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『方法としての進化』 序章「解説」

塩 沢 由 典  .

1.はじめに  本書は、進化経済学における最近の研究動向を紹介して、その現状と可能性とを読者に明らかにする意図をもって編集された。本書に収録された論文は、すべて新たに書き下ろされたものであるが、その原型は進化経済学会の創立以来の3回の大会(第1回京都大会〜第3回大阪大会)で発表された報告にある。進化経済学会にはさまざまな考えの研究者が集まっている。本書は、編集者であるわたしの目からみて興味があり、この方面の研究にそれぞれひとつの方向を示していると思われるものを選んだ。学会のある傾向を示すものとはいえるが、けっして代表的でも平均的でもないことを断っておきたい。また、各章はそれぞれの著者の独自の立場を表明するものであり、本書の各章の立場がすべて統一されているわけではない。進化経済学が、今後、経済学の中に確たる地位を占めるためには、本書に収録された諸論文が提起している論点を踏まえていただくことが必要だとわたしは考えている。もちろん、そこに提起されている論点のすべてに賛成してもらう必要はない。論文の中には、かなりに論争的なものもある。むしろ、わたしは、この一冊が種たねとなって、学会の内外に議論の輪が広がることを望んでいる。

全部で8本の論文を取り上げ、それらを3部に分けた。

 第1部には進化経済学のあるべき方向をさぐった展望論文2本を収めた。第1章では主として進化経済学の分析枠組みの問題が、第2章では実証的研究における「方法論的進化論」が論ぜられている。

 第2部には、進化経済学の諸学説により接近した形で進化という方法に対する3つの考察を取り上げた。第3章では新制度派経済学の研究の諸成果が、第4章ではルールと自生的秩序の哲学者ハイエクが、第5章では行動等の定型と過程の定常性の関係が論じられている。

 第3部は、「進化経済学の諸相」と題されているが、じつはすべて金融市場に関する考察である。ただ、そこへの迫り方は3者3様であり、進化経済学の方法の多様さを示している。第6章では金融市場における期待形成が、第7章では時系列データの新しい分析手法が、第8章では市場を理解するための新しい枠組みの構想が、紹介されている。

これら各章を通じて、経済学における進化という方法の大枠とその可能性とを理解してもらえるものと思う。これらの論文には、実証研究そのものの成果、コンピュータ・シミューションの具体的展開、社会思想史的な考察などは含まれていない。これはそれらの研究が重要でないという意味ではない。意図はむしろ反対で、学説史研究を含めて、将来、それらの方面における成果を学会としてまとめられればよいと考えている。本書の役割は、いまだ日の浅い日本の進化経済学に方法上の刺激を与えることにある。

解説では、第2節から第4節まで、各部ごとにそれぞれの論文を取り上げ、その意義や特徴の解説を試みた。むすびにあたる第5節では、本書を通じてみえてきた進化経済学の輪郭についてわたしなりの整理を試みた。

2.進化経済学の方法/第1部

第1部は、理論研究と実証研究という異なる分野に携わってきた二人からみた進化経済学の方法に関する討論である。ともに生物学における進化理論との類似と相違とを念頭に置きながら、経済学の研究方法としての進化という見方の可能性を探っている。

第1章「進化経済学の課題」は、日本における進化経済学の今後の課題の検討を試みたものである。日本は、進化経済学において後発国であるが、そのゆえの有利さをもたないわけではない。第一に、日本は生物進化論のデパートであり、総合説に対する多数の異論をもっている。第二は、進化経済学の新しさゆえに取り得る出発点の自由さがある。本章の前半は、生物進化論における異論との対比において、経済学における「進化」という視点をどう捉えるかを論じたものである。経済学において「進化」を問題にするとき、突然変異の発現についても、それらの選択についても、生物学とは異なる視点が必要とされるかもしれない。たとえば、商品や技術の開発には、市場における事後的な選択の前に、企業内部において事前の評価に基づく選択が作用する。したがって、進化といっても、生物学進化論における総合説を経済学に直輸入することでは、経済の進化過程をただしく分析することはできない。この点は、進化という方法を取りながらも、経済における進化の独自性を強調する第2章藤本論文と、軌を一にしている。

 第1章の後半では、進化経済学の分析枠組みのひとつとしての進化ゲームを取り上げている。現在ひろく「進化ゲーム」と呼ばれているものは、本章では、「通常の進化ゲーム」と呼ばれている。このゲームの理論枠組みには、最小限の進化メカニズムが内包されているものの、進化がおこるべき空間が低次元の閉じた領域として与えられ、進化過程のたどりつくべき結果が均衡点として進化過程と関係なしに特定されている。この理論は、2種以上の制度や慣行の共存を複数均衡として説明するが、進化過程のモデル化としては単純すぎる設定であり、複雑な相互関係をもってつねにあらたな展開を遂げつつある技術や商品や慣行の進化の場としては、むしろ不適切なものではないか。著者塩沢由典は、こう考え、通常の進化ゲームに対比して、多数のエージェントたちがみずから仮説形成活動を行いつつ参加する市場を模擬するという研究を例示している。その手法として遺伝的アルゴリズム(GA=Genetic Algorism)が用いられるが、進化の展開する場の複雑さをどのように捉えるかは、進化経済学にとつて重要な問題であろう。マルティ・エージェント型のシミュレーション研究は、すでに広く行われているが、塩沢はそこにミクロ・マクロ・ループという視点を組み込むことを要請している。これは環境とエージェントの間の「共進化」機構を組み込むことともいえる。塩沢が引く和泉潔たちの研究や第3部に討論されている課題からすると、この枠組みは金融市場の価格変動の分析に意外に適したものということができる。

 第2章「実証分析の方法」は、著者藤本隆宏のいう「方法論的進化論」に関する総括的な考察である。藤本は、観察された事実を整理し、それら諸事実を総合的に理解するためには「機能論と発生論の分離」が必要であると考える。その点を自覚的に進める研究方法を、藤本は「方法論的進化論」と名付ける。それは「説明対象となる進化現象あるいは進化するシステムをまず特定した上で、その分析のための手段として進化論的分析枠組みを考案するのではなく、逆にまず実証分析の進化論的枠組み(方法論)を先に規定した上で、その枠組みでもって有意味な分析のできる対象を事後的に「進化するシステム」と判定する」ものである。

 藤本隆宏は、『生産システムの進化』などに示されているように、長く自動車産業の開発システムの研究を丹念な聞き取り調査をベースに展開してきた。トヨタ自動車の生産システムには、世界的に注目されるさまざまな特徴があるが、藤本はその多くが「強いられた生産量成長」の生み出したものだという。多能工育成と多工程持ち、部品メーカーとの企業間分業の促進、既存設備を生かした改善や自動化、フレキシブルな作業標準システムなど、ジャスト・イン・タイム方式とならぶトヨタ生産様式の諸特徴は、主として1960年代の販売・生産量の急速な成長によって「やむなく」取った方式が事後的に評価されて、発展・定着したものである。開発過程におけるサイマル・エンジニアリングや主査制度、承認図制なども、事前に意図したものというより「不完全な技術移転による怪我の功名」として試行的に採用されたものである。そのような機会は他のメーカーにもあった筈であるが、トヨタの成功を特徴づけたものは、「事後的な能力構築能力」であり「進化能力」である、と藤本は結論する(藤本、1997、第3章)。

 方法論的進化論は、このような考察にいたる実証研究の進展とともに成長してきたものである。「特定の理論に初めからコミットするということはあまりせず、実証分析の目的にあったアプローチを後から探してくるという研究スタイル」(藤本、1997、p.130)を意識的に追及した結果、選び取られたのが「進化論的な枠組み」であった。現実の複雑さの中で、有効な開発システム・生産システムが創発してくる過程の分析には、進化という視点が不可欠である証拠であろう。藤本の研究は、進化経済学の目指すべきひとつの模範例を与えている。

 第2章で藤本隆宏が試みている論点のひとつは、選択の効果に対する一般の誤解を正すことにある。生物進化論における総合説は、一般に「厳しい淘汰」を想定してきたと藤本は考える。これは、「最適なものが生き残る」=「最適でないものは死に絶えている」という通説の想定している選択の効果である。これに対し、藤本は「緩やかな淘汰」を対置する。これは選択はつねに働いているが、異種・変種間の間の競争は「勝ち負けがただちに必ず決まる厳しい競争」というより、多数の種や変種が共存可能であるという考え方である。藤本は、木村資生や柴谷篤弘をひいて、生物進化論にも緩やかな淘汰の考えが見られることを紹介しつつ、市場における競争が「環境による緩やかな選択過程」であることを示唆し、そのような選択過程を想定するかぎり「ある任意の特定時点において観察されるシステムが、完璧な形で環境に適応しているものばかりだと考える必要はない」「むしろ、短期的には、存続しているシステムは環境に不完全にしか適応していないと考える方が自然であろう」と主張している。このとき、「発生論的」な説明がより重要となり、それは歴史の一回性を考慮するものにならざるをえない。藤本は触れていないが、「緩やかな淘汰」の働く過程では、進化の分析における、均衡解の意義はより小さなものにならざるをえない。

第1章・第2章に共通して強調されている考え方に、進化的に捉えられるものには、複製ないし特性の保持(=不変性)の機構がなければならない、という判断がある。この点に関し、藤本が次のように言っていることは重要である。

「こうした「不変性」の概念を企業システムに適用した場合、作業標準や官僚的な保守的なメカニズムも進化の重要な構成要素である、という一見逆説的な考え方が導かれる。例えば、「標準なくして改善なし」という命題は、工場の常識である。以上のようなメカニズムに組み込まれているかぎり、テーラー的な作業標準も、ウェーバー的な完了性も、進化するシステムの重要な構成要素ということになるであろう。社会システムの動態分析の場合、システム保持という機能が矢やもすると軽視されがちだったが、実際には保持機能が進化プロセスの屋台骨を支えていることは明らかであろう。」(本書、p.XX)

たとえば、制度を進化論的に考察することの優位性は、制度がまさにこのように保持されるものでありつつ、長期には変化していくシステムだからである。もっとも、明確な複製子をもち、それらが変化する過程のみを進化経済学の対象とすることには、問題があるかもしれない。制度の進化論的な研究には、種を単位とする生物進化論ばかりでなく、最近のサル学の知見などにも学ぶことが重要であろう。この方面では、たとえば黒田末寿(1999)などが注目される。

3.進化概念の再検討/第2部

第1部の議論が生物進化論との異同に焦点が当てられていたのに対し、第2部では、経済学の伝統における進化理論ない進化的捉え方がより具体的に検討されている。

第3章「制度と進化論的アプローチ」は、制度を主たる対象としかつ方法論的個人主義にたつ諸理論を総覧し、それらうちの幾つかを進化論的アプローチから再編・統合しようとする試みである。著者丹沢安治は、制度の発生と変化にかんするアプローチを、まず大きく集団的アプローチにたつものと個人主義的アプローチの二つに分類する。前者には、マルクス主義・(社会学の)構造機能主義・現代システム論・旧制度派経済学などがあるが、これらは「個人の意思決定による制度への能動的な関与を取り込むフレームワークとなっていない」と批判し、丹沢は個人主義アプローチを取る。わたしは、方法論的個人主義に立たない[1]。この点で、わたしは丹沢と立場を異にする。しかし、「集団主義アプローチ」あるいは「全体論的方法」が、丹沢のいうように、個人の意思決定を明示的に取り込む枠組みを提出することができず、(武谷三男のいう)現象論的な考察に終わっていることは否めない。この点については、マルクス経済学の伝統の中にも、植村高久(1997)のように「当事者理論の再構築」を主張するものも出てきているが、制度の生成と進化を考察する枠組みはいまだ明確になっていない[2]。丹沢は、明確な方法論的個人主義を掲げるとともに、合理性の限界の問題をおもく受けとめ、個人主義的に展開された3つの制度理論を取り上げ、それを進化論的視点から再構成することを試みている。

 この再構成にあたって、丹沢が重要視するのが「強い進化観」と「弱い進化観」との区別である。前者は最適なもののみが生き残ると考え、後者はより適切なものが生き残るが、現存するものが最適なものであるとは限らないと考える。アルチアンに始まる行動の進化論的見方について、新古典派系統の経済学では、従来この区別が不十分であり、それが原因となって、計算不可能性などないにもかかわらず、現行の企業行動が、進化の結果、最適になっているという説明がなされてきた(塩沢、1998、第6節をみよ)。たとえば、個人主義的契約論は、情報の不完全性を認めるが、人間に無限の情報処理能力を仮定している。このため、最適な決定のみが均衡状態として残存する強い進化観に契約論は立たざるをえない。これに対し、丹沢は、プリンシパル・エージェント理論をも含むこのような理論は、現実から掛け離れており、制度を有効にコントロールするための理論にはなりえないと判定している。それは、また進化論的アプローチと適合するものでもない。つねに最適化されてしまっているなら、進化論的説明は、その発生を説明するためには必要とされない。強い進化観に立つ進化論的説明は、じつは真の進化理論でない。丹沢は暗にこう主張している。これは進化経済学を進める上でつねに留意していかなければならない重要な論点である[3]。

丹沢は、基本的にはオーストリアンに属するショッターの流れを汲んでいる。かれの評価では、これは新制度派経済学の一支流をなす。かれの立場からは、「制度は人間行為の結果として発生してくるが、「人間のデザインによるものではない」」ことが強調される。これは、スコットランド学派から、メンガー、ハイエクへと受け継がれた立場でもある。

このような立場からは、当事者が無限合理性をもつ経済学は排除されるべきであり、そのひとつの帰結としての強い進化観が否定されるのは当然である。丹沢の考察が通常のオーストリアンやハイエキアンと異なるのは、かれが「進化ゲーム」の枠組みを用いる点にある。かれは、ショッターやアクセルロッドの研究を受けたサグデンの整理に従い、制度を長期的な視野に立って発見された暗黙の協調行動であるナッシュ均衡と捉えられる。この基本枠組みに立って、丹沢は、進化論的考察に適合的な二つの理論、プロパティ・ライツ理論(財産権理論)と取引費用理論を再解釈しようとする。この試みは、残念ながら、成功していないように思われる。丹沢は財産権理論と取引費用理論の諸成果をこの枠組みの中で語り直そうとしているが、それによって新たな知見が生まれたとも、あたらしい分析方向が見えてきたとも思われない。

 たとえば、ウィリアムソンよる事業部制の普及の進化論的な枠組みは注目に値するが、その中核は「意図されなかった側面」の発見にあり、それは進化ゲームの枠組みには入らない。この失敗は、しかし、重要な示唆を与えている。進化論的考察の枠組みとして「通常の進化ゲーム」(第1章参照)の理論的射程は、新制度派経済学の主要な諸結果にも及ばない。第3章は、それを例証している。制度の安定性の考察にあたって、そのナッシュ均衡としての性格に言及することは間違いではない。しかし、丹沢が意図するような「環境の変化とともに適合性を失ってきている」諸制度を「有効にコントロール」するためには、よりよい制度・慣行の発見や制度の改善・改革に関する本格的な理論枠組みを要する。それは初めから利得関数と戦略とが決まった通常の進化ゲームではありえない。弱い進化観への注目は進化経済学への偉大な貢献であるが、それを盛るべき器は別の所にあるといわなければならない。

 丹沢の論文でもう一点注目されるのは、かれが「進化ゲームの理論と統合された新制度派経済学」の「3つの問題グループ」と呼ぶ課題群である。これらはいずれも先行の新制度派経済学である程度解かれている。既存の3理論から抽出されたこれら問題群は、分類としてはよく整理されたものとはいえないが、制度の進化経済学が取り組まなければならない課題と到達点とを示している。進化経済学はこれらの成果を凌駕しなればならない。そうでなければ、進化という方法をとるわれわれの立場は正当化されないであろう。

第4章「進化経済学へのハイエクの遺産」は、経済学における進化論的考察に多くの重要な手掛かりを残したハイエクに関する論考である。ハイエクは「知識」、「ルールにしたがう行動」、「自生的秩序」といった概念を経済学にもたらしたばかりでなく、社会の秩序が人間行為の結果ではあるが、人間の設計したものではなく、局所的な知識しかもたない個人が学習や発見を通して知識を蓄積し、行動のルールを進化させるという秩序観を経済学にもたらした。ハイエクは、社会や経済を進化論的に見るという傾向を復活させた中心人物のひとりである。著者尾近裕幸は、しかし、ハイエクから進化経済学が学ぶべきものを、ハイエクが残した進化に関する断片に求めない。むしろ反対に、尾近は、ハイエクの知的生涯を「「均衡」概念からの離反のための奮闘」と捉え、その離反が可能にしたものとしてのハイエクの「隠れた経済学」こそが、進化経済学が受け取るべきハイエクの遺産であるとする。

 尾近と丹沢は、ともにオーストリアンの流れを汲み、ハイエクの「人間行為の結果ではあるが、人間の設計したものではない」秩序の在り方に注目するが、均衡理論の対する態度では、まったく反対の立場に立っている。尾近は、ハイエクの苦闘を「「均衡」概念からの離反の奮闘」と捉え、そこにハイエクの可能性を見る。丹沢は、ハイエクが基準としたワルラス均衡をゲーム理論におけるナッシュ均衡に置き換えることで、ルールの進化を考察する枠組みを得ようとする。わたしの立場からみれば、ショッターや丹沢の進化理論の枠組みを困難にしているものは、まさにこの均衡への固執である。均衡理論は、20世紀の経済学のほとんどを被覆する普遍的枠組みである。既存の理論に頼る限り、最初の手掛かりが何らかの形での均衡理論であることは仕方がない。しかし、真に進化論的経済学の枠組みを作るには、われわれはハイエクとおなじく均衡理論に対する離反の格闘を必要とするのではないだろうか。

ハイエクの「隠れた経済学」とは、経済学を離れた後のハイエクが抱いていたと推定される(あるいは再構成される)経済学のことで、ヴォーン/ボーン[編集者用注:第4章で尾近は「ヴォーン」を使っているか、「ボーン」を使っているか。再校を見て、どちらにするか確定すること]の提唱になる。ヴォーン/ボーンはハイエクの隠れた経済学の中心問題を知識の獲得とその社会的利用にみる。知識は制度を通じて世代を超えて蓄積されていく。これに関連してヴォーン/ボーンは次のようにいう。

「社会の伝統や制度は、道具(tools)に似ている。というのも、それらもまた、おそらく数千年に及ぶ実験を通じて蓄積してきた、問題解決のための知識を体化しているからである。」(第4章からの再引用)

尾近によれば、「制度を道具に喩えて理解すること」はふたつの意味において重要である。一つは、道具の進化は長期間の小さな改良の累積的な結果であること、もう一つは、道具とその使い方の改良を進めるのは、それを作る個人であり、それを使う個人であることにある。道具の進化は集団的選択の結果のごとく見えるが、じつはそうではない。この観点は、制度の進化を理解するためばかりでなく、経済の複製子の他の範疇(すなわち商品、技術、定型行動など)の進化を理解するにも示唆的である。商品や技術、制度や定型行動は、個々人による改善・改良の世代内の学習や世代を超えた長期の累積の効果として存在している。これらはすべて知識に裏打ちされるべきものであるが、逆に、人間の知識の多くが、このような形で「もの」や「かた」に体化されていることは、言葉とそれによる記録とともに、知識の累積的蓄積を可能にする秘密でもあろう。

 このような知識は、いかなる場面で生きるであろうか。ヴォーン/ボーンと尾近は、価格について次のように語るハイエクを引用している。

「適応の過程は、どんな自己組織系の調整でもそうであるように、行為の期待された結果と現実の結果の差にたいしてこれらの差が縮小するように反応する、サイバネティクスが負のフィードバックとよぶようにれわれに教えてくれたものによって、作動する。将来価格がどうなるかについてのある指標を経常価格が提供する限り、つまり既知の事実の相当に不変な枠組みの中で、常に二、三の事実しか変化しないかぎり、これは様々な人々の期待の一致を増大させていくであろう。そして、ある人に知られるようになった事実が、価格に与える彼らの行為を通じて他者の決定に影響を及ぼすようになる、知識伝達の媒介として価格機構が働く限り、そうである。」(同前)

知識が社会で生かされるためには、ある種の定常性が必要であることをこの引用は主張している。重要な指摘であるが、それは同時に、ハイエクの方法論的個人主義の限界を示すものでもある。知識は、(ひろい意味での)経済・社会の定常性ないし反復性に基づいて獲得され、それに担保されて有効なものである。わたしが定常過程の優先性やミクロ・マクロ・ループという主題(塩沢、1998、第7章および第3章)で問題にしたのは、この点である。複雑な環境において、人間が有用な知識をもち、有効な行為を行いうるのは、環境の詳細な運動を予想してのことではない。経済がゆらぎをもつ定常的過程であり、繰り返しに満ちたものであることにより、知識は有用なものでありうる。この意味で、知識は、個人の形成するものである以前に社会や経済の現実の過程に条件づけられている。この意味で、方法論的個人主義は内部に矛盾を抱えている。

第5章「進化における定常性」は、尾近の考察の結論部分(つまりハイエクが苦闘の末に掴んだもの)から出発する。行為の定型にひとびとが従うのは、経済過程に定常性があるからだという考えに立ち、その定常性が経済行動の結果として現れてくる循環的な構造を考察している。「定常性」とは、すべての変数がおなじ数値を取り続ける状態ではない。著者森岡真史は、この点を次のように定義する。「定常性とは、ここでは、経済を構成する人々の多数が活動の多くの場面で、言語・文化から習慣・法律に至る種々の既存の定型(パターン)に従うことができ、また実際に従っている状況を表している。」

 わたしは、このような意味での定常性を「強義の定常性」と区別して「ゆらぎのある定常過程」と呼んできた(塩沢由典、1990、第11章)。あるパタンにおいて捉えられる定常性があれば、そのパタンを識別することによって、行為者は外界に対し有効に働き掛けることができる。視野と合理性の限界のもとにある人間が、その限界内で有意義な行動を行うためには、このような定常性はほとんど欠くべからざる前提である。経済学は、しばしば、行為者の選択を未来の予想の上においている。その際、ひとは、さまざまな定常性・繰り返しのパタンに基づいて推量している。ひとは、初期条件を与えられて将来を予想する計算機ではない。人間は、微分方程式を解いて未来を推定しているのではなく、経験から得られた時間的・空間的パタンを生かして、自分がこう働きかければ、事態はこう変化するだろうと推定し、その予測のなかで、自己の行動の適切さを推し量っている。不確実な将来に対して、主観的な生起確率を与えるという常套的手法も、その確率の妥当さは、ほとんど過去のデータに依存している。一定の定常性を仮定することなく、そのような推測を正当化することはできない。

行動の前提としての状況の定常性という主題は、ながく均衡という枠組みに隠されてきた。均衡理論は、シュンペータ(1977、上、p.36)が正しく定式化したように、ab ovoの構成という枠組みを取っている。均衡理論は、いくつかの与件を与えることで、たまごの状態から(ab ovo)すべてを再構成できるという前提を置いている。現実には、人間は、多くの場合、過去の経験を生かして、その知見の上にみずからの行動を組み立てている。あたかも過去をもたないかのように問題を設定する均衡理論の伝統においては、過大の予測能力あるいは計算能力を前提する以外に行為者に適切に行動させることはできない。フランク・ハーン(Hahn, 1984, 17)は、アローとドブルー型の一般均衡理論をその前提がより一般的であることを理由に、定常性を前提とするスラッファ・フォンノイマン型の定常過程の考察に優越するものとした。しかし、それは人間が限定された合理性しかもたず、したがってまったく新しい状況のなかでは有効に行動することができないという基本的な認識を欠いている[4]。

 定常性は、行為主体がルールにしたがって行動するとき、つねに暗に想定されていたものである。このような前提を明示的に考え、それを理論の出発点に置くことは、これまでほとんどなされていない。それは均衡理論に立つ新古典派経済学ばかりでなく、それ対立する立場に立つ人々によってさえも理解されていない[5]。しかし、経済過程のこうした定常性こそが、行動や技術、さらには制度が適切に機能する前提条件である。複製子としての行動や技術の進化は、森岡が指摘するように、他の多くの複製子との共生関係の中で進行するものであり、また第1章に議論したように、繰り返される状況との「共進化」として存在している。進化経済学の基礎に定常性が取り上げられなければならない理由がここにある。

 森岡真史は、サイモンやコルナイなどの先行研究を咀嚼した上で、塩沢由典の考えを参考にしながら、この重要な主題をみずからの枠組みとして再構成・再提出している。第2節で過去の学説の中での議論を簡略にたどったあと、第3節では定常過程の中での主要な行為形式である定型行動について考察している。定型行動は、状況の定義ないし類型化の局面と、そのようにして認知された状況に対応すべく取られる行為(典型的には外部への働き掛け)の局面とをもつ。もちろん、この関係が複合されて、あるプログラムにしたがって認知局面と働き掛け局面とが相互に交替することもありうる。塩沢は、このような定型行動をもっぱら主体と対象との関係において考察してきたが、森岡は、このような定型行動を社会的な展望のもとにおき、個人における定型の学習や伝達、レパートリーの拡大と補正、状況に応ずる定型の切り替え、その結果としての定型の階層構造、社会における定型の受容と強制などにつき、奥行きのある観察を提示している。第4節は、定型行動を進化理論における複製子とみたとき、それらの優劣が当事者意識においてどのように現れ、選択の対象となりうるか考察している。結果として森岡は、「明らかに不合理な」極端なケースを除いては、定型の優劣をつねに判定できるとは限らないとし、藤本隆宏のいう「緩やかな淘汰」にほぼ合致する結論を導いている。

 第5節は、森岡論文の中核となるべき部分である。ひろびとが視野と合理性と働きかけの限界のなかで、在庫などの切り離し機能に助けられて定型行動を行うとき、経済は全体としてどのような過程を生みだすであろうか。よくあるのは、定型的な行動は定常的な過程をもたらすという誤解である。定型的な行動が自己強化的に働くときには、このようなことは必ずしもいえない。森岡は、森岡真史(1991-92)以来、需要予測型の在庫調整モデルを詳細にかつ厳密に分析してきた。そこで得られた結論は、生産者の需要予測行動のタイプによって、経済全体での調整過程が外生需要変動に安定的に追随できたり、不安定化したりするというものである。今期の需要を来期・来々期の予想とする「近視眼的」な予測の下では、過剰な調整が起こり、外生需要の変化に追随できない。これに対し、移動平均法において数期の平均をとるか、指数平滑法において平滑指数を適当に小さく取るかする場合には、調節はオーバーシュートすることなく、外生需要に追随できる。これは、個々の調整が全体として安定的かつ定常的な全体過程を生みだすための必要条件である。このモデル分析の結論として、ある定型はそれ自体として有用性ないし有効性をもつのでははなく、それらが生成する全体過程との相互関係によって、維持可能なものになったり、廃棄すべきものとなったりするということである。「ミクロとマクロ、社会と個人の間の二重の規定関係」において考察が進められなければならない有力な理由がここにある。第5章は、このような観察を温めつつ行われた長い思索の成果である。

 モデル分析をのぞけば、日本の理論研究は、得てしてテキストを引用しつつ、先行研究の長い紹介を行い、そのなかにいくらか自説を注釈として付け加えるという形をとっている。森岡論文は、第5節に簡単に紹介されている高度に技術的な数学モデルの分析を背後に置きながら、過度にそれに立ち入ることなく、文学的表現によってその核心を伝え、さらにそれらの分析結果を敷延して、この論文をまとめ上げている。進化と定常性に関する森岡の考察は、第2章で藤本隆宏が「作業標準や官僚制的な保守的なメカニズムも、進化の重要な構成要素である、という一見逆説的な考え方が導かれる」とした事態に呼応するものでもある。

4.金融市場の進化論的考察/第3部

第2部では、制度や定型行動など、比較的長い時間尺度において不変であり、反復されるものを取り上げた。進化という方法は、このような長期の持続的な変化についてのみ有効なものであろうか。そうではない。第3部の各章は、金融市場における激しい価格変化を対象として、そこに進化経済学的考察を加えている。進化という方法の幅ひろい有効性がこの第3部によって証明されている。  

従来、金融市場はワルラス型の均衡分析にもっとも適するものと考えられてきた。しかし、そのような市場観が当てはまるのは、証券取引所における板寄せなどの場面に限られる[6]。成立した市場価格がいかなる変動を示すか分析しようとするとき、均衡論的考察は、ほとんど妥当性をもたない。株価指数や為替レートは、ある一定の均衡価格の回りに確率的に変動する時系列ではない。金融市場の価格変動の特性については、第7章の分析に譲るが、簡単にいうとそれは「高い頂点と厚い裾野」(high peak, fat tail)と特徴付けられる。言い換えると、変動率(前日比の対数)は、おおまかには釣鐘状の分布を取るが、それは正確には正規分布ではなく、中心ではより高い頂点をもち、中心から離れたところでは厚い裾野をひいている。

これが単なる数学上の詳細でないことは、次の点に留意すると分かる。変動率が正規分布であるとすると、標準偏差の5倍以上の(上または下への)変動はほとんど起こることがないと無視することができる。実際、このような事象がおこる確率は3.48×10^6[編集用注:3.48掛ける10の6乗]日つまり348万日に1回起こる程度である。100年間が36,524日か36,525日であることを考えると、このような事態は、約1万年に1回起こるか起こらないかということになる。ところが、金融市場では、標準偏差の数倍という変動は数年の幅でかなり頻繁に起こっている。フラクタル幾何学を始めたマンデルブロート(Mandelbrot,1999)があげている例をひくと、1998年9月のアルカテル社(フランスの情報通信会社)の株価は1日に40%も下落したが、これは標準偏差の10倍もの変動にあたる。このような変動は、実に6.6×10^22[編集用注:6.6掛ける10の22乗]日に一回程度しか起こらない確率である。これは180億年を100億回繰り返して一回起こる確率である。このような確率は、実際的には無視してよいはずであるが、そうはならないところに金融市場の特性がある。

 このことは経済的にも重大な帰結をもたらす。数年に一回、このような大きな変動がおこると、価格変動は正規分布にしたがうものとして計算してきた投機家は倒産の憂き目に遭わざるをえない。1997年にノーベル経済学賞をもらったマートンとショールズが共同経営者として参画したヘッジ・ファンドLTCM(ロング・ターム・キャピタル・マネジメント)が設立後5年あまりで破綻したことはきわめて象徴的である。日々の管理に問題がないとしても、数年に一回起こるが、理論上は無視されている危険に対し、金融工学は基本的に対応できないのである。

第6章「不確実性下での期待形成と仮説の進化/為替相場における期待形成を通して」は、もっとも流動的な金融市場である為替市場に対して、進化経済学的な考察を試みたものである。著者吉地望は、ケインズを継いで金融市場における期待の役割を重要視するが、期待形成の諸学説がしばしば取ってきたのとはまったく異なる形でそれを捉えようとしている。かれは何が正しい「期待形成仮説」であるか、というように問題を立てない。さまざまな「期待形成仮説」を検討する中で、かれは期待形成仮説そのものが進化するものであることに気づく。吉地がとくに力を入れるのは、ファンダメンタルズ理論である。これは、ファンダメンタルズにより定められる「あるべき価格」が存在すると考え、市場価格は長期的にはこの価格水準に近づくという期待をもつか、すくなくともファンダメンタルズに注目することで価格の騰落傾向を予想できると信ずる、すべての仮説・分析手法に対する総称である。この理論において重要なのは、@なにをファンダメンダルズと取るか(ファンダメンタルズ変数の集合)、Aそれらファンダメンタルズをどう解釈するか(解釈仮説ないし解釈モデル)である[7]。吉地は、この両者ともに多義的かつ不明瞭であることを詳細に指摘し、「ファンダメンタルズは客観的実在というよりは、われわれ観念が作り出したものである」と結論する。このような状況では、期待形成仮説はなにが真であるか判定がつかないだけでなく、真なる仮説そのものが存在しないということになる。金融市場では、さまざまな仮説がそれ以前の仮説にとって変わる形で登場するが、それはまさに進化でしかなく、真理への接近ではない。

このような結論に至るあたって重要な役割を果たしているのが、ジョージ・ソロスの「再帰性」=「相互作用性」概念(原語は"reflexivity")である。「人々の期待(信念)が経済現象と相互規定的な関係をもっている」のである。このような再帰性に着目した最初の重要な経済学者がケインズであったことはよく知られている。しかし、「美人投票」にかんするケインズの説明は、推測ゲームに終わっている。より重要なのは、プロの投資家たちが大衆の心理を読んで投資すると注意するとき、その大衆の仮説や見込み(つまりケインズのいうかれらの「慣習」)が市場の価格を決めているということである。このような慣習の担い手として、吉地は専門家と大衆とを区別しない。専門家たち意思決定にもちいるさまざまな手法を紹介・検討したあと、特定の理論が「特定の時期に権威を帯びた理論として現れる」ことに注目する。新しい理論がより真理に近いからではなく、先行理論の権威が失墜するとき、なにかの理論がそれに取って代わらなければならない。これこそが期待形成の諸仮説や意思決定理論が進化する基本的な機構である。複雑な課題環境においては、それを理解する理論自体が進化論的にしか理解できないのである。

吉地望の研究は、学説批判に終わるものではない。吉地が示しているのは、ひとびとが金融市場の価格変化についていだくさまざまな理論や意思決定方式そのものが金融市場の重要な構成要素であるということである。このような考察の上に立って、初めて均衡理論のくびきから離れることができる。本節の最初に引いた「高い頂上と厚い裾野」に代表される、特異的に大きな価格変動を理解する基礎がここにある。

 意思決定の慣習の中には、自己実現的予言として働くものがある。吉地は、「テクニカル分析を採用する主体の増加は、テクニカル相場を形成する」と指摘する。「不安とストレス」の中で、ディーラーは「権威に帰依」したがる。権威ある理論が自己実現的予言として働くと、理論は市場の事実によって強化される。その結果、権威はより強化される。このような理論ないし予想形成方式が自己強化的に作用する場合を考えよう。たとえば、価格上昇の期待が現実に価格上昇をもたらし(自己実現的予言効果)、その結果、この期待が多くの人々に受け入れられるようになると、価格はますます上昇する(自己強化効果)。株価の場合、急速な価格の下落は、ひとびとに過剰な反応を引き起こす。反応が反応を、価格下落が価格下落を引き起こす。通常の取引時における価格変動の標準偏差の数倍もの下落がしばしば起こるのは、予言の自己実現効果と市場の反応の自己強化効果とがともに働くからである。標準偏差の5倍以上の変動がしばしば(といっても、数年に1回)起こるのは、このような機構が働く結果である。正規分布は多数のことなる変化要因がそれぞれ独立にかつ加算的に働いているときに出現する。しかし、自己強化効果が現れると、諸要因が一方向に一斉に働く。それが標準偏差の数倍もの変動率をしばしばもたらすのである。このような機構はソロスによっても考察されているが、吉地が注意しているように、わたしはそれがミクロ・マクロ・ループの一類型と見なすことができると考えている。

第7章「経済のゆらぎとフラクタル」は、TOPIX(東京証券市場株価指数)の15年間の時系列データ(日次データ3885個)をもとに、相関次元分析を試みたものである。時系列のこうした分析手法は、主として物理学の方面で開発されたものだが、中島義裕の研究は、株価指数という金融市場の時系列がもつ特異な性質をはからずも発見するものとなっている。相関次元の計測方法については本文を参照してもらうことにして、その意味を簡単に紹介しよう。

 いま決定論的に生成されたk変数の時系列T(k)[編集用注:(k)は下付き添字]をひとつ考えよう。時間を独立変数とするk変数の力学系(時刻によって係数の変化しない微分方程式系や差分方程式系)の解を想定してもらえればよい[8]。これは、ある次元をもった軌道を描いている。それは、長期にはある閉集合に巻き付いていく。これをアトラクターという。その次元をmとしてみよう。アトラクターの次元mはそれらを内包する空間の次元kよりとうぜん小さいか等しいが、アトラクター集合がフラクタル構造を取る場合には、mが整数になるとはかぎらない。いま、われわれの手元に、ある1変数の時系列T(1)[編集用注:(1)は下付き添字]があって、それは多次元の時系列T(k)[編集用注:(k)は下付き添字]をある方向に射影した結果であるとする。このとき、T(1)[編集用注:(1)は下付き添字]を分析することによって、もとの時系列T(k)[編集用注:(k)は下付き添字]の軌道の次元mを推定することができるだろうか。いったん、ある方向に射影してしまったら、多くの情報が失われてしまっているから、一見そのようなことは不可能に思える。しかし、Takensの埋め込みという手法を使うと、軌道集合の性質が不完全ながらかなり見えてくる。それが相関次元である。ただ、T(1)[編集用注:(1)は下付き添字]からT(k)[編集用注:(k)は下付き添字]を復元する方法は完全ではないので、同じ時系列を使っても、埋め込みの次数が代わると相関次元は変わってくる。

さて、あらたにある一変数の時系列X(1)[編集用注:(1)は下付き添字]が与えられたとしよう。たとえば、それが東証株価指数であるとする。もしこれが決定論的に生成された時系列の1変数への射影であるなら、埋め込み次元が何であれ、もとの時系列の軌道集合の次元mを超えることはなく、埋め込み次元を上げていくと、相関次元はしだいに飽和してくる。これに対し、時系列X(1)[編集用注:(1)は下付き添字]の階差が正規分布になるような系列のときには、埋め込み次元を上げていくと、相関次元も比例的に上がっていく。したがって、ある正体不明の時系列が与えられたとき、相関次元分析を行うことにより、その時系列がどのくらい決定論的であるか、確率論的であるか、判定することができる。

中島の計測によると、TOPIXデータの場合、決定論的とも確率論的とも判定されない。この事態は、埋め込み次元を対数尺度に取り直すともっとはっきりする。この片対数座標に相関次元をプロットすると、確率論的なホワイト・ノイズでは、グラフは下に凸となる。決定論的時系列の射影となっているものでは、グラフは上に凸となる。ところがTOPIXデータでは、相関次元は埋め込み次元の対数に比例的に増大する。このことは、TOPIXが確率論的でも、決定論的でもないことを意味している。

中島義裕の計測結果には、いくつかの重要な含意がある。第一に、変数の数をいくら増やそうとも、微分方程式や差分方程式で精度良く表現することはできない。経済学への新規参入者には、しばしば、うまくやりさえすれば、経済時系列をある種の力学系の解(の射影)として表現できるにちがいないと考える人がいる。しかし、そのようなことは、株価指数時系列の性質として不可能である。第二は、株価指数時系列は、ホワイト・ノイズに代表されるような、多数の独立な要因に基づく変動を加算したものでもない。どのような相関か特定されはしないが、その時系列にはある程度の時系列相関があることがわかる。中島は、さらにTOPIXデータに関し、「時系列の構造と埋め込み次元の間にスケール則が成り立っている」ことに注意する。そこから中島は、第6章の吉地論文を引きながら、いかなるファンダメンタルズの集合を選ぼうと恣意的であり、ファンダメンタルズとそうでないものとの境界がフラクタル的にあいまいにならざるを得ない理由と考えている。

中島は、最後に、郡司P幸夫や貞岡久里を引いて、自己言及性に触れている。多分、その先には、内部観測の問題がからんでこよう。複雑な課題環境においては、それを理解する理論自体が進化論的にしか理解できないという事情がある。金融市場では、再帰性(reflexivity)、自己言及性、あるいはミクロ・マクロ・ループという事情を介して理論が現実を規定するという関係をも無視できない。この意味で金融市場は内部観測論の格好の競技場になると思われる。

第8章「市場を理解するために/行為、メカニズム、制度の視点から」は、1997年のアジア金融危機に関する主流の言説の紹介と批判を通して、1970年代以降生まれてきた新古典派経済学の新しい流れの理論的破綻をあきらかにしている。1970年代以降、新古典派理論は大きく変貌し、その新しい様相からみれば、1960年代までの新古典派理論がいささか古びたもののように見える。新古典派の経済学者の中には、このことをもって「経済学は変わった」と強調するものもいる。第8章の著者竹田茂夫は、1970年代以降叢生した新古典派理論(取引費用の経済学、情報の経済学、プリンシパル・エージェント理論、実物的景気循環論、内生的成長理論、交渉ゲーム理論、インセンティブ両立的な制度設計、比較制度分析など)を「マイクロエコノミックス・マークU[編集用注:時計数字の2」と呼び、批判の的としてきた(Takeda, 1998)。本章でも、その批判の矢音は高く、クルーグマン、スティグリッツ、青木昌彦など日本でもよく知られた論客が切り捨てられている。

1997年のアジア金融危機を主流の経済学はどう説明したのであろうか。クルーグマンとスティグリッツでは、その原因に関する判断においても、処方箋においても、するどく対立している。にもかかわらず、ふたりの間には重要な一致が見られる。それは一般均衡の達成と安定性への信念である。アジア金融危機に関しては、特別の問題として「危機の伝染」という事態もある。なぜ、このような事態が生じたのであろうか。世界銀行報告は、伝染に3つの経路を認めているが、経済主体の合理性を前提するとき、支配的な考え方は合成の誤謬に基づくものとなる。これは均衡が複数存在することをもちいて、個人の合理性から社会の非合理性を導きだすトリックである。ポスト・ケインズ派には主流派とは異なる市場観があるものの、貨幣がどのような社会化の原理なのか問うことができていない。竹田は、こう注釈する。

アジア金融危機が経済学に提起した問題は、「制度の意味をどのように考えるか」である。主流の経済学でも、現在は「制度が重要だ」という標語が市民権を得ているが、その関心は市場と政府の関係に偏っている。比較制度分析は、青木昌彦によって先導されていいる、現在もっとも生産的な研究グループのひとつである。これに対しても竹田の批判は厳しい。比較制度分析は、制度の全体を個々の制度部品に分解し、それらを結び付けるものとして情報とインセンティヴと交渉・契約の3つをもってくる。竹田は、この3つがマイクロエコノミックス・マークU[編集用注:時計数字の2]の中心的な操作概念であると指摘し、方法論上の弱点から現状認識、政策含意にまで及ぶ全面的な批判を展開している。

竹田の批判は激しいが、それは学問の進歩に関する方法論に根差したものであろう。かれは実証やモデル分析だけでなく、というよりそれらを越えてなによりも「批判」という方法が学問の進歩に果たす役割を信じているように見える。だが、かれは批判するだけではない。論文の最後に自分自身の代替的「研究プログラム」を竹田は提案している。市場をいかに理解するか、これが経済学の中心テーマである。かれはこの主題を

 @市場という制度をささえているのはどのような社会原理あるいは行為類型か、

 A市場はどのように作動するか、

B市場と他の制度はどのような関係があるか、

[編集用注:第2字目は、マル1、マル2、マル3]

という3つの基本問題から考えていこうとする。「われわれが現在もっている市場理論は、さまざまな経済学の流派の理論やモデル、歴史学や経済学や社会学からのnarrativeやイメージの雑多な寄せ集めである」という反省にたって、竹田は以下の3つのレベルでの研究を提案する。

 (1)経済行為の解明のためのフィールド・ワーク

 (2)メカニズムの理論と行為連関の解明

 (3)制度的不確定性の具体的分析

第一レベルでは、竹田は「経済行為の当事者や当事者に近い視点からのparticipant-observation」 を推奨する。かれはそれを「経済学における文化人類学的アプローチ」とも呼ぶ。労働過程論以外では、田中泰輔やソロスに注目し、ファイナンス理論におけるマイクロ・ストラクチャーの分野でも、このような観点からのフィールド・ワークが欠かせないと説く。

第二のレベルでは、まず、行為連関が「意図せざる結果を不断に生み出す」ことに注意し、意図と意味とをもつ行為連関がどのような条件のもとで外部から考察可能な「客観的な」メカニズムとして捉えることができるかと問いかける。ここの言葉使いは、竹田特有のもので、短いスケッチからはその本当の意味を把握しにくいが、これまで価格だけが「重要な情報媒体」と考えられてきたのに対し、貨幣や在庫の情報作用に着目する提案は注目される。本書の森岡真史論文(第5章)は、一部このような視点にたって展開されているし、わたしも塩沢由典(1997)の第6章「システム2元論の誤謬」において、同趣旨の方向を探ったことがある。意図と意味とをもつ行為の次元を広くは世界大の繋がりをもつ経済の総過程の次元にいかに接続するかは、均衡分析を捨てて過程分析を取ろうとするとき、きわめて重要な問題である。

なお、竹田の議論で鍵となる「行為連関」についてあまり詳しい説明がないが、本章の冒頭でそれを「行為と思惑の連関」と言い換えている点がヒントになる。ソロスの再帰性=相互作用性の議論における同じように、ここには、「思惑」と「行為」、さらにはその効果としての市場における「結果」などとの相互連関が考えられているのであろう。そこにはソロスや本書の吉地望論文(第6章)で問題にされている「真理性」概念の問題点までが含まれなければならないだろう。竹田が「客観的」分析に対する警戒をつねに発し続ける理由もそのあたりにあるに違いない。

 第三のレベルの「制度的不確定性」も耳慣れない言葉だが、市場取引の基礎となる「所有」がわれわれが日頃そう思い込んでいるように「確定した」ものではなく、じつは「法制度が規定するさまざまな権限の束」であり、その束の決定自体が「社会的諸力の交錯する場」での交渉結果である以上、権限の束を所与で確定したものと見ることはできないということを意味している。本書第3章で丹沢安治は、「プロパティ・ライツ理論」が状況の変化によって所有権=財産権の内容を変えるものとみていることを紹介している。制度的不確定性は、それと合わせて考えると理解しやすい。竹田は、本章の第5節で、経済学者の「契約」や「交渉」の概念を法学者のマクニールの「関係的契約」と比較して、後者には「拡張された概念とその概念が表現しようとする事実との間に緊張関係が意識されることが多い」のに対し、前者にはそのような緊張関係が感じられないと批判している。竹田にはこの方面でも一層の展開を期待したい。

5.むすびと期待

進化経済学は、経済の諸現象を「進化」という観点から見直すという方法を軸としている。旧来の経済学的方法では扱えなかった商品・行動・技術・制度などの進化を主題とする研究がその中心にくるべきものであろう。進化経済学という取り組みにまず期待されるものは、新しい方法の導入による分析領域の拡大あるいは開拓である。このような方法ないし視点により、経済のダイナミックな変化や発展、思わぬ破綻や閉塞、長期の歴史的進展を理解する手掛かりをつかみたい。これが進化経済学に志向するものの共通のもくろみであろう。

 進化経済学は、しかし、領域の拡大のみを意味するものではない。それは、領域拡大と同時に、既存の経済分析を革新しようとする運動でもある。すくなくともわたしはそう考えている。ただ、こうした目標自体が、進化経済学会のひとつの重要な争点であろう。

 現在主流の新古典派経済学は、1970年代以降、その話題を大きく変化させた。竹田茂夫はこの新しく進化した経済学をマイクロ・エコノミックス・マークU[編集用注:最後の文字は時計数字の2]と呼んでいる。ここには限定合理性の概念や組織・制度といった話題が取り入れられ、進化ゲームそのものが主要な理論装置として機能している。この事態は、新古典派経済学が進化経済学の目指す方向に一段と近づいたと解釈することもできる。過去の積み上げとその延長線上にしか学問の進歩がないという考えからは、進化経済学は、新古典派経済学のこうした新しい方向との協力関係を強めるべきだという戦略が生まれてこよう。それが、進化経済学のみならず、経済学一般の一層の発展をもたらす道であるという考えがある。

 進化経済学の独自性を強調する立場からは、これとはまったく反対の考え方もありうる。新古典派の経済学には、その新しい様相においても、基本的に欠けるところがあり、進化経済学は、理論の構成における新たな枠組みを提示するものでなければならない、というものである。新しい様相においても、新古典派のミクロ経済学が「均衡」という枠組みを特権化しているという事態はかわらない。第一次近似としておいたはずの設定にそれはみずから足を掬われている。旧来の新古典派が制度を問題にせず、方法的には完全合理的な個人を想定せざるを得なかったのは、このような理論枠組みの帰結である。そのような枠組みの中に新しい話題や観点を盛り込もうとして、新古典派の経済学はむしろ内的矛盾を大きくしている。こう判断することも可能である。この判断からは、経済学は、今後大きく変わらざるをえず、進化経済学はその先導者でなければならない、という立場が生まれる。

 編者であるわたしは後者の立場にたっている。本書は、主として、そのような立場から、進化経済学の可能性を探ったものである。第一部藤本論文は、事後的な発見という新しい議題を提起している。第二部では、オーストリアンの流れを汲む二人の対比的な議論を通して進化という方法と均衡という枠組みとの相互関係がより明確になった。第三部は、金融市場という、いっけん進化とは無縁と思われる領域においても、進化という方法が有効でありうることを示している。均衡という枠組みから離れて思考してみることが、対象に迫るべき新しい切り口を開示してくれる。本書は、進化経済学が経済学の革新の先導者でなければならないというばかりでなく、それが現実に可能であるということをも部分的に示すものとなっている。今後、本書の各論文を刺激として、新しい研究の進展を望みたい。編者であるわたしとしては、本書には、そうしうるだけの示唆に富んだ諸論文が集まったと考えている。そういう判断とは別に、そのような志向自体に対する対立があることを率直に認めたい。

 進化経済学会は、一枚岩ではない。ここには、わたしのように革新の立場にたつものもいれば、新古典派と総合の上にこそ、新しい発展があると考える人もいる。そのどちらとも、決めかねている人もいる。学会は、それら異なる立場の人達の有効な討論の場でなければならない。本書の2つの論文が指摘しているように、相互に排除的な関係にあっても、2種の複製子の優劣は簡単につくものではない。このことは、まさに、理論的立場の対立にも当てはまる。わたしは、この一冊が経済学の革新に一石を投ずるものと考えているが、もちろんこの一冊において、経済学の将来がいかにあるべきかという戦略問題に決着がつくものではない。とうぶんの間、ふたつの戦略の対立・競合状態が続くことになろう。進化経済学会にとってのひとつの試練は、このような立場の対立をうまく生かすだけの伝統を作り出せるかどうかであろう。

かつてのマルクス経済学は、新古典派やケインズ派、オーストリアンの経済学にたいし、そのイデオロギー性を暴露するという戦略をとった。非難の言説は激しかったが、その激しさと一体のものとして、教条主義と硬直した態度とがあった。おおくの可能性を含みながら、結局、そのことがみずからの理論を発展させる可能性を閉ざしてしまった。進化経済学会に内包されている立場の対立が、かつての不毛な対立を繰り返すものであってはならない。しかし、対立する考えがこの学会でたんに平和に共存していくことでは十分ではない。わたしの希望は、対立する両者がたがいに競争しあって、生産的な討論を展開することである。そのようにして初めて、討論の場としての学会が生きるものになろう。議論をあいまいにし、オブラートに包むことから、新たな展開は生まれない。スタニスラフ・アンドレスキー(1983)は、社会に関する深い認識は、熾烈な討論の中から生まれたと指摘している。進化経済学会が、そのような深い認識を生みだす熾烈な討論の場となることをわたしは期待している。その第一歩として、本書の全体およびその各論文に対する厳しい批判を歓迎する。

[1]わたしは、方法論的全体主義=丹沢のいう方法論的集団主義にもたたない。この点については、塩沢(1997)第3章他をみよ。わたしの立場は、ミクロ・マクロ・ループに注目すると、方法論的個人主義も方法論的全体主義も支持しえないというものである。

[2]この点については、塩沢由典(1999)を見よ。

[3]藤本隆宏の「厳しい淘汰」と「緩やかな淘汰」という対比(第2章)と丹沢安治の「強い進化」と「弱い進化観」という区別(第3章)とは、よく似ている。しかし、両者をおなじ対立概念の別の呼び方と見なすことはできない。その違いは「緩やかな淘汰」と「弱い進化観」とを比較してみれば分かりやすい。丹沢の「弱い進化観」では、現状が最適なものと比較された上で、選択の圧力はつねに働いているが、かならずしも最適なものが実現している(残存している)とはかぎらない点が強調される。これに対し、藤本の「緩やかな淘汰」では、選択の圧力はつねに働いているとしても、二者択一の選択がつねに働くわけではないことが基本的な了解である。緩やかな淘汰では、遺伝的多型が共存ないし混在しうる。厳しい淘汰のもとでも、最適なものが出現しているとは限らないとすれば、厳しい淘汰と弱い進化観とは両立する。これに対し、強い進化観は、最適でないもの以外、すべてのヴァリアントは消滅するので、緩やかな淘汰とは両立しない。わたしには、弱い進化観と緩やかな淘汰の二つの視点がともに必要と思われる。塩沢(1998)第6節・第8節参照。

[4]このような前提がシュンペータやハーン自身の考察に矛盾するものであることに彼らは気づいていない。シュンペータは、ab ovoの構成に語る前に、経験の意義や繰り返しが経済機構の円滑な働きのために必要なことに言及している。Hahn(1984)第1章・第2章には、ルーティン行動への言及や「均衡」を仮説が覆されない状態とするという考察がある。しかし、それらがab ovoの構成と両立しなものであることに十分自覚的でない。この点については、塩沢由典(1997)第7章「定常性の第一義性」を参照せよ。

[5]「政治経済学を考える会」(1998)の諸論文およびそれらに対するわたしの応答をみよ。

[6]個別銘柄ごとに板寄せして値付けするのであるから、証券市場といえども(ワルラスが仮定せざるを得なかったたように)すべての市場で需給が一致する「一般」均衡ではない。

[7]これは森岡真史が第5章第3節で提出した意思決定過程の2段階(状況の類型化と決定・行為への変換規則)に対応している。

[8]より正確には、時刻によって係数の変化しない方程式系で、その初期値問題が適切におかれているもの(well posed)といった仮定をおく必要がある。

[参考文献]

S.アンドレスキー(1983)『社会科学の神話』矢沢修次郎・熊沢苑子訳、日本経済新聞社。植村高久(1997)『制度と資本/マルクスから経済秩序へ』御茶の水書房。

「政治経済学を考える研究会」編(1998)「シンポジウム:複雑性・合理性・定常性をめぐって」『経済学雑誌』(大阪市立大学)第98巻第5・6号、3月、pp.1-128。 

黒田末寿(1999)『人類進化再考/社会生成の考古学』以文社。

塩沢由典(1990)『市場の秩序学/反均衡から複雑系へ』筑摩書房。

塩沢由典(1997)『複雑さの帰結/複雑系経済学試論』NTT出版。

塩沢由典(1998)「複雑系と進化」進化経済学会編『進化経済学とはなにか』有斐閣、第8章。

塩沢由典(1999)「当事者視点の導入は、経済学をどこに導くか/植村高久『制度と資本』の大構想をめぐって」『経済学論集』(東京大学)第65巻第1号、4月、pp.71-93。

J.A.シュンペータ(1977)『経済発展の理論』(上、下)、塩野谷祐一・中山伊知郎・東畑精一訳、岩波文庫。

藤本隆宏(1997)『生産システムの進化論/トヨタ自動車にみる組織能力と創発プロセス』有斐閣。

森岡真史(1991-92)「短期調整過程の2類型(1)−(2)」『経済論叢』(京都大学)第148巻第4-6号、pp.140-61;第149巻第1-3号、pp.79-96。

F.Hahn(1984)Equilibrium and Macroeconomics[編集用注:下線部は、イタリック], Basil Blackwell: Oxford.

B.B.Mandelbrot(1999)"A Multifractal Walk down Wall Street", Scientific American[編集用注:下線部は、イタリック],February 1999,pp.50-53.  

S.Takeda(1998)Community and Strategy: Critical Notes on the Post-Wlrassian Microeconomics, Working Paper, Institute of Comparative Economic Studies, Hosei University.





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