ゲームの行われる場が多元的である、あるいは選択肢の数が大きいことを意味する。Bは、経済の基礎過程が局所的・同時進行的な繰り返し交渉ゲームであることを示している。
このような構成特性からいえば、経済システムはコンピュータのネットワークである自律分散システムとたいした差異をもつものではない。しかし、経済では、人間という行為主体があり、その行動がシステム全体との相互作用を通して変化する。そこに経済学のやっかいさがある。
経済システムの中で、行為主体はどのような行動しているであろうか。このことを考えるにあたって、人間の能力の限界を3つの局面において捉えておくと便利である2)。
@視野の限界 A合理性の限界 B働きかけの限界これらは、世界を認知し、考え、行為するにあたって、それぞれの側面で一定の能力の限界をもっていることを意味する。
複雑さという観点からは、Aの合理性の限界が重要である。これは、計算能力の限界とも推論能力の限界とも言い換えることができるが、記号・表象などを操作して適切な行動指針をうる過程(つまり判断過程)に一定の処理限界があることを意味する。計算や思考はこの限界内で行われざるを得ない。ここに、人間の行動が、おおくの場合、思考・推論を極力節約するものとなる必然性がある。
行動と判断との関係については、つぎの3つの異なる視点が必要である。
@大多数の行動のルーティン化。経済行動は、従来の経済学が考えてきたような最適化行動ではない。人間の計算能力を考慮すれば、最適化の負担は多くの場合大きすぎる。経済行動の大部分は、社会的・組織的な慣習に起源をもつルーティン化された行動・作業である。人間は思考能力をもっており、他の動物に比べ、その行動は可塑的であるが、行動に当たって、すべてを考え直すのではなく、所与の事態とそれに対する反応とをパタン化し、定型化している。そうすることで判断に必要な時間を極力少なくしていると考えることができる3)。
A行動パタンの事後的選択。ルーティン化された行動パタンは、複雑な状況のもとで、探索や計算を能力の限界内に保ちながら、あるべき方向へなんらかの働きかけを行うためのひとつの実行可能解と考えることができる。それらは、繰り返し実行されることで、経験的に選別されうる。これは、仮構された世界モデル内の記号操作による計算でなく、実物世界の「計算」を利用した行動の優劣の判定である。
B決断とアブタクション。パタン化が困難な場合、決定の賭け金(その決定に左右される利得の差)が大きい場合、熟慮に基づく決定が下されることがある。この決定は、ある即興の仮説形成(アブダクション)に基づき、ひとつの結論を選択する行為である。それはいわば発見的な行為であり、いかなる定式化をもはねつけかねない性格のものである。
@Aの範囲で考えるかぎり、行動の定式が可能であり、それらに基づいたシステムの総過程を分析することもできるが、Bの要素が入り込む局面では、個別の行為が関係するかぎりでの考察は極めて困難なものとなる。
ところで、このような行動が可能になるないし有意義であるためには、システムの作動特性も一定の性格をもたなけばならない。それらは、つぎの3点にまとめることができる4)。
@時間特性:ゆらぎのある定常過程経済行動の大部分はルーティン行動であり、それらはシステム自体におけるある定常性を前提としている。各ルーティンが前提とする定常性はかならずしも同じものではないが、多くのルーティンが有効でありつづけるためには、全体としての経済過程が定常的でなければならない。これはおなじ事態が繰り返されるということではない。各変数が変動してもよいが、そのゆらぎのパタンが一定していれば、人間や生物はそのパタンに応じた行動を取ることができる。
A結合特性:ゆるやかな結合系人間が一度に働きかけられる範囲は、限定されており、おおくのルーティンにおいては、ある特定の変数の切り替えである。たとえば、売買という取引は、2者がその所有物を交換する行為である。システムがゆるやかな結合系であることから、所有関係のこのような部分的な変更が可能となっている。在庫や貨幣は、システムのこのような切り離し機能を担うものとして理解することができる。
B主体特性:ゆとりのある生存条件人間は倒産や失業の恐れに駆り立てられて働いているという側面がある。しかし、他方では、かなりの状況悪化にも耐えて生き抜く余裕をももっている。1930年代の大恐慌では、合衆国の総所得は30パーセントも低下したし、旧社会主義国の市場経済化にあたって、それ以上の総所得の低下を経過した国がいくつもある。それでも、人口減が問題になるほどには死者はでなかった。このようなゆとりが、しばしば繰り返されるシステムの暴走にもかかわらず、経済システムを崩壊から救っているのである。
人間の経済行動を前提とし、それらの相互作用の全体として経済の総過程を考えるという限りにおいて、その理論の組み方は従来の科学における構成主義と変わるところはない。経済の場合、しかし、前提となる行動自体が総過程の在り方や理論の在り方に影響を受けるという、物理学にはない特殊な事情がある。ある行動が効果的であるか否かが、その行動が一部をなすところの総過程の性質によっている。理論はしばしば人々の世界に対する認識の仕方を変え、その行動に影響を与える。
株式市場は、しばしばある特定の信号に反応する。たとえば、日米の貿易収支が問題になっているとしよう。日本の貿易黒字が大きくなることは、日本の輸出競争力の現れとも、貿易摩擦の原因とも解釈される。貿易黒字の意外な大きさにたいし、どう行動するのが良いのであろうか。それには、確定した答えはない。前者と取って多くの投資家が買いにまわれば株価は高騰する。反対に、摩擦を嫌って多くの投資家が売りにまわれば、株価は下落する。どちらの行動を取ろうと、それが他の多くの投資家と同じ行動であるならば、その行動は正しかったことになる。どの行動が効果的であるかは、市場の反応に依存している。
ある特定の信号に対し、買いと動くべきか、売りと動くべきかは、市場の反応の出方次第である。しかし、いったん、市場のこのような反応が確立すると、ひとびとはそのパタンを認識し、それにしたがって動くようになる。すると市場の反応パタン自体はそれによってより強化される。この場合、ミクロの行動はマクロの反応により強化され、マクロの市場の反応はミクロの行動により強化されるという、相互強化の関係が成立する。安定した行動と市場の反応とは、通常このような相互強化の関係にある。この関係が逆に出る場合には、学習によって行動パタンが変更され、新しいミクロとマクロの相互強化の関係が成立するまで不安定な状態を変遷することになる5)。
このようにして、経済では、行動の選択とシステムの動きとのあいだに相互関係があり、一方が他方を、他方が一方を条件づけている。経済学の方法論として、従来から、方法論的個人主義と方法論的全体主義の対立があった。前者はミクロからマクロへという構成的規定関係に注目し、後者はマクロからミクロへという存在拘束的規定関係に注目したと考えられるが、これらの規定関係はミクロ・マクロ・ループとして捉えなければならない6)。
従来のミクロ経済学では、行動主体に無限の合理性を仮定したため、あらゆる状況のなかで最適の行動がとれることになっていた。そのような設定のもとには、マクロの状況がミクロの行動を変えることはない。ミクロ・マクロ・ループは、合理性の限界という条件のもとで状況に対処しなければならない行為者を考えることによりはじめて見えてくるシステム関係である7)。
物理学や化学ではどのような理論が形成されるかが、対象の振舞いを変えることはない。量子力学では、観測が粒子の運動に及ぼす作用を無視することはできない。不確定性原理は、運動量を観測すると位置が不確定になることを必然としている。しかし、これは理論が粒子の振舞いを変えたのではない。観測系との相互作用を無視できないが、その相互作用自体は理論から独立に存在していると考えられている。これに対して、経済学などでは、理論がひとびとの行動を変えるという理論と行動の干渉がおこる。
利潤あるいは利益は単純な概念と考えられやすいが、じつはさまざまな曖昧さと不確定さを内包している。企業の会計報告では、売上総利益、営業利益、経常利益、税引き前当期利益、当期純利益などを区別する。これは対象とする取引の範囲による利益の区分である。しかし、ある取引が投資なのか費用なのか不明確な場合も生ずる。たとえば、石油採掘業において失敗に終わった試掘に対する支出は投資であろうか、費用であろうか。処理の仕方により、利益の表出に大きな差異が生ずる。1970年代の合衆国では、この処理方法を巡って大規模な討論がなされた。
同様の問題は、研究・開発に関連する支出にも生ずる。費用として計上することも、投資として資産計上することも可能である。しかし、どちらの方式を採用するかによって、投資家や経営者の行動に差異が生ずる。研究開発費を投資として資産計上すれば、今期の利益は増えるが、将来その分の償却費が増大する。それは費用負担を償却期間全体に平均化することにあたる。そうすると、効果が出にくいので、経営者が不況期に研究開発費を削減したくなるのをいくらか緩和する。
このように、いかなる会計方式を取るかによって経営者や投資家の行動に差異がでる。会計理論は、どの会計方式を採用すべきかについて、影響を与える。この意味で行動と理論とのあいだに干渉がある。このような干渉は、景気の判定などにもおこる。
このような事態の発生するのは、複雑な状況に直面する行為主体にとって、認識過程の整理の仕方である理論そのものが状況判断のひとつの手掛かりとなるからである。§1に注意した複雑さの3つの様相は、区別すべきではあるが、相互に切り離し得ないものとしても考察しなければならない。
複雑系の観点に立つとき、最大化の行動原理と一般均衡8)というシステム論とを放棄せざるをえない。最大化原理は、複雑な状況における判断がつねに限界合理性の範囲内でなされなければならないという要請を無視している。一般均衡というシステム論は、任意の状況においてひとびとが最適な行為を選択し、表明できるという前提にたっていが、それは人間能力の3つの限界をすべて無視するものである。
これらは新古典派の経済学の方法的枠組みをその基礎から覆すものであり、経済学に旧来の科学観からの脱却を要請する。
最大化原理を放棄するとき、ある行為主体がある特定の場合にどのように行動するか、先験的に推定することはできない。すべての行動パタンの推定は、基本的には(自省をもふくむ)観察に基づかざるをえない。これは、二つの意味で厳密科学の方法の放棄を意味する。
第一に、それは、行動に関し、統一的な原理の不在を意味する。状況ごとに、ことなる行動が設定されることになる。また、そのような設定の普遍性をも放棄しなければならない。ある状況にひとがどのような行動をするか、例外なしに確定することはまずできない。設定される行動は、広範に観察されるという意味で代表的でありえても、それ以外の行動が観察されないわけでも、不合理であるということでもない。すべては蓋然性の世界の話として、議論を組み立てなければならない。第二に、行動の厳密な定式を諦めなければならない。状況の定義にも、認知にも、またそれに対する反応や決定にも、誤りが入りうる。その意味で、行動のすべてはファジーである。ただ、このことが当事者の推論や選択をファジー論理で再現することを要請するものであろうか。行動がパタンとしてファジーであっても、(そのパタンの実現である)ある特定の時と場所における行為は、それを特定できる範囲内で確定しており、むしろ確率的な選択と見なすべきかもしれない。いずれにせよ、われわれは「厳密さは偽物である」世界にある。2−2でわたしは慣行やルーティン行動の意義を強調したが、それらはこれらのあいまいさを含んだものとして再解釈さなければならない。 最大化原理の放棄に対して反対論が強いのは、厳密科学の装いを捨て去ることに対する抵抗ばかりでなく、それを放棄したときに要請される理論構成上の困難にもよっている。もうすこし低次元の背景としては、最大化原理の放棄が、「安楽椅子の経済学」の前提を崩すことにもなるという事情がある。経済学は、これまで、現実の観測や調査にほとんど依存することなく、理論形成を行ってきた。できあいの公式にしたがってすべての行動を議論できるという理論経済学者の思い上がりが最大化原理によって担保されてきたのである。しかし、理論経済学のそのような楽園は、すでに失われたと考えるべきであろう。
一般均衡の枠組みの放棄は、ひとつの禁欲さえ受け入れれば、現実の理論的営為にそれほど深刻な影響を及ぼさない。すべての経済現象を一挙に説明しようなどという野望を禁欲しさえすれば、一般均衡理論はなくてもよいものである。
経済学が模範とした物理学においても、世界を一挙に説明しうるような理論は存在しない。経済学は物理学の普遍性を誤って理解してきた。物理学の基本法則には、量子論的な効果から宇宙的尺度の事象にいたるまで、例外なしに成立するものがある。たとえば、運動量保存の法則は、そのようなものと考えられている。しかし、それは物理学の基本法則により、物理現象をすべて説明できるということを意味しない。たとえば、巨視的現象の時間にかんする不可逆性は、ニュートン力学の基本法則からは従わない。ところが経済学では、一般均衡理論という、すべてを一挙に説明すると称する理論が出現したため、そのような理論形成が当然のものと理解されてきている。それが無謀な野望であることを理解し、禁欲することで、経済学ははるかにおおきな自由をうることができよう。
物理学でも、理論と実験とを動員して、ある特定の現象の理解に努めている。経済学でも、謙虚に、ある特定の現象の観察と理解とに努めるべきであろう。その方法は、すでに与えられている。それは部分過程分析である9)。
マーシャルの部分均衡分析がワルラスの一般均衡分析の特殊ケースないし教育版と理解されたことは経済学にとって不幸なことであった。ゆるやかな結合系という経済システムの特徴を捉えることができなかったからである。経済の現象の多くは、孤立系として考察することはできない。そこに固有の困難があったことは確かであるが、部分系をうまく切り取ることにより、その外部を定常過程とみて内部の働きを分析することから得られるものは通常考えられているよりはるかに大きい。一般均衡という枠組みさえ外してみれば、このような分析として有効なものは、従来の経済学的な分析の中にも数多くある。
複雑さの科学が今日のように注目されるにいたった背景には、コンピュータ実験が大規模にかつ容易にできるようになったことがある。これは、理論・実験という近代科学の二つの基本モードに対し、第3モードの研究法とまで呼ばれている。複雑系の経済学も、この方法を活用すべきであろう。限定合理性を前提としたゲームの理論には、現在、この方法が精力的に用いられているが、他の領域では、いまだ基本的な研究方法として認められていない。
経済学の特殊事情は、複雑さに注目する経済学者たちが、このような研究方法に対し疑いの目をもっていることである。先行例であるマクロ計量経済モデルは、少数のマクロ変数間の決定論的なモデルを構築することに専念してきた。それは経済システムの複雑さを全く無視するものであった。経済学における計算実験は、あたらしい発想に基づかなければならない。
経済学がその模範とした物理学から持ち込んだ誤解のもう一つは、有効な科学は予測的でなければならないという観念である。
物理学の典型として、太陽系の運動学を取るならば、物理学はたしかに予測的な学問であった。より困難は大きく、制約的な結果しかでないが、気象学も一部は予測的な科学として機能している。しかし、物理学の大部分は、予測的な科学ではない。それはかつて起こったことのない事象をほとんど予知することはできない。物理学の多くは、現象の再現を研究している。どのような条件があれば、かかる現象が再現されるのか。それはどのような機構によるものなのか。実験・理論・計算実験が有力なのは、このような問題設定に対してである。
太陽系の天文学を物理学の典型と考えてはならない。たしかにそれは世界観を変える大理論であったが、その成功は過大に評価されている。恒星・惑星系は、すでに3体問題から複雑系の範疇にある。太陽系の天文学が成功を収めることができたのは、それが2体問題として近似できる事情があったからにほかならない。
このことを理解すれば、経済学を予測的な科学たらしめようという観念は捨てることができる。複雑さを考慮するかぎり、将来の事態を予測することには一定の限界がある。それは原理的な困難というべきものである。予測に代えて、経済学は、現象に内在するパタンの発見に努めること、そのようなパタンの生ずる理由を理解すること、を課題とすべきであろう。
経済を複雑系と見ることは、従来の経済学が陥っていた窮屈な科学観から経済学を解放する効果がある。従来の経済学が気付かなかったか、気付いても無視してきたさまざまな現象や効果が複雑系の経済学の課題として登場している。それらの一々について詳しい説明は省かなければならないが、どのような話題がありうるか、おおよその紹介を試みよう。もちろん、その多くは新しい話題であり、その理解が十分なされているとはかぎらない。ほんのアイデアに過ぎないものも含まれるが、他の学問分野における複雑系の話題におとらず、多様な現象の存在を知ってもらうことができよう。
隣人効果 テレビ・冷蔵庫・クーラー・自動車・ビデオ・携帯電話など家庭用品の普及率x(t)は、ロジスティック・カーブを描く。それはdx/dt=a・x・(1−x)
という微分方程式の解であるが、これは未購入者に購入を促す効果が既購入者の比率に比例するということであり、隣人効果の存在を証明している。ロックイン効果
キーボードの配列やヤード・ポンド法、新聞の縦組み、(車の)左側通行など、いったん社会に根付いてしまうと、効率の悪さや国際社会との不一致があっても、制度を変更する費用がかかるため容易に改変できない。
デ・ファクト標準 ヴィデオのVHS対β、OSのウィンドウズ対マックのように、代替的な方式の一方式が優勢になると、そのことが原因になって、その方式の有利さが確立し、事実上の標準となる。洗濯機など単体で使われるものと違って、ソフトなど関連商品の供給の豊富さが本体の使いやすさや機能を左右するため、互換性のある一方式に傾く強い傾向が生ずる。このような事情は、貨幣の成立時にも働いた。 2番手争い 自転車競争では、トップに出ると風圧を受け、体力を消耗する。そこで、レースの前半では2番の位置につけることが争われる。経済でも、自社が投資をして景気を先導するのでなく、ユーザー(需要者)の先導に一歩遅れて設備投資するのが得策となる。しかし、すべての企業が2番争いをすると、景気は低迷したまま推移する。商品開発などでも、このような2番手戦術が功を奏することがある。 累積的因果関連黒人は所得が低く、教育が受けられない。そのため、失業率が高く、貧困となり、子供に十分な教育を受けさせられない。このような悪循環の構造ができあがると、そこから抜け出すことが困難となる。ミュルダールが合衆国の貧困を研究して、このことを強調した。逆に、循環がよい方向に作用することもある。累積的因果関連は経済発展のおおくの局面にみられる。
自己組織化 都市ができると、その人口や産業を引き付ける力により、都市はますます発達する。このようなフィード・フォワード効果が働くところでは、空間的な対称性を破って、ひとつの構造ができあがる。産業構造や技術体系にも、このような自己組織化が認められる。 経路依存性 日本は道が狭く、ひとびとの体も小さかったので小型車が普及した。石油ショックで、北アメリカ市場にコンパクト車が求められたとき、大型車を作り慣れていたビッグ・スリーはすぐには対応できず、日本車やヨーロッパ車のシェア拡大を許した。なんらかの原因で、ある産業・技術・品級に特化すると、経験の蓄積からその方面により強い比較優位をもつようになる。このように、現在の産業構造や技術の発達は、過去に経済がたどった経路の影響を受けている。 収穫逓増 生産量をx倍にするとき、設備に必要な資材や原燃料がx倍になるとはかぎらない。倍数xが1より大きいとき、一般には、x倍よりすくない投入で十分であり、これを収穫逓増という。ロックイン効果、自己組織化、経路依存性などの背後には、ほとんどの場合、収穫逓増が認められる。この効果は、均衡理論にのりにくいため、従来の経済学では無視されることが多かった。このようなさまざまの効果が作用して、経済はしだいに変化していく。経済変化の様相に関しては、従来から、さまざまな特徴付けや観察がなされている。金融市場のように動きの激しい変化、あるいはクラッシュやショックのような急激な変化に注目が集まりやすいが、長期にわたる小さな変化の累積的効果も重要である。たとえば、生活習慣などが一年に2%ずつ入れ替わっていくと、100年では97%が入れ替わってしまう。
技術については、技術革新が強調され、経済学の主要な話題となっている。しかし、一国の競争力を決定するのは、このような大きな技術進歩ではなく、しばしば小さな技術進歩の累積効果による。日本の生産性運動やQC運動などは、主として小さな技術進歩の累積的効果をねらったものである。
経済は段階的に変化するとか、構造安定期ないし安定的成長期と体制の危機とが交替的にやってくるという主張がある。これらはシステムの発展様式に関する考察であるが、大きな政治的変化などによって区切られないかぎり、ある時期区分の前後でそれほど大きな変化のないことも指摘されている。たとえば、イギリスの産業革命期の経済成長率はそれ以前の 100年の平均成長率を1%程度上回るにすぎない。
複雑系の変動理論については、まだほとんど手づかずであるというべきであろう。
5−1に掲げた効果は、対象の諸要素やその関係に関するものである。物理学や生物学にも類似の効果が認められ、自然科学者にも理解しやすいものであろう。経済における変化の理解は、しかし、このように対象の振舞いに関するものだけでは済まされない。技術や熟練、さまざまの有用な行動ルーティンと切り離せないものとして知識がある。市場過程そのものも、分散して存在する知識の社会的な利用の様式と考えるべき理由がある。このような観点にたつとき、行為主体にとっての複雑さの観点およびわれわれの認識過程に介在する複雑さを考慮にいれた知識の理論が必要となる。この知識の理論は、哲学や教育学が問題にしてきたような普遍的な知識ではない。その場・その時には有用であるが、その理由も有効な範囲も不明確であり、しばしば使い捨てられる知識が問題である。この意味で経済学は、それ自身の知識の理論を必要としている。G.ライルの主知主義批判、M.ポラーニーの暗黙知や個人的知、中村雄二郎の臨床の知などが、この関連の示唆を与えている。AIや認知科学の一部の議論、さらには計算の複雑さの理論も参考になる。しかし、この点を手短に紹介することには困難があり、誤解も生じやすい。関心の所在を指摘するにとどめよう10)。