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叢書『経済思想』第1巻への序文

塩沢由典 .

『経済思想』全12巻の最初の二巻=第T部は、「経済学の現在」が主題である。第U部六巻が、対象とすべき具体的な思想家・経済学者をもつのに対し、第1部の二巻は依拠すべき対象をもっていない。この叢書の編集者は、第V部の三巻に日本と非西洋社会の経済思想を置いたこととともに、なぜ第T部にこのような二巻を置いたかについて説明する義務を負うであろう。

経済思想は、過去の思想のたんなる点検であってはならない。経済理論や経済思想を学ぶ意義は、現在の歴史的課題に応えるためにある。これがこの叢書を企画した編集者たちの共通の考えである。そのためには、過去の偉大なる思想家の苦闘に学ぶこととともに、経済学の現場で、いまなにが考えられ、どういう展望が語られているかを知ってもらう必要があるだろう。第T部は、そうした必要に応えるためのものである。

もちろん、第T部の諸章で現在の経済学の多様な領域のすべてを覆えているわけではない。主流の経済学ともいうべきミクロ経済学やマクロ経済学、さらにはそれらの発展形態というべきいくつもの経済学は取り上げられていない。すでに多くの教科書や単行書のあるものは、読者の触れる機会も多く、あえて取り上げる必要はないと考えた。したがって、第T部の二巻で取り上げられた主題と領域が現在の経済学の全体像を示しているとはいうことはできない。

ここに取り上げられた主題と領域は、標準的なもの・既成のものではなく、新しい挑戦への試みである。それが現在の挑戦である以上、既成の論文の紹介に終わることができないことは当然である。研究プログラムや将来への展望を論ずるには、著者の強い主張が表面に現れざるをえない。現在の捉え方にも、論者により大きな差異が生ずるのは仕方ない。標準的・標準的で平板な展望より、著者がいま苦闘して切り開こうとしている領域について語ってもらうこと。現在の歴史的課題に応えるのに必要なことはこれであろう。

第T部の多くの章には、著者の主張・主観がいやおうなく刻みこまれている。最初の2巻を読まれる読者は、それらが確定した事実のまとめというより、むしろ読者への挑発であることを忘れないでほしい。反論・異論を巻きおこし、次の時代の経済思想の形成にひとつの捨石となることが、この2巻の役割である。

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このような構成をとることになった背景には、現在の標準理論であるミクロ経済学・マクロ経済学に対する編集者たちの共通した思いがある。ミクロ経済学・マクロ経済学は使い慣れた道具になってはいるが、熱い心と挑戦の意思が失われているのではないか。それをどう表現するかはともかく、こういう強い思いが編集に加わった各人にある。かつてマーシャルは、経済学者に必要なものは熱い心と冷静な頭脳であるといった。スタニスラフ・アンドレスキーは、社会に対する認識は、よりよい社会を求める熱い情熱家とそれに疑いをいだく冷静な保守派との熾烈な討論によって深まったと指摘している。

ミクロ経済学やマクロ経済学も、かつては熱い思いをもって構成されてきたものに違いない。しかし、それらが思考装置として権威の座に着くと、その装置に当てはまるもののみを経済学の問題、ひいては経済の問題と考える風潮が生まれた。現在の経済学は、論理的には緻密であるが、既成の理論を超えるものへの挑戦という熱い心が失われている。少なくとも私にはそのように感じられる。

この思いは、冷静な頭脳より熱い心を優先することではない。社会に対する認識を深めたいという熱い思いが冷え切るとき、冷静な頭脳も働くなるのではないだろうか。

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こう書くときいつも想い起こされるのは、シュービックやモンブリアールなども取り上げ、わたしもなんどか紹介しているアラブに起源をもつというひとつの寓話である。この寓話は、次のように語られている。

夜、公園のある街灯の下でものを探している酔っ払いがいる。通りかかりの人が声を掛けると、酔っ払いは家の鍵を落としたので探しているという。通りかかりの人は同情して一緒になって鍵を探す。しかし、しばらく探しても鍵はみつからない。そこで通りかかりの人は酔っ払いに、鍵を落としたのはほんとうにここなのかと問いただす。すると酔っ払いては、「鍵を落としたのはあっちの方だ。しかし、あそこは暗くてなにも見えない。だから光の当たっているここを探しているのだ」と答えたという。

経済学は、分析の光が当たっている問題には取り組んでいるが、本当の問題は分析の光のあたらない別の場所にあるというのがこの寓話の意味である。経済学者の多くは暗に陽にこのことに気が付いているが、暗い場所で鍵を探すという危険の多い冒険に乗り出すことを躊躇している。光の当たらない問題に取り組むには、困難を伴う。成功の確率は少ない。それでも、小さな可能性を信じて挑戦する人がいなければ、学問は進歩しない。現在において、新しい挑戦はどのように試みられているのであろうか。そういう目で第1部の各章を読んでいただきたい。

各章の解説はあまり必要ないであろうが、簡単に紹介しておこう。

第1章「環境経済学の現在」は、環境経済学の全般にわたる解説ではない。環境問題に関する現在の経済分析は、基本的には新古典派の理論を前提にしている。吉田文和は、このような状況を踏まえて、そこにおける政治経済学的分析の意義を示そうとしている。環境問題は、単なる外部不経済の問題ではなく、それを効率よく除去しようとする立場からは捕らえられないさまざまな問題が具体的な事例において論じられている。

第2章「複雑系経済学の現在」は、複雑な環境における経済行動という視点から経済学の基礎的枠組みを再構成しようとする試みの提示である。新古典派の経済学に代わる新しい分析枠組みを提出しようとするするものだが、複雑系経済学の全体像を提示しようとして、それぞれの話題の掘り下げが浅くなっているかもしれない。

第3章「社会経済学の現在」は、1970年代以降、日本において独自の展開を遂げた社会経済学の紹介である。その構想者たちへの注釈を通して、著者は新古典派経済学の現実離れを批判するとともに、主流のイデオロギーとしての「構造改革」を相対化する視点を確保しようとしている。従来、経済思想(に関する著作)は、欧米で注目された思想の紹介を主な作業としてきたが、社会にかんする思想が特定の言語の中での熾烈な討論を通して深められることを考えれば、一方的な紹介だけでは不十分である。松原隆一郎は、日本における思想家たちとの架空の対話により、将来へ向けた共通の議題設定を試みている。経済において日本が真に独自の思想をもつためには、このような試みは、今後、われわれが習慣とすべきものである。

第4章「レギュラシオン経済学の現在」は、すでに30年を数えるレギュラシオン・アプローチの全貌を捉えた紹介の上に、今後、この学派が向かおうとする方向を展望している。レギュラシオン理論は、フォーディズムと名づける経済体制=蓄積体制の全体像を示すところから始まった。それは資本・賃労働関係に重点をおくものであったが、現在はフォーディズムに代わる金融主導型成長体制ともいえるものが出現しており、その解釈をめぐって第1世代に分裂がある。第2世代の経済学者は、これに対し「社会的イノベーション・生産システム」の概念により理論の再構成を図っているという。

第5章「マルチ・エージェント経済学の現在」は、エージェント・ベースのモデル分析の現状報告ではない。著者は、エージェント・ベースの経済学が新古典派とはことなる社会経済像をもつと主張し、ケインズの再解釈を例ににとりその主張を裏付けている。それは従来の経済学を再解釈・再構成使用とする強固な意志の表出である。マルチ・エージェント・モデルの構成方法にとどまらない学説史への独自の切り込みが吉田雅明ならではの貢献である。

第6章「実験経済学の現在」は、この領域の考え方の詳細な紹介である。実験経済学が被験者の選好を統制すべく試みたさまざまな工夫が紹介されているが、著者が最後に指摘するように、統制が行き過ぎると人間本来の認知や思考様式が見失われるというジレンマを実験経済学は抱え込んでいる。こうした著者の結論を理解するためには、やや専門的すぎるかも知れない解説をきちんと辿ってもらう必要があろう。著者の結論は、今後、社会学や文化人類学、文化心理学のとの共同作業が必要とされるというものである。





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