塩沢由典>自著紹介>関西経済論 原理と議題>まえがき

著者自身による紹介


『関西経済論 原理と議題』

晃洋書房刊、2010年3月30日発行。

「はじめに」を一部脱漏を補正して掲載します。
本書を書いた動機・趣旨などを説明しました。

はじめに

塩沢由典

2009年8月30日は、民主党の大勝と自由民主党の壊滅的敗退により、戦後政治の根本が大きく変わり始める日となった。霞ヶ関と象徴される中央集権体制が、今後、どう変わっていくか予断を許さないが、今後の展開によっては、これまでのような掛け声だけの地方分権化でなく、この国の形を大きく変える改革も可能な状況がうまれた。

しかし、地方分権を本当に進める用意が、日本にできているのであろうか。わたしの専門とする経済学に限ってみても、地方の経済政策・産業政策を立案・実行していく準備ができているとは、とうてい思えない。国が産業政策の基本方向を示さなければ、みずからの地域の戦略を立てることができない地域が多いとすれば、地方分権は有名無実となってしまう。


固有名詞をもった地域経済論

準備不足は、府県の企画部門がいまだ国の指示待ちだという問題に留まらない。地方の時代を支える学問自体がいまだ存在しないか、存在してもきわめて未熟な状態に留まっている。経済学でいえば、経済政策を考え運営する基礎として日本経済論があるが、府県単位であれ、もうすこし広域の地方単位であれ、それらを対象とする固有名詞をもった地域経済論は、きわめて不十分な状態にしかない。

既存の地域経済論には、2つの根本的な欠陥がある。ひとつは、地域の産業や経済について個別の研究や調査はあるが、地域経済の全体過程を考察・分析するものがほとんどないことである。それを可能にする理論的枠組みも明確でない。もうひとつの欠陥は、地域経済の発展や停滞・衰退に関する原理的考察を欠いていることである。多くの論考は、現状報告でなければ、歴史的推移を追跡したものに限られている。実証研究と称してたくさんの論文・報告が生み出されているが、断片的な知識を増やすのみで、地域経済のあり方に示唆を与えるもの、認識の改変を迫るものはきわめて少ない。

この結果、政策面でも、2つの問題が生まれている。第1に、地域の産業振興・経済振興に関する提言は、場当たり的・個別的なものとなっている。第2に、地域の経済を発展させる基本のメカニズムに注意が当たらず、議論の多くは国の施策の追随か改善を求めるもの、あるいは他地域での成功例の導入を訴えるものに終わっている。

地域経済論の2つの欠陥が生じたのは、偶然ではない。その第一の理由は、明治維新以来の日本の統治機構にある。中央の法律と予算配分によって、すべてが詳細に決定される結果、地方の頭脳機能が失われ、地域の研究は、決められた枠の中での個別課題の調査・研究に限定されることになった。このような状況を変えることなく、真の意味の地方の自立はありえない。

地域の経済学が成立しなかったもうひとつの理由は、経済学そのものにある。経済学が学問として自立したのは、アダム・スミスの『諸国民の富』(1776年)による。表題から分かるように、経済学は国を単位として自立した。その後230年間、このことは基本的に修正されていない。これが地域を単位とする経済学を不要のものと考えさせる原因となった。このため、地域経済論は、経済学の中核とは考えられず、国を単位とする経済学(日本の場合であれば、日本経済論)を補完するものとしてしか考えられてこなかった。


経済学の現況と経済の閉塞状況

地域経済論の現状と裏腹の事態として、マクロ経済学の現状がある。20世紀後半に成立したマクロ経済学は、サミュエルソンの「新古典派総合」に代表される管理主義的なものであった。1970年代以降のマクロ経済学は、ケインズの経済学とはまったく正反対のものになった。ニュークラシカルであれ、ニューケインジアンであれ、1970年代以降のマクロ経済学は、一言でいえば、「供給制約の経済学」という性格をもっている。それらの理論が想定していることは、経済成長を規定するものは、資源や資本、技術などの供給制約であるというものである。需要の不足ないし需要飽和という事態はそもそもの仮定から排除されている。

日本や他の先進経済における基本的な問題は、供給ではなく、需要にある。しかし、現在のマクロ経済学には、そうした事態を考察する枠組みがない。現状に対処する有効な手段をもたないが、多くの経済学者や分析家たちはそのことを自覚していない。そのため、景気が悪い、経済が停滞しているとの理由で、あらゆる種類の景気刺激政策が提案される。政府も、そうした世論に押されて、財政出動からゼロ金利、円安誘導、制度上の規制緩和までを動員している。その結果もたらされたものは、供給過剰と不況、外需依存と金融バブル、失業と経済格差の拡大であった。日本はまさに出口なしの状態に追い込まれている。

このような閉塞状況は、経済学の現況に呼応するものである。経済学は、ほんらい、これら閉塞状況を打開するために存在する。しかし、現状では経済学が閉塞状況を作りだす一因にまでなっている。この事態には1970年以降のマクロ経済学に第一の責任があるが、では旧来の「ケインズ政策」に立ちもどればことが解決するかというと、問題の根はそれほど浅くない。

ケインズには、景気循環の一時期において需要が不足しているなら、政府の財政支出により景気を回復させれば、経済は新しい成長経路にのり税収が増え財政の平衡も回復する、という考えがあった。しかし、現在の閉塞状況は、景気循環の一局面としての不況と捉えて済むものではない。ケインズが想像することのできなかった「需要飽和」という新しい事態をわれわれは迎えているからである。

需要飽和の時代に健康な経済を実現するためには、旧来の経済学の発想を捨てなければならない。管理主義的思想を捨て去らなければならない。人類の発生以来、人間は食糧不足に悩まされてきた。現在のような飽食の時代にはからだが対応できていない。そのため多くの生活習慣病を生んでいる。経済もおなじように、長いあいだ供給制約のもとにあった。いま需要飽和の時代にあっても、経済政策の多くは、供給制約時代の発想を抜けだせていない。そのため、糖尿病患者に米を勧め、通風患者にビフテキを勧めるような経済政策が採られている。需要飽和経済では、旧来の発想を捨てて、健全な経済とはなにかという基本的な問いから再出発しなければならない。需要のあり方を問いなおすことは、われわれの価値観やライフスタイルを問いなおすことでもある。過剰な豊かさの一方、失業と貧困がある経済であってよいわけではない。


閉塞状況をどう打開するか

現在の閉塞状況は、経済と経済政策と経済学の3者が絡み合って生まれている。このような深い閉塞状況を打破するには、スミス以来の経済学の伝統そのものを問い直さなければならない。経済学は、重商主義の時代以来、国民国家を単位として経済の発展と停滞・衰退を考えてきた。そのために地域経済論が国を単位とする経済学を補完するものとしてのみ考えられてきたことは上に触れた。国を経済発展の単位とみる考え方は、経済の発展過程そのものを抽象的に考えさせる癖を作りだした。管理主義のマクロ経済学、新古典派マクロ経済学がともに抽象的な考察におわり、発展の機微に触れることがないのは、焦点を当てるべき対象を見誤っているからにほかならない。

経済学の革新のためには、国を単位として経済を考えるという固定観念を捨てなければならない。本書は、経済発展の単位は、都市およびその都市地域にあるという考えに立っている。この考えをわたしはジェイン・ジェイコブズに負う。この基本的な考えによって、本書の全編は構成されている。現在の経済学にたよるのでは、なぜ現在の閉塞を打開できないかについては、内編第1章で説明した。ジェイコブズといかに出会い、かのじょの考えとともにどう考えてきたかについては、内編第6章に書いた。


本書の成り立ち

本書は、内編と外編に大きく分かれる。内編では、わたしの考える「原理と議題」が示される。その意図については、後により詳しく説明する。外編では、さまざまな機会にわたしが書いてきた、関西経済への分析・提言を集めた。論理的には、内編が原理であり、外編はその応用・各論であるが、現実には、まず外編の諸論文が書かれ、その執筆過程で次第に必要と感じられるようになった原理と議題をまとめたのが内編である。内編の第1章と第2章とが関西経済の現状分析よりは、経済の発展過程の原理的考察に費やされているのは、先に触れた経済学の閉塞状況があるためである。

地域経済論は、日本経済論を補完するものではない。むしろ、地域経済を積み上げることで日本経済の問題点が見えてくるものだと思われる。このような考えをわたしがもつようになったのには、長い経緯がある。内編第6章に詳しく書いたように、わたし自身、関西の経済活性化に関してさまざまな調査や提言を行なってきた。そのひとつひとつは、与えられた課題の中では、一定の意義をもつものだと自負している。しかし、20年以上、そういう調査・提言を繰り返すうちに、このような努力を積み重ねても、関西の問題はけっして改善されないのではないかと考えるようになった。調査研究や提言は、毎年、おびただしい数が出されている。それらの多くは、ただ報告されるだけで、あまり読まれることもなく放置される。次の年には別の課題が降ってわいて、調査と提言がなされ、放置される。こうしたことのくりかえしとして、関西経済の地盤沈下はすでに半世紀以上続いている。

良い調査・良い提言を行なうことだけによっては、関西経済は改善されないのではないか。より根本的ななにかが欠けているのではないか。地域の経済発展に関する原理的考察が必要なのではないか。こうわたしは考えるようになった。他方には、マクロ経済学・ミクロ経済学の現状に対する不満もあった。その大きな骨格を作りあげるにあって核となる考えをジェイコブズが与えてくれた。関西という固有名詞をもった地域経済論の原理論を書いてみたいという構想がこうして生まれた。

しかし、その構想は漠然としたものに留まっていた。一冊の本として『関西経済論』を書くことを決意したのには、明確な契機がある。関西アーバン銀行の寄付により、京都大学経営管理大学院に関西経済経営論の寄附講座が設置され、その担当教授(客員教授)にわたしが任命されたからである。このような機会がなければ、わたしが関西経済論についてまとまった本を書くことはなかったであろう。もしこの本が、関西経済論あるいは他の地方の経済論のひとつの踏み石になりうるとすれば、それはこの機会を作ってくれた関西アーバン銀行と伊藤彰彦頭取(設置時、現会長)のおかげである。地域の発展を研究する学問のために、このような決断を行なってくれたことに、深く感謝する。これは地域銀行の社会貢献のひとつの模範事例となると思われる。


原理と議題

本書の表題には「関西経済論」に加えて、「原理と議題」という風変わりな補足が付け加えられている。それは、本書の特徴と限界とを示している。

第1に、本書は、関西の経済発展の原理を扱っている。関西のような世界屈指の豊かな地域が、多くの失業を出すことなく今後も持続した発展を遂げるためには、なにが必要か。健康な経済を取り戻すためにはなにが必要か。それを考える基本の枠組みを提示することに努めた。そのためには、マクロ経済学がもつ問題点を指摘することから始めざるを得なかった。内編第1章全体がげんざい主流の経済学の批判となっている。

第2に、本書は、関西の経済発展を考える上で必要な、地域が共通に考えるべき議題について論じている。経済学の本に「議題」という主題が取り上げられることは珍しい。しかし、経済や政治に関する頭脳機能がほぼ失われている関西においては、このような根底の問題から再出発しなければ、地域としての真の自立はありえない。経済政策がすべて政府/行政の行なう政策に限定されている現状にたいし、地域全体で取り組むべき政策(あるいは草の根の政策)があるということを示す意味もある。

関西には独自の議題設定能力が必要だ。それは、ふたつの水準で求められる。ひとつは関西という地方がこんごの社会・経済・文化・生活のあり方について、自分たちがもつべき議題設定の能力を指す。具体的議題のいくつかの例は外編の各章で扱っている。しかし、問題は、個々の議題をいかに分析し議論するかではない。それ以前に、議題設定能力そのものを問題としなければならないところに、関西の(あるいは全国の地方の)置かれている状況の深刻さがある。求められるもうひとつの議題設定能力は、関西経済論という学問領域がもつべき議題設定能力である。現在の地域経済論には、重要な議題のいくつかが空白となっている。域内の情報回路や頭脳機能、さらにはその欠落を補う方策についての議論がきわめて少ない。大きな戦略を提起する力も少ない。関西経済を構造的に考えるには、原理と議題を根本的に考え直す必要がある。関西経済論という主題に対する「原理と議題」という風変わりな補足は、この意味でつけられている。

原理と議題に集中したため、外編を除き、本書は、実証的な研究も具体的な政策提案も欠いている。それが必要でないという意味ではない。完成した形の関西経済論には、関西を対象とした経済史と現状分析とが必要である。関西以外の地域(そこには世界各地の地域をふくむ)の動向も、関西経済の環境として考慮しなければならない。しかし、それを展開するのは、次の世代に期待したい。日本経済論は、何世代もの学者の努力によっては形成されてきた。関西経済論という学問は、まだ始まったばかりである。本書が示すのは、そのひとつの出発点にすぎない。


内編の構成と主題

内編の第1章では、すでに触れたように、現代経済学の問題点を整理した。供給制約の経済学から需要制約の経済学へと経済理論を転換させることの必要と、経済の発展単位と国から都市へと移動させることの必要とを説いた。第2章では、発展した地域経済が自律的に発展する要件として、需要創造と生産性向上が議論される。その際、都市圏の規模がどのように影響するかが検討される。第3章では、はじめて関西の中核となる京阪神大都市圏が明示的に取り上げられる。そのさい鍵となるのは「一日交流圏」という概念である。この概念によって世界で4番目に豊かな都市圏である京阪神都市圏のもつ可能性が議論される。第3章は「知的沸騰都市のために」という項で終わっている。社会・経済のあり方からわれわれのライフスタイルや価値観までが、すべてがわれわれの批評の対象であり、熾烈な討論の対象である。それのような都市であってこそ、需要飽和の時代の新しい需要が創造できるとわたしは考えている。

内編の第4章と第5章では、関西という地域がみずからの頭脳機能をもつための2つの議題を取り上げている。第4章では、関西域内に流通する情報の重要性と、潜在的可能性をいかに活かすかを論じた。リチャード・フロリダ(R. Florida, 2005b)は、才能を集まる都市が発展すると主張しているが、才能を開花させるには地域の人材発見機能・人材育成機能が重要である。域内の情報回路には、他にも重要な働きがあるが、そのもっとも重要なものは、この人材の発見・育成機能であろう。

第5章では、関西の議題設定と頭脳機能のあり方を変え、京阪神大都市圏の潜在力を発揮させるひとつの方策として道州制を取り上げた。道州制は、こんごさまざまに議論されていくであろう。しかし、現存の中央集権制と政府間関係を維持したまま、ただ府県の境界を拡大するもの(府県合併)であってはならない。平成の大合併は、行政効率の向上のみを考えて、基礎自治体が自立する可能性を却って弱めてしまった。道州制がその二の舞を踏むものであってはならない。地域経済が自立し発展する構造をもつためには、立法権と財政自主権が絶対に必要である。

地域が自分で考え自分で決定するためには、議会での議論と議会の外での議論の2つが活発に起こらなければならない。地方議会に実質的な立法権が広く確保されなければ、地方の頭脳機能は鍛えられない。域内に流通する情報回路がなければ、外での議論は深まらない。問題は鶏と卵の関係にある。活発な議論がなければ地域の情報回路は強化されない。地域の情報回路がなければ、議論はもり上がらない。同じ関係が道州制と地域の情報回路のあいだにもある。道州という制度を作るだけでは、道州制は機能しない。しかし、立法権と財政自主権とをもつ道州制は、地域の情報回路を強化する大きなきっかけとなる。この意味では、第4章と第5章とは、相互に補完的な意義をもっている。現在の地方議会に立法能力がないことをあげつらうのは、ためにする反対論でしかない。

内編第6章は、内編全体に対する補論であり、外編に対する導入でもある。国を単位とするふつうの経済学を学ぶところから始まったわたしが、どのような学問上の出会いと思考を経て、内編の「原理と議題」を構想するようになったかについて書いた。


外編の概要といくつかの主題

外編については、各章の最初に解題をおいたので、それを読んでほしい。内編が「原理と議題」に焦点が絞られているとすれば、外編の各章は、関西が直面している各種の問題に関するわたし自身の考察である。

外編の多くは、時務の文章である。依頼者からおおまかな主題を提示されて、それを受けて書いた。内容構成その他は、もちろん、わたしの判断によったが、多くの読み手は、わたしがいぜん書いたものなど読んでいないと想定せざるをえなかった。また、さほど長くない文章中に、状況分析から、問題の考え方、対処の仕方などをひとそろい提示する必要があった。挿話もあまり長いものにはできない。短い文章で説明できる、もっとも分かりやすい例を引くことになった。そのため、いくつもの章で、おなじ主題・おなじ素材がくりかえされている。

たとえば、情報の問題は、外編第1章、第4章、第6章、第7章、第8章、第10章で取り上げられている。地域経済を論ずるものとしては、異例の頻度いうべきであろう。これは地域に速く短く回る情報回路をもつことが、新産業育成やトレンドの形成、創造的人材を発見したり引きつけたりするのに欠かせぬこととわたしが考えていることによる。

ただ、わたし自身も「域内の情報回路」という主題を最初からもっていたわけではない。外編第7章は、1999年の講演を元にしている。このころまで、わたしは表題のとおり「関西からの(全国あるいは世界に向けての)情報発信」を情報問題おけるもっとも重要なことと考えていた。これは多くの方がもっている、地域の情報問題に関するふつうの考えであろう。わたし自身も最初はそう考えていた。しかし、なんども書き、また講演をしているうちに、情報発信の前により重要な情報問題があると気がついた。それが域内の情報回路の問題である。域内の情報回路がうまく機能して、はじめて発信するに値する情報が作られる。それなしに情報発信だけを振興しようとしてもできない。このことに気づいてみると、域内の情報回路の問題は創造都市を創造することから新産業を創造することまであらゆる課題に関係していることが分かった。結果として、あらゆる機会に情報問題に言及することになった。内編第4章は、域内を回る情報の重要性について、もういちどまとめなおしたものである。

内編と外編の2部構成としたのには、原理をあつかう内編では各論に入りきれないという制約があるからだけではない。関西経済論として議論すべき議題として、いまいちばん重要なものとして、内編第4章で情報回路、第5章で政府構造を取り上げた。しかし、関西の持続的な発展を考えるとき、必要な議題はとうていこの2つには収まらない。たとえば「地下街の振興」というひじょうに小さな領域の問題であっても、考えるべき要素(つまり議題)は多岐にわたっている。考えるべき事項をリストアップすることでは、必要な議題を確保することはできない。新しい課題には、新しい議題を必要とする。総論として考えるべきは、新しい議題がどのように生まれ、議論され、人々の共通の目標にまで具体化されていくかという過程と構造である。それが地域の議題設定能力をかたちづくる。地域内を速く短く回る情報回路などに、地域の議題設定能力は育たない。

情報問題以外にも、外編の各章で繰り返されている主題は他にもある。たとえば、産業構造・就業構造は経済が成長するにしたがって変わらざるをえない。この点は、内編第2章と外編第2章で取り上げている。そのとき重要なのは、分析を超えて展望を示すことであろう。第3次産業が60%をこえ、さらに比重を増やさなければならないとき、どのような産業に着目すべきか。その一例として、わたしは「時間充実産業」(詳しくいえば「時間充実支援産業」)という概念を考えている(外編第2章)。こうした産業では、自動車や家電のように1社が何万人もの雇用を生み出す巨大企業が育つことはあまり考えられない、それよりも、1社は小さいが、数多くの企業が生まれることにより、産業全体としては多くの従業者が働くという構造をとると思われる。このような産業は、研究対象としても政策対象としても、これまであまり光が当たられてこなかった(内編第2章第2節)。外編の各章の多くでは、企業としては小さいが、数は多い産業の振興を考えている。


創造都市の考え方

外編の第1章から第6章まで、統一した主題となっている「創造都市」は、こうした企業が数多く生まれ活躍する都市をイメージしている。「創造都市」という概念自体は、イギリスで生まれたといってよいが、創造都市を創造する運動や政策は、外国の模範例の後追いであってはならない。とくにコンテンツのように、複製メディアを通して世界的に享受できる商品では、先導性や中心性が重要な鍵となる。この点はファッションでも同様である。

このような産業では、ふたつのことが留意されなければならない。ひとつは、トレンド(新しい傾向)をつくりだす仕組みを地域がもっているかどうかである。流行を他の都市地域(たとえば、東京とかニューヨークとか)から輸入する都市では、先導性・中心性は確保できない。ここに、地域の情報回路から批評の問題まで、従来の産業論ではあまり議論されていない主題を取り上げるべき理由がある。

留意すべきもうひとつは、コンテンツ性の強い産業では、同一文化圏内に2つの中心が並立することはきわめてまれだということである。他の都市地域に先導性・中心性があるとき、関西に第2の中心を作ろうとしても、よい結果は得られない。産業育成のために第2中心を作っても、そこに生まれる有能な人材はいずれ第1の中心に移動してしまう。そうなると、地域の産業を育成するつもりが、結果としては人材供給基地を造ることになりかねない(外編第3章)。こういう構造があることに留意して、後追いやものまねでない産業育成・文化振興が考えられなければならない。

こうした問題を考えるとき、具体的な課題の考察に当たっては、@地域の可能性とA他地域の動向の2つに関する知識が不可欠となる。@を見極めることがあらゆる政策の前提である。自律的に発展できる要素をもっていないかぎり、地方政府がいくら税金をつぎ込んでも、実現できることは限られている。Aが必要なのは、他の都市地域(とく東京)の傾向を後追いするのでは、けっして高い成果が得られないからである。第2次大戦後しばらくして、大阪は東京の後追いをするのが常例になってしまった。そうした思考習慣が大阪の経済的地盤沈下を半世紀以上も続けることになったひとつの要因である。今後は、この思考習慣を切り替えて、まねをしない・二番煎じにならないために東京を研究しなければならない。

この理由から「後追いではだめ」という主題が外編の各章になんども現れる(外編第1章・第4章・第5章・第6章・第10章)。地域が創造的な頭脳機能をもたなければならない理由がここにある。ただ、世の中にまったく新しいというものはない。世界で1・2位を争う東京という巨大な都市圏をおなじ文化圏にもつ関西にとって、関西に可能性があり東京がそろえていない機能・産業を探し出すことはほとんどできない。しかし、チャンスがないわけではない。企業経営とおなじく、産業にも、イノベーションのジレンマがある。産業の大きな転換点にあっては、既存の蓄積や過去の習慣に染まった人材を持たないことがチャンスとなる。時期に応じたチャンスを掴むことが重要である。しかし、そのような時期は、わずかの時間で過ぎ去ってしまう。したがって、チャンスがある場合には、戦略的な意思決定と議題の広い共有とが必要となる。このような機能は、現在は、不満足ながら経済団体が担っている。しかし、将来は、道州政府がそのような戦略的役割を果たすべきであろう。


欠けている論点

本書が関西経済論であり、京阪神大都市圏を主たる対象としているため、政策論としては欠けている明確な論点がひとつある。それは、大都市以外のいなかが健康な経済を維持するためには、どう考え、どう取りくむべきか、という問題である。この問題に対する原理的な考えの提示は、いなかに住む人たち自身か、その人たちとともに考えている思想家たちに待つべきものである。この点については、内編第5章の最後の部分をのぞいていっさい触れていない。

経済発展の単位は都市であるという考えからひとつの示唆を出すとすれば、いなかのとるべき戦略は、大都市との連携であろう。それは規格化と標準化によって全国の流通に乗せようとするものではない。耕作の限界地で米を作りつづけようとすれば、厳しい環境ゆえに生まれる米の良さを理解してくれる少数の消費者が必要である。そのような少数者は都市のなかにいる。多様で少量の生産物を採算にのせる機構は、内編第2章で取り上げた多様な需要を都市が可能にする機構と同一である。ただ、多様な少量を生かすには、都市の少数者に届ける仕組みが必要である。このような仕組みは自動的に生まれるものではない。媒介者が必要である。この媒介者は行政の人間とはかぎらない。連携・媒介の基本は商機能であり、知恵のある商人たちの働きが重要である。媒介者を自分たちが生みだすという視点も大切である。農と食の新しい連携のためにも、都市に注目することは必要と思われる。


謝辞

本書の内容は、過去20年以上にわたる調査や提言、シンポジウム・研究会などでの意見交換・情報交換、関西活性化研究会での討論、そして京都大学での講義「関西経済論」(半期講義を3回)に対する学生諸君の質疑によって具体性と強さとを与えられた。その蓄積なしには、このような本を書くことはとうていできなかった。その意味で、本書の内容の多くは、知的共同作業の結果である。京都大学経済学研究科学生を中心とするD. Warshの読書会(月曜研究会)のメンバーには、本書の原稿を読んで意見をもらった。寄附講座特別研究員の三輪仁氏と晃洋書房の丸井清泰氏にも、内容上や論点に関し第一の読者としての多くの助言・提案をいただいた。その結果、内編第1章は完全に書きなおす結果となった。おかげでわたしの意図するものをはるかに見通しのよう形にまとめることができた。索引項目の選定は三輪仁氏による。

掛け持ちの職場という状況の中で、本書をこのような形にまとめることができたのは、寄附講座の同僚・秘書の方々のおかげである。本書をまとめる直接の機会は、すでに述べたように関西経済論を主題とする寄附講座の設置によって与えられた。寄附講座の設置に当たって尽力された関西アーバン銀行と京都大学経営管理大学院の関係者に感謝する。2年間にわたり寄附講座教授の併任を認めてくれた中央大学商学部にも感謝する。

上に述べたように、京都大学で過去3回「関西経済論」を講義させてもらった。これに関係して個人的な希望がある。経済学部をもつ日本の大学には、どこにも日本経済論がある。しかし、関西の諸大学をみても、関西経済論の講義科目がおかれている大学はごくわずかである。設置されていても、オムニバス授業や非常勤の教員による講義がほとんどである。本書の出版が契機となり、関西の経済学部・経営学部に関西経済論が常設の科目として設置されることを希望したい。もちろん、地方の分権の時代には、こうした必要は関西にとどまらない。日本の各地方で、それぞれの地域経済論が構築され、講じられることが必要であろう。そうした日が実現する一石に本書がなればさいわいである。


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