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哲学カフェに関する論説

ここには哲学カフェに関する論説や評論、書評などを取り上げてみました。多くは、検索エンジン(google)で「哲学カフェ」を引いてヒットした記事のうち、面白そうなものを集めたものです。(塩沢由典)
福田定良『堅気の哲学』藍書房
朝日新聞書評 [掲載]2005年03月20日 [評者]鷲田清一
哲学の言葉というのは、なんだかえらそうにしている。やたら大上段に構えたり、だれにも見えていないものを見えるようにすると見得(みえ)を切ったり、まるで検問官のように、根源性とか深さ、厳密性とか不変といったものさしで他の知のいとなみをねちねち問い詰めたり。
 この「大哲学」に一貫して反旗を翻したのが福田定良だった。ひとびとが暮らしのなかでつきあたっている問題から始める。概念を振りかざすのでなく、ともに言葉を探しながら、考えの道筋を見つけてゆく。今でいう「哲学カフェ」のような小さな運動を、会社員や主婦とともに進めてきた。・・・
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 堅気をそのいいかげんさも含めてサポートするために、哲学を哲学でなくなるぎりぎりのところにまで引っぱっていったこの試み、鶴見俊輔にならって、「限界哲学」と呼んでみたい。

塩沢>>福田定良は、鶴見俊輔とともに日本における哲学カフェの創始者といえます。

師の哲学から兄弟の哲学へ
フランソワ・ビュスネル 『エクスプレス』2001年8月30日号
現在では哲学は、仲間内しかわからない言葉遣いをやめて、友好的で、すべてのひとが近付けるものになった。哲学はもやは世界を変えようとはしない。わたしたちを幸福にしようとするのである。昔の哲学者たちは師としての思想家だったが、今では兄弟のような思想家になっている。
ヴァカンスも終わったが、グッドニュースがある。フランスじゅうがロフト・ストーリーのヒーローに目を奪われていたあいだに、そしてインターネットではのぞき趣味の広告が流行しているあいだに、図書館では着実に書籍を購入していた。たとえばロジェ・ポル・ラポルトの『日常哲学の百一の経験』とミシェル・オンフレーの『反哲学マニュアル』は、どちらも五万部も売れているのである。そしてこれも手始めにすぎない。わたしたちに「善く生きる」ことを教えてくれる哲学が、力を取り戻しているのである。
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一方で、概念についての厳密な検討を行って、大学のエリート向けのわかりにくい書物を刊行する哲学者にたいする批判がある。師としての哲学者たちは体系と理論の巨大な砦である象牙の塔に逃げ込んでいながら、それでも世界、経済、政治を変えるのだと自称していた。他方で・・・
・・・1990年代の始めからは、モラリストが前面に登場して、人々に媚びたような口当たりのよいレシピを乱発した。「自己の発見」とやらを唱え、悪しき世紀の悪をふせぐ奇蹟のワクチンであるかのように、服用を勧めるのだった。
この方式は、あまりにやすやすと成功できたので、エピゴーネンのうちには、街に降りて、哲学カフェとやらを開き、飲み物なども手しながら、商売を始めるやからも現れた。仕事、哲学、ねんね(笑)。世界でもトランキライザーの消費量のもっとも多い国であるフランスは、処方を濫用しすぎたのは明らかだ。
しかしこうした哲学者たちは、もう古くなっている。現在では新しい哲学のしかたが登場している。古代哲学の精神を再発見するために、ほんとうの意味での哲学へと復帰しようとているのだ。しかし古代哲学との違いのニュアンスはおおきい。古代哲学は、甘く、友好的で、役にたち、断固として現在へと向かっていた。「能動的な」哲学であり、「学問分野」としての哲学ではなかった。ドグマや専門用語などとは縁のない哲学だった。
・・・
この新しい哲学が目指しているのは、より善き生の条件を発見することである。この哲学は、わたしたちは望むように世界を変えることはできないのだから、人間を変えるようにしよう、人間にこのままの世界でより善く生きることを教えようと考える。この哲学の方法論は、わたしたちを苦しめる問題の原因について話しながら、わたしたちを力づけようとすることにある。師の哲学者のあとで、兄弟の哲学者が登場したわけである。
(続く)
ポリロゴス事務局 中山元訳

塩沢>>最近のフランスにおける哲学状況の紹介ですが、哲学カフェにも、なかなか厳しいですね。でも、最後の段落はブッダの教えにちょっと似ていませんか。

健康都市と応用哲学への期待
社団法人日本WHO協会 常務理事 奥山文朗
はじめに:健康まちづくりと都市の哲学を
今回は、<都市プランナーから哲学者への問いかけ>ということで発題させていただきます。・・・都市プランナーとして<都市の哲学>を遅まきながら求めたいと望みます。とともに日本の哲学者も余りに<都市のあり方>に無関心でありはしないか、と問いかけます。・・・
1 都市と健康は結びづくか
2 日本に市民やコミュニティは成立するか
3 応用哲学への期待
3-1 いま、ここで「哲学」に何を求めるか
『○○の哲学』をよく見かけるようになりました。桑子敏雄の『感性の哲学』『環境の哲学』は示唆に富んでいます。大阪大学には「臨床哲学」の研究室があり、鷲田清一は「社会の臨床的な場面で、哲学にいったい何ができるのか」、臨床(klinikos)とは「ひとびとが苦しみ、横たわっているその場所をさす」と言い、「生」のあり方を思考する倫理学とも共に歩みます。ある対象を哲学するというのは、その本質を見究め、意味や価値を掘起こすことです。普遍的な原理を導き出し、体系へと構築することが期待されます。しかも的確な概念を明示し、言語表現することが求められます。臨床や応用の場面では、普遍性よりも個別性が優先され、即対応が必要であり、常に解決を要します。それでも健康や都市に限っても今、ここで時代先行する思想が欲しいのも事実です。
ある意味で近代科学を超克できるのは、宗教と哲学ではないかとも期待します。医科学の発展は目覚しいのに、医療学が成立しているようには見えません。まして医者学の独占は甚だしいのに、患者学は不在です。主体と対象を動的な相互関係と観察できるのは、哲学であって科学は不得手のようです。政策化の過程では、科学的であることも大事だが、市民参加が不可欠の今日、参加の動機づけこそ哲学の役割です。

3-2 アカデミック哲学からフィールド哲学へ
素人感覚からいえば哲学は、ひたすらアカデミズムに固執し、<生活現場>に立入ろうとしないように見えます。哲学には自明のものを疑うという思考習慣がある反面、都市や健康など概念不明というか、不確定なものに挑む気概が乏しいようにも思われます。臨床やフィールドに根ざさない健康論や都市論は役に立ちません。シカゴの AIR 運動になぞらえれば、PIR(Philosopher in Residence)が求められ、「書を持って街に出よう」と呼びかけます。「哲学カフェ」の隆盛を大いに喜んでいます。大学内でも市民を呼び込んで「哲学サロン」を盛大に開いて欲しいものです。
 例えば「まちづくり塾」で語れる哲学者を待望します。向都性向といわれる都市に人々が集まるのはどうしてか、哲学的解答があるはずです(社会学からのアプローチも明快とは言えません)。つまり<都市の魅力>とは何かを哲学したいのです。痩せたソクラテスのイメージが強すぎるのか、健康な哲学者(特に精神面)に出会う機会の少ないのも気掛かりです。哲学では安心を語るよりも、不安に関心が強いようです。アランは『幸福論』において「悲観主義は気分に、楽観主義は意志による」と言っています。フィールドとして、まちづくり現場や病院、福祉施設などに出向いた時、哲学者はどのように振舞うのか興味があるところです。ひやかしなどではなく、逆にフィールドは哲学に何を期待するかです。私はあらゆる現場で「生きる意味や価値」を問われて何度も立往生しました。もう少し哲学を学んでおけば共に苦しむだけでなく、乗越える思考を伝え合えたのにと臍をかみました。
3-3 哲学はどこまで応用可能か
3-4健康哲学への挑戦
3-5都市と哲学との対話
結びに変えて


塩沢>>奥山さんが熱く語る哲学する市民は、大阪にいるのかも。


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